「起業25周年」。創業と卒業。

2011年のゴールデンウィーク。家族の反対を押し切り、僕は新幹線で福島駅へ行き、駅前でレンタカー(ガス欠リスクが少ないプリウス)を借りて、相馬港に向かった。

1995年の阪神淡路大震災の時も現実を自分の目で見てみたいと思ったが、関西出身でもない僕は、単なる野次馬に過ぎず、そんな迷惑な話はないだろうと思い、神戸に行くのは思い留まった。

しかし「3.11」は、僕の出身地である東北(僕は福島県郡山市の出身)に起きた大震災であり、尚且つ、福島原発事故により、福島県は「筆舌に尽くし難い」大惨事に見舞われ、僕には自分の目で確かめる権利(理由)があると思った。

テレビのニュースやYOUTUBEで散々、津波の動画や破壊された町並みを見ていたが、実際に相馬港に近づくと、その「異様な光景」に言葉を失った・・・。

あれから5年。福島県出身ではあるが東京に住み始めて30年以上になる僕は、何事も無かったかのような生活を送っている。しかし、現地には今も避難所生活を余儀なくされている方々がいることを考えると、何と言っていいのか?どう考えればいいのか?言葉に窮する。

亡くなられた方々のご冥福をお祈りすると同時に、被災された方々が新しい生活に立ち向かって行けるよう応援したい。物理的には何もできないが・・・。

ところで、3月は僕にとって、とても大切な月である。

1991年3月27日。僕は人生で初めて「会社」というものを設立した。

株式会社クリードエクセキュート(1991年3月27日設立)、株式会社インタースコープ(2000年3月9日設立)、株式会社ドリームビジョン(2006年3月4日設立)、そして、サンブリッジの仕事を始めたのが「2011年3月1日」。

そして、誕生日は「3月30日」。

今年3月で、起業してから「25年」。僕ぐらいの能力で、よくまあ今日まで、やって来れたものだ・・・というのが偽らざるを得ない心境である。

また、今年の3月は僕にとって「卒業」の年でもある。2012年10月から関わってきた「大阪 Global Innovation 創出支援事業」の契約が今月末で満了となる。

先日の「シリコンバレーツアー報告会」の時、「そうか、いよいよ終わりなんだな・・・」と思った。

正直、無理難題の連続で、スタッフ共々ヘトヘトになりながら取り組んで来た。

例えば2013年2月のカンファレンス。当初は僕が担当ではなかったが、途中から僕がKeynote スピーカーの招聘責任者となり、超過密スケジュールの500startups, Dave McClure を呼び寄せたり(結果的に、Dave は伝説となる名演説をしてくれた!)、この予算でそこまで求めるか?(失礼!)というスケジュールで毎週、東京と大阪を新幹線で往復したり(それは途中で勘弁していただいた。感謝!)。また、今年のシリコンバレーツアーでは、連れて行った学生の中の2人が現地で「インフルエンザ」に罹ってしまい、急遽、フライトをキャンセル。夜中に救急病院に連れて行ったりと、まあ、楽しいツアーだったw。

身体は勿論、心も酷使した3年6ヶ月だったが、それなりの成果も出ており、胸を張っていいと思っている。

もし、10年後、大阪に「Global Startup Community」が出来ていたとしたら(そう簡単ではない)、それは紛れも無く、橋下さんの功績である。

行政としては、前代未聞な政策であり、他の自治体も大阪市の政策を参考にし、類似の施策を実施している。そんな大阪市の政策の実行に関与させていただいたことを、とても光栄に思っている。

ところで今年は、ある人と一緒にシリコンバレーで新しい会社を立ち上げる計画を進めている。

36歳の終わりにインタースコープを立ち上げた頃、後で振り返った時、「30代最後の3年間は僕の人生で2番目に高いピークになるだろう」と思ったと同時に、僕の人生のピークは「53~57歳」だろうと何の根拠もなく思ったが、事実として、37~39歳はインタースコープ急成長の3年間となり、御三家の一角に伸し上がった。

プライベートでは今年は新居も建つ。「好事魔多し」。心して掛かろうと思う。

一方、大前研一氏は「予言は自己実現する」と言っている。

36歳の時に思ったことが実現するかどうかは、自分自身の努力次第。

「幸運」に「感謝」しつつ、2人の子供たちに父親のカッコイイところを見せられるように!

「堀江さんの本」を読んで考えたこと。

このエントリーは、11/4に途中まで書いたままだったため、もう随分と前の話題になってしまったが、楽天イーグルスの日本シリーズ制覇の模様をテレビ観戦さえできなかったのは残念だった。

球団創設から9年での快挙は、素晴らしいの一言に尽きる。

「田中将大」という選手は、形容する言葉が見つからない。

無責任なファンの勝手な思いだが、メジャーリーグでダルビッシュと投げ合う勇姿を見てみたい。

ところで先日、自宅に帰る途中、ある公園の前を通った際、長男とよく遊んだ頃のことを思い出した。

僕たちの長男は現在小2で、その公園でよく遊んだのは彼がまだ未就学の頃、今から3~4年前のことだ。

しかし、その公園の前を通った時に僕の頭に思い浮かんだのは、次男の顔だった。

でも、次男はまだ1歳9ヶ月。公園に連れて行ってくれと僕にせがむ年齢にはなっていない。

あと半年から一年すると、また、あの頃のような日々が訪れるのかもしれない。

彼のためにも体力増強に努めよう!

実は、その公園の前を通ったのは、親戚の見舞いに帰省した翌日からの大阪出張からの帰りだった。

さすがにヘトヘトになっており、前向きな気持ちが保てず、ネガティブな思考に陥りがちになっていたが、長男と遊んだことを思い出し、少し気持ちが和らいだ。

また、長男が「溶連菌」に感染した疑いがあるということで、その翌日は会社を早めに出て、彼を掛かりつけの医者に連れて行き、数ヶ月ぶりに、平日の夜、家族と夕食を共にした。

ただ単に何の変哲もない平日の夕食を家族と共にしただけだったが、僕の心は弾力性を取り戻した。

そして僕は、そのことに驚いた。

28歳で起業して以来、特に、インタースコープというベンチャー企業を創業してからの数年間は、僕の人生の「95%」は「仕事」だった。

50歳になった今、体力も含めて色々な理由があるが、何を大切に思い、何に喜びを感じるかが変わって来ていると実感した。

そのことを素直に受け入れようと思う。

ところで、今月上旬、堀江さんの著書「ゼロ」~ 何もない自分に小さなイチを足していく ~ が届いた。

堀江さんの本が出ることは、cakes というアプリの読者向け先行リリースで最初の章を読んで知っていたが、実際の本を手にすると、アプリにはない「存在感」があった。

堀江さんとは、イベントでの立ち話を含めて、4~5回ほどしか会ったことがないが、2002年の秋、食事をご一緒したことがある。

とにかく、強烈なエネルギーと存在感があった。

そして、頭脳明晰なのは勿論、超が付くほど合理的で感情を挟まない人だということが伝わってきて、食事をしながら怖い思いをしていたのを憶えている。

その時の堀江さんは、まだ、オン・ザ・エッヂだったが、その後、社名をライブドアに変え、一躍、時代の寵児となっていった。

当時の堀江さんは、熱烈な支持層を持っていた一方、半ば強引なやり方やアクの強さ故か、特に、ネットベンチャー業界では、彼を敬遠する声も多かった。

僕は会食をした時の印象から、とんでもなく凄い人だと思っていたが、彼と実際に仕事をした人たちからのネガティブな声も聞いていた。

そんなことから、僕は、堀江さんの話題になった時は、どちらともつかない態度をとっていた。

それは、堀江さんを支持することで、堀江さんが持っているリスクやイメージが自分にも影響することを気にしてのことで、今にして振り返ると、すべては自分自身に対する「自信の無さ」でしかなかったと思う。

自分自身、そして自分の判断に自信と責任を持てるなら、誰に何と言われようと気にする必要はないはずだ。

これからは、そういう人間になれるように努力し、僕たちの子どもたちも、そういう人間に育つよう、僕自身が実践していこうと思う。

堀江さんの本を読んで心に響いたのは、以下の3つ。

1つは、刑務所の中で担当していた単純な仕事に対しても「どんな仕事にも創意工夫の余地がある」といい、どうすれば、決められた時間ないに、より多くの仕事ができるか?を考えて仕事をしていた、という話。

2つ目は、「自由というのは結局、自分の『心』が決める」ということ。

刑務所の中にいても、堀江さんは「自分が何かに制約されている」とは考えなかったそうだ。紙とボールペンでメルマガの原稿を書き、読者からの質問にも答え、出所後の仕事のことも考えており、囚われの身でありながら、彼の「精神」は「自由」だったという。

凄い精神力の持ち主だと思う。

3つ目は、貴重な「30代」を訴訟と服役に費やしてしまった(費やさざるを得なかった)ということだ。

その記述を読み僕は「はっ」とさせられた。

僕(たち?)にとっては、数年間の出来事のような気がしていたが、考えてみると、たしかに、これから!という油の乗り切った30代という貴重な時間を、そのような時間として過ごさなければならなかったという事実には、言葉が無かった。

おカネは失っても、一生懸命に頑張れば取り戻せるかもしれないが、一度「失ってしまった時間」は何をどうしても「取り戻すことはできない」・・・。

人生には「易きに流されて今を過ごす暇」はないのである。

ところで、11/21(木)から、出張で「ロンドン」に来ている。

ロンドンは2012年6月以来、2度目だが、僕がよく行くサンフランシスコにはない、ソリッドというか硬派な雰囲気がある。

特に友人がいるわけでもなく、前回の出張はとにかくタイトなスケジュールで、街中をぶらつくということもできず、まだまだ街の雰囲気を味わえていないが、Tokyo, New York に次いで、好きになりそうな感じがする。

このような貴重な時間を与えられていることに感謝し、より多くを吸収し、日本に帰りたい。

追伸:今回の主張に出る朝、小2の長男に「どのぐらい行っているの?」と訊かれ、「来週の木曜日までだよ」と答えると、「じゃあ、ちょうど1週間だね。でも、どうして、(家族で)旅行に行くときは、そのぐらい(長く)行けないの?」という言葉が返ってきた。

「そうだね。次にみんなで旅行に行くときは、1周間ぐらい行けるようにしようね」と答えた。

長男の言うとおりである。必ず、実現する。

僕は、今までの人生で、誰の何に貢献できたのだろうか?

今さらながら、週間 東洋経済(2013年6月15日号)の「起業 100のアイディア」という特集を読んだ。

そこにあった南場さんのインタビュー記事で心に留まった言葉を書いておこう。

「ショッピングモールを始めた時、店舗獲得のために全国行脚をしたが、足で稼いだ事業は一瞬で冷え込むことはない。営業はオールドエコノミーのすることだと思っていたが、事業の基本であることを学んだ」。

「現会長の春田真が入社した時に『会社を自分の子供のような存在にしたいのか、ある程度、切り離して発展させたいのか。南場さんが作った会社だからどちらもありうるが、どちらかに決めて欲しい』と私に言ったことがきっかけだった。(中略)
なぜ春田が私にそれを聞いていたのか。迷いを抱かせた理由が自分にあったのだろうかと考えさせられた。これは即答してはいけない、自分でちゃんと決意して答えようと思ったんです」。

「私はアップルのスティーブ・ジョブズのような天才ではない。しかし、腰が強い組織を作ったことが自分にとって一番の宝物であり、勲章だと思っている」。

僕は、今までの人生で、誰の何に貢献できたのだろうか?

備忘録として。

ところで、今日は、KLab 真田さん、リミックスポイント創業者 吉川さん、NIKKO創業者 加藤さん(シンガポール在住)の、これでもか!という、大阪出身の3人に登壇していただき、公開でのメンタリングセッションを「大阪イノベーションハブ」で開催する。

大阪には縁もゆかりもない僕だが、このような試みをすることで、大阪の若い人たちに、少しでも貢献できれば幸いである。

そして、超過密スケジュールを縫って大阪に来てくれる真田さん、吉川さん、加藤さんに、心からお礼を申し上げたい!

「アントニオ猪木の言葉」と「カッコウをつけている自分」。

「晴耕雨読」ならぬ「晴『読』雨読」生活を送っていた頃は、毎月20~22回ほどは更新していたブログを、殆ど書けなくなって久しくなる。

でも、以前のエントリーにも書いたように、僕の場合、ブログを書くことは「自分自身との対話」であり、自分と向き合い、自分の心を静める効果がある。

今年で3年目になる法政大学経営大学院の夏期集中講義の「レポートの採点」が終わったこともあり、久しぶりにブログを更新することにした。

先程、愛媛でテレファームという「ベンチャー農業(そういう言葉はないが)」を営む遠藤さんの投稿で、アントニオ猪木のエピソードを知った。以下は、そのページからの引用。

「私は新日本プロレスを旗揚げした時、一軒、一軒、キップを売って歩いた。理想のプロレスをつくり上げるために、なりふり構わず頭を下げた。

十年近くたっても、私はそれをやった。

浅草の街頭に立って売り歩き、それでもキップが残ったので一軒、一軒まわった。

なぜなら、ほかならぬ自分へのチャレンジだったからだ。

俺たちは、生まれながらに偉いのではない。

全力でぶつかり、失敗し、それでも立ち上がって、また失敗し、やっと何かをつかんだかと思ったら、虚しくも朝の露。

しかし、まだまだくたばらない。

俺には欲があるんだ、夢があるんだと向かっていく。

そうして、ちっぽけながらも、自分だけができる何かをつかんできた。

(ここまで)

人間は、誰でもミスをするし、後悔することもある。誤解もされるし、罵倒されることもある。

でも、自分が信じることがあれば、誰に何と言われようと、陰口を言われようと(僕は相手に直接モノを言わず、第三者を介して伝えようとする人間が最も好きではない)、本当の自分を理解されなかろうと、自分を曲げてはいけないし、長いものに巻かれてはいけない。

ここ最近、様々な問題があり、挫けそうになる自分を自分で励ましてきたが、アントニオ猪木の言葉を読み、僕は「まだまだ、カッコウをつけており、それを捨て去らなければダメだ!!」ということを再認識させられた。

「言うは易し、行うは難し」だが、それも「自分への挑戦」である。

ところで、今月の誕生日で、僕たちの長男は「満8歳」になる。

今の家に移り住んだ年に生まれた。

次男は、ようやく「1歳7ヶ月」。今年前半は「計5回の入退院」を「繰り返したが、おかげ様で、7月以降は入院せずに済んでいる。

正直、子育てをするには、妻も僕も「かなりの高齢」だが、こうして、素晴らしい子供たちに恵まれていることは、とても幸せなことだ。

彼らの笑顔のためにも、まだまだ頑張り続けないといけない。

ところで、日頃から大変お世話になっているサイバーエージェント・ベンチャーズが主催する「RISING EXPO」で、勝屋さんと話をする機会があった。

僕も彼のように、自分の生き方に誇りと自信を持ち、カッコウをつけず、不格好でも構わず、自分が信じる生き方を貫こう。

それ自身が「自分への挑戦」である。

追伸:1963年生まれの僕は当然、東京オリンピック(1964年)は記憶に無い。2020年の「東京オリンピック」を子供たちと見ることを励みに頑張ろう!!日本にとって大きなチャンスがやってきた!!!

新宿中村屋の「野菜カレー」。

僕と facebook で繋がっている方はご存知かもしれないが、僕たちの次男(1歳5ヶ月)は「小児喘息」を患っており、入退院を繰り返している。

今年に入ってから、既に5回も入院した。

アレルギー体質のせいか、頻繁に熱を出すし、外形に反して、病弱である。

妻は、東京生まれの東京育ちだが、彼女の両親は他界しており、いざという時に助けてくれる身内がなく、シッターさんを頼まざるを得ない。

正直に言って、相当な出費である…。

ところで、先週木曜日の朝は、僕が次男を病院に連れていき、その後は自宅に戻り、シッターさんが来るまでの間、面倒を看ていた。

彼が昼寝をしている間、久しぶりに、レトルトのカレーを食べた。

ドリームビジョンの事業を整理し、晴「耕」雨読ならぬ、「晴『読』雨読」生活をしていた頃、ほぼ毎日、新宿中村屋の「野菜カレー」を食べていた。

次の展開が描けず、精神的に辛い日々を送っていた僕にとって、スパイシーなカレーの味は忘れられない。

あの頃は、どこのスーパーで、どのカレーを安く売っているかを知っていた…w。

実は、先週の土曜日も、新宿中村屋の「野菜カレー」を食べた。

小学校は夏休みに入っており、妻と小2の長男は「課外授業(宿題)」のため、東急ハンズでやっている「万華鏡」作りに出掛けたので、子守当番の僕は、次男にご飯を食べさせつつ、レトルトのカレーを食べた。

「晴『読』雨読」生活をしていた頃、ただひたすら毎日毎日、ドラッカーやミンツバーグを読みながら、これには絶対に意味があるし、必ず、自分の中から何かが生まれる筈だと思っていたが、自分を信じて良かったと思う。

人間は、どんなに困難な状況にあっても、未来に「希望」を持つことができれば、諦めずに頑張ることができる。

自分自身の「生き方」を通じて、子供たちにも、そのことを教えられるように頑張らないと!

iPhoneからの投稿

向き合う「覚悟」。何かを得るには、何かを捨てないとね!

昨年の夏、第二子を妊娠して数ヶ月経った頃から仕事を辞めていた妻が、今月から仕事に復帰した。

長男を妊娠した頃の彼女は大学院に通っており、大学院を休学して出産し、長男が五か月ぐらいから保育園に預けて復学し、卒業(修了)した。

今回の復帰は、その時とは次元の異なるレベルの「時間と体力」のマネジメントが、夫婦共に求められるている。

お子さんがいらっしゃる方はよくご存知のとおり、子供がひとりか二人では、その負荷はまったく異なる。

ましてや我々のように「いい歳」をして子供を育てるのは、体力的に尋常ではなく厳しい。

当たり前だが、子供は一過性のものではなく、生まれたら、少なくとも成人するまで責任が発生する。

機嫌の良い時だけ相手にすれば良いというわけにはいかない。

そんな親では、いい迷惑である。

それは、会社の経営にも当てはまる。

会社を創業したら、その会社に日々向き合い、機嫌が良い時も悪い時も、相手をしていく責任が発生する。

現実と向き合っていく「覚悟」が求められる。

どこかの週刊誌のように、アッサリと連載を止めればよい(止めたことが良かったのか?色々な意見があると思う)というわけにはいかない。

何事も生む(創業する)のは簡単だけど、続ける(育てていく)のは大変である。

体力にも経済力にも時間にも、何事にも限界がある。

何かを得るには、何かを捨てないとね!(選択と集中)

iPhoneからの投稿

追伸: Innovation Weekend Grand Finale 2012 参加者絶賛募集中!
http://innovation-weekend.jp/

「復活」を期す「41歳」。

僕にとって今年で2年目になる、法政大学経営大学院イノベーション・マネジメント研究科での「夏期集中講義」が先週、終了した。

昨年の経験を踏まえてマイナーチェンジを施して臨んだが、実際に講義をしてみると、「ここはこうすれば良かったな・・・」というところがたくさんある。

何事も弛まぬ努力が必要である。

特に、人に「教える」ということは、自分で理解するのとは違い、他の人の「思考回路」と「経験値」を踏まえる必要があり、特に「経験」という「材料」があって初めて学べることがある、ということに気づいたのが、今年の最大の収穫だった。

例えば、2009年、僕が「晴耕雨読」ならぬ「晴『読』雨読」生活をしていた頃、自宅にあったドラッカーの本を手にした時、ご丁寧に「マーカー」まで引いてあったにも関わらず、僕は「読んだ記憶」すら「無かった」ということがある。

実は、僕がインタースコープというネットベンチャーを経営していた時、創業メンバーに久恒 整という「ドラッカー」オタクがいて、彼から執拗にドラッカーを読むように言われていたのだが、当時の僕は全く興味を持っていなかった。

でも、さすがに、そこまで言うなら・・・ということで、読んだのだと思うが、読んだ記憶すら残らないほど「猫に小判」だった。

2009年の「晴『読』雨読」生活の頃は、ドラッカーにしても、クリステンセンにしても、ミンツバーグにしても、一行一行が「五臓六腑」に染み渡るかのごとく、感銘を受けながら読んでいたのだが、ドリームビジョンでの「失敗(経験)」があって初めて、それらの著作で論じられていることの意味が分かるようになったということである。

ところで、先週の日曜日、香川のマンチェスターユナイテッド移籍後の初ゴールが華々しく報じられている片隅に、男子プロゴルファーの「細川和彦」選手の記事が載っていた。

細川選手は「国内メジャートーナメント2勝」を含めツアー8勝の実績を持っており、ゴルフをしている人なら誰でも知っている選手だが、彼は昨季、シード権を失った。

1999年には賞金王争いを演じ、2000年には米ツアーにも挑戦し、2位に食い込むなど活躍していたが、2001年、難病指定の潰瘍性大腸炎と診断され緊急入院。その後は、優勝から遠ざかっていたが、2005年の「日本ゴルフツアー選手権」で復活優勝を飾った。

「復活優勝」以来、また思うように活躍できずにいた細川選手は今年の「KBCオーガスタ(初優勝を決めた大会)」で、新聞記者のインタビューにこう答えていた。

「勝ちたいよね。でも、まずは5位以内に。そうすれば来週も出られる」。

結果は「3位」!!!

身体に「勤続」疲労が出てきた「41歳」だからこそ、ひとつひとつの試合の大切さが分かるのだろう。

石川遼くんだけがプロゴルファーじゃないよね!!