「創造」を忘れて消費に走る社会は必ず「衰退する」。

昨日は長男が小学校に入学して「初めての運動会」。

保育園の時は「今日は運動会!」という感じで僕も盛り上がっていたが、今年に入ってから、今までにまして忙しくしているせいか、昨日は、事前の盛り上がり無しに「はい!今日は運動会ですよ!」という感じだった。

ただ、低学年と高学年に分かれての「リレー」は迫力満点で、ついつい涙腺が危なくなった。

物事は何事もシンプルで「本気でやっている人」には心を動かされる。

あの子たちのリレーには、変な政治も駆け引きも何もない。

そのことを再認識させられた。

ところで、先週の木曜日は、元日本アジア投資(JAIC)の新家さん(現在は、保険の窓口グループ人事総務部長)と彼のJAIC時代の先輩にあたる川野さんと僕の3人で会食をした。

新家さんとは、僕と山川さんと数人の仲間で立ち上げたインタースコープを創業する直前、僕がまだ、原宿のマンションの一室で細々とベンチャーを営んでいた頃に知り合った。

僕は勿論だが、新家さんは、あの僕たちが、インターネットリサーチ業界を代表するベンチャーになったことを、感慨深く思っているはずだ。

文字通り、僕の人生は(きっと山川さんの人生も)、インタースコープの成功で変わった。

ところで、新家さんと川野さんとの会食は、僕にとって「意味深い」時間になった。

初めて知ったことだが、新家さんは、なんと「開成中学」を蹴って「慶応」に行ったそうだ。そして、川野さんも「慶応ボーイ」とのこと。

親家さんは「浅草」出身で、お母さんのことを「かあちゃん」と呼んでおり、いわゆる慶応ボーイちっくな人ではない。

川野さんと食事を共にするのは初めてだったが、彼とは「価値観」や「思想」が近く、以前から知っているような感覚を覚えた。

僕は、地元の進学校(高校)の受験に失敗し、二次募集で入った高校を3ヶ月で中退して中学浪人生活をしていた頃に知り合った友人のファミリー(彼の父親は地元では著名な実業家だった)、特に「慶応大学」に通っていたお姉さんの優雅さに惹かれて以来、都会のスマートな人たちに憧れを抱いてきたが、僕が大切にしているのは、友人の父親のような「創業者や開拓者」としての「生き方」であり、「優雅な生活」は「その結果」だということを、新家さん、川野さんとの会話で改めて認識した。

三宅一生が「日本がバブルに踊った80年代」に、こう言っている。

「創造を忘れて消費に走る社会は必ず、衰退する」。

僕は「ブランド物の消費を煽る」女性誌や「バブリー」な男性向けの雑誌が嫌いだ(ただ、それらが売れることで、経済が活性化するのも事実・・・)。

それともうひとつ、今日のエントリーで書いておきたいことがある。

それは、新家さんの「平石さんには『発信して欲しい』」という一言。

彼は、イベリコ豚のしゃぶしゃぶを食べながら「ベンチャーを興して成功したことも、手痛い失敗をしたことも、そして、どんな時も努力を忘れず頑張っていれば『再スタートできる』ということを『発信』していって欲しい」と僕に言った。

また、起業に関することに限らず、僕の出身地である「フクシマ県」は今も「原発」で苦しんでおり、僕の弟家族や親戚は、その現実と戦いながら生きていること。

そういう僕は、フクシマ県を離れて「東京」で暮らしており、フクシマ原発で作られた電力で四半世紀に渡り生活してきたこと。

エネルギー資源がない日本は原発を是とすべきだというが、本当にそうなのか?と自問自答していること等、僕が体験したこと、それらを通じて考えたことを、次に続く若人たちのために「発信」していって欲しい、とも。

そして、それが、平石さんの使命(人生の目的)ですよ!と・・・。

これからの僕の仕事は「後進の育成」ということだ。

新家さんと、ベンチャーキャピタリストと起業家という関係を超えた関係を築けたことを嬉しく思う。

「人口構造の変化」と「既に起こった未来」。

長男のヒップホップのレッスン中は、溜まったメールの読み書きをしたり、仕事が捗る時間なのだが、先程のエントリーで書いたとおり、MacBook Pro から MacBook Air へのデータ移行中で、Mac が使えない。

そこで、何度か目のドラッカーの「イノベーションと企業家精神」を読み返している。

「イノベーションの第五の機会:人口構造の変化に着目する」に、こんなことが書いてあった。

「人口の増減、年齢構成、雇用、教育水準、所得など人口構造の変化ほど明白なものはない。いずれも見誤りようがない。それらの変化ぎもたらすものは予測が容易である。しかもリードタイムまで明らかである。

20年後の労働力はすでに生まれている。45年後に退職年齢に達する人たちはすべて、現在すでに労働力となっている。しかも多くの場合、現在と同じ職種で働いているはずである。さらに、現在20代の前半から半ばの人たちが働く今後40年間の職種も、これまで彼らが受けた教育によってほぼ規定されている」。

特に、最後の一文は、決定的である。

人生や仕事の成果は「持って生まれた才能 x 教育 x 本人の努力」という3つの変数で決まると言っていいだろう。

勿論、どこの国に生まれたかや、運を持っているかどうかも重要な変数だが、それらも「持って生まれた才能」に含めて考えれば、「幼少期や若い頃」に、どこで、どのような教育を受け、どんな組織で、どんな仕事をしたか?することができるか?は、その人の人生に大きな影響を及ぼす、ということだ。

現代社会の問題は、初期値でその後の人生が決まってしまう確率が高いということだ。

一言で言えば、教育には「カネ」がかかる、ということだ。

教育の成果は「経済的には測れない」。但し、教育に必要な資源はすべて、「経済的資源」である(ドラッカー)。

ミルトン・フリードマンが言う「教育のバウチャー制度」を含めて、教育のあり方を根本的に見直す必要がある。

僕のこの先の人生で手掛けたいと思っている。

iPhoneからの投稿

「鮫洲」と「3.11」後のゴールデンウィーク。

先週の木曜日。運転免許証の更新で、3年ぶりに「鮫洲」まで出掛けた。

ここ最近はクルマで行っていたが、今回は仕事の都合上、電車に乗り「鮫洲駅」で降りた。

初めて鮫洲駅で降り立ったのは大学生の頃なので30年も前になるが、あの時と同じように、免許証の書き換えに使用する「書類の記載代行」業を営むお店がある。

もう少し正確に描写すると、30年前は、鮫洲の駅前から運転試験場に続く道沿いに「これでもか!」と「同業者」が軒を連ねていたが、今でも営業しているのは、駅のすぐ近くの店を含めて、数軒になっていた。

でも、さすがに客はいない。そこには、ボーッと店番をしている中年男性の姿があった。

ドラッカーは「イノベーションとは、組織的、体系的に『変化』を探すことである」と、ダーウィンは「強いものが生き残るのではなく、『変化する者』が生き残る」と言っている。

「鮫洲の駅前商店街」を通り過ぎながら、そんなことを考えた。

ところで、昨日から日本はゴールデンウィーク(GW)。

昨年のGWは「3.11」の現実をこの目で確認したいと思い、周囲の反対を押し切り、福島県の「相馬港」に行ったことを思い出した。

あれから一年。もっと前のことのように感じる。

GWということでは、海外旅行に出掛けた人も多いと思うが、日経ヴェリタスの編集長メールによると、2011年に海外旅行へ出かけた人は「1,699万人」。今年は、円高という追い風もあり、昨年を上回るのでは?と予想されている。

一方、日本を訪れる外国人は、震災・原発に円高の影響もあり、昨年は3割少ない「約620万人」。完全に「輸出超過」である!

因みに、フランスを訪れる観光客は「毎年7,600万人(人口:6500万人)」。スペインは「5,300万人(人口:4,600万人)」とのこと。

仮に毎年、1億2,000万人の観光客が日本を訪れて、一人平均10万円を落としてくれたら、観光収入「12兆円」である!

どんな「変化」を利用すれば、それが実現できるだろうか?

@子供のダンス教室

「区立図書館」は、誰のための施設か?

今日は5月最終日。

僕にとっては、無くてはならない友人の記念すべき50歳の誕生日でもあり、サンブリッジでの仕事を始めてから、ちょうど3ヶ月目でもある。

ところで、今日は近所の小学校で運動会があった。

子供を保育園に送った後の帰宅途中、フェンス越しに100メートル走(たぶん)を眺めていたら、他の子と較べて断トツに身体が大きい子がぶっちぎりのトップでゴールした。

運動やテストは、結果が分かりやすい。挫折を覚える子もいるだろうが、世の中を知る上で、とても良い機会である。今日、ブッチギリで1位になった子も、中学でもトップでいられるかは分からない。

SMAPの歌にあるように、自分の才能を伸ばせばいい。誰もがプロサッカー選手になれるわけではないし、石川遼くんのようになれるわけではない。

でも、自分のリフは、自分しか弾けないのも事実。

話は変わるが、千駄ヶ谷でのアポの後、原宿まで歩く途中、渋谷区立中央図書館に寄った。

階段の壁に、利用者からの「要望」とそれに対する「回答」が貼ってあり、ふっと目をやると、考えさせられることが書いてあった。

要望の主は、渋谷区民ではないが、渋谷区にオフィスがある会社に通っており、法人税を払っている(貢献している)のだから、渋谷区への「通勤者」用の席をもっと増やして欲しい、というものだった。

あまりきちんと読んでいはいないが、それに対する回答は、おそらく、全体的に席数を減らしており、ご理解をいただきたい、という趣旨のものだったと思う。

僕は、そもそも、あまり図書館を使わない(区立だろうが都立だろうが国立だろうが)人なので、区民用の席数を増やそうが減���そうが、その恩恵も損失?も被らない。

でも、渋谷区民として税金は払っている。会社(ドリームビジョン)も、納税地は渋谷区だ。

つまり、公共サービスというものは、すべての人が利用するものでない限り、納税者と受益者が一致しないことになる。

要するに、税金は払っているが、その恩恵には浴していない、という人がたくさんいるということだ。

その典型が、子供を「私立」の小中学校に行かせている両親である。

公立に行かせれば、授業料は無料である。もちろん、入学金もない。

つまりは、子供を私立の小中学校に行かせるというのは、ダブルで教育コストを払っていることになる。

だから、ミルトン・フリードマンは、教育バウチャーを発行し、私立に行かせる場合は、公立との「差額」分だけを支払う仕組みにすればフェアだと、彼の著書「資本主義と自由」で主張している。

僕は「小さい政府」を希望する。

内閣不信任案の前に、政府自身の「スリム化」をして欲しい。

今年のGW。

今年のGWも今日でお仕舞い。

僕のブログを読んで下さっている方々は、どんな連休を過ごされただろうか?

僕は、今月1日2日と一泊二日で、福島→相馬→郡山→仙台と回ってきた。

阪神淡路大震災の時も自分の目で現地を見ておきたかったのだが、色々なことを考え、結局は行かずじまいだったが、今回は周囲の反対を押し切り、福島県の海側の町、相馬まで行ってみた。

その惨状は、テレビやネットで散々見てきたはずだが、絶句としか言いようがなかった。

現場に近づくに連れ、景色が変わってきて、「えっ・・・」と思いながらクルマを走らせていると、いったい、どうやって復興させるのか?という光景が目の前に広がった。

翌日は約20年ぶりに仙台を訪れ、現地のI.T.系ベンチャーの経営者と会い、塩釜や気仙沼、陸前高田の現状を聞き、ベンチャー企業の経営者にできること、すべきことは何か?を伺った。

その方と話をしたことは詳細を整理して、僕のブログでも紹介したいと思う。

「カダフィ大佐」と「菅首相」。

今月は、アメブロでブログを書き始めてからの最低更新回数を更新してしまった・・・。

それはさておき、今日は久しぶりにドリームゲートの仕事(エンジェルズゲート)があった。

元日銀総裁の福井さんが会長を務められているSEOU会でのプレゼンに臨む「4人」を争って、10数人の方がプレゼンテーションをされる。

僕の仕事はその審査員であり、ある意味で、10数人の方の起業家としての人生に影響を与えることになり、責任を負っている。

また、彼らのプレゼンを聴いていて、「日本は確実に変わる」という想いを強くした。

シュリンクする経済、破綻寸前の国家財政、世界で「たった1億人」にしか流通していない「日本語というマイノリティな言語」を「母国語とするハンディ」、機能不全に陥って久しい政治、そして、逆三角形のごとく少なくなっている若い人(R.O.I.が低い)が「勝ち抜けた高齢者(R.O.I.が極めて高い)」の方々を支えなければいけない構造的問題を直視し、最初から「世界」を見据えて起業している人が何人もいた。

僕たちネット第一世代では考えられないことである。

彼らの活躍を期待したい。

ところで、破綻寸前の国家財政に関して言及すると、1991年時点では、歳出総額「69.3兆円」に対し、税収が「60.1兆円」あり、単年度としては許せる範囲だった収支が悪化し始めたのは1992年度(平成4年度)からだが、その後、暫くは「税収」は「50~54兆円」で横ばいだったにも関わらず、歳出つまり「使うお金」が、その後の4年で「80兆円」ちかくまで増大し、6年後(1998年)以降は「80兆円」を突破し、坂道を転げ落ちるように今日に至っている。

平たく言えば「収入が増えないくせに、支出だけ増やしてきた」ということだ。

その行き着く先は、小学生でも分かるだろう。

問題は「使ったカネの恩恵に与った人がいる」ということであり、それ以外の人にとっては、買い物をしていない(役務を提供してもらっていない)にも関わらず、「請求書だけが送られてきている」という状況だということだ。

さて、リビアでは往生際の悪い「カダフィ大佐」が、まだ政権にシガミツイているらしいが、時間の問題だろう。

翻って、我が国はどうか?

菅内閣の支持率は、今日の日経朝刊によると「22%」、FNN調査では何と「18.7%」にまで下落したらしい。

「耳障りの良い」ことの幕の内弁当のようなマニフェストを掲げ、ポピュリズムここに極まれり、という感じの民主党は、言ってみれば、国民の望む(僕は望んでいなかったが)ことだけを「テンコ盛り」にした結果が、皮肉にも支持率の低下を招いているということだ。

所詮は「寄り合い所帯」の民主党は、政権を奪取した瞬間に目的を果たしてしまったわけであり、党内の求心力は失われ、政策よりも権力闘争と化してしまったのは、ある意味、当然の帰結とも言える。

まあ、そういう僕自身、民主党に1票を投じたわけで、高い代償を払ったということだが、あの時は、それ以外に選択肢が無く、仕方がなかったと思っている。

問題はこれからどうするか?だが、菅さんも小沢さんも鳩山さんもみんな退いていただき、「老害大国」の汚名を返上し、50代半ば以下の「若い世代」に実権を渡して欲しい。

小泉さんのように「歯切れが良く(しがらみがない)」尚かつ「後味も良い(権力に固執しない)」政治家を切望する。

鳩山さんのように「引退を撤回」するようなことなく・・・。

武力ではなく、民意によって、旧態依然とした政治体制は包囲されている。

中東とは違った形で、真の「民主化」を望みたい。

「都営住宅」と「ミルトン・フリードマン」。

修士論文が本日提出(2/10)で、その指導で慌ただしいところに、投資先で対応しなければならないことが重なり、またしても、ブログの更新が滞ってしまった。

ところで、東京にお住まいの方以外には、どこのことか分からないと思うが、千駄ヶ谷小学校の交差点から外苑西通りに向かった千寿院交差点の近くに、老朽化が激しい都営住宅(おそらく)がある。

人が住めるのか?というぐらいのその都営住宅を目を凝らして見ると、何世帯かは住んでいるようである。

実際、敷地内には、新車で購入したと思しき「高級ステーションワゴン」が何台か停まっている。

そもそも、都営住宅(公営住宅)というのは、低所得者向けに「行政」が「福祉」目的で建設し、運営しているわけだが、その効果を考えた時、民間の賃貸住宅に住むための費用の「一部」を補填することと何が違うのだろうか?

管理費や立て替え費用、また、税収等を考えると、行政が住宅運営をすることは、理に適っているとは思えない。

ミルトン・フリードマンの名著「資本主義と自由」での議論そのものである。

例えば、外苑西通りという「一等地」の「土地の価格」を考えた時、その敷地を民間に売却することで、敷地面積によっては何十億円という資金が東京都に入ってくることになる。

加えて、民間のディベロッパーがマンションを建設することにより、「内需(建設、インテリア等)」が創出される。

お金持ちの中国人(外貨)が購入してくれるかもしれない。

さて、冒頭で「高級ステーションワゴン」の話をしたが、僕が推測するに、老朽化が激しいその都営住宅に住んでいる人は、経済的弱者ではないように思う。

日本の法律では、借家人の方の権利が手厚く保護されており、立ち退いてもらうことは容易ではない。

あの土地があのままで放置(遊休地と言っても過言ではない)されていることに、僕は大きな疑問を感じている。