経営者への果てしない道

「あいつバカじゃないの?」
「あいつイイ気になってんじゃないの? あんなにデカデカと自分の写真を出しちゃって・・・」
などという批判があっても不思議ではない(おそらくあるだろう)ことは「覚悟」した上で、僕はこのBlog を始めた。明確な「目的」と「理由」があって。

「覚悟」という言葉に関して僕の脳裏に深く刻まれているのは、僕の12~13年来の友人でもあり、起業家仲間でもあるラソナの岡村氏(仲間内では彼のことをポンと呼ぶ)から言われた、ある何気ないメッセージである。

通常、メッセージと言うと意識的なものを指すが、彼の何気ない一言は十二分に、僕にとっては記憶に残る価値を持っていた。

それは何かというと、僕がインタースコープのことで悩んでいた時、ドリームビジョン構想の件で悩んでいた時に言われた一言である。

「平石さん、それ(インタースコープを退任すること。ドリームビジョンを始めること)には、相当な『覚悟』が要りますよ」。

彼のその予言(?)どおり、僕がインタースコープを退任し、ドリームビジョンを始めようと意思決定をしてからは、様々な問題や懸案事項が生まれている。様々な批判を含めて。

僕にとって、インタースコープの共同創業者である山川さんは、非常に優秀なエンジニアであり、経営者である。彼は、その性格と適性とにより、すべての物事を「合理的(論理的というよりは合理的と言った方が適しているように思う)」に判断する人であり、その緻密さには脱帽せざるを得ないほど、事前に想定される様々なリスクを挙げることができる。でも、いざ自分自身の行動となると、これがかなり直情的であり、その矛盾が彼の人間味でもある(笑)。彼を慕う人がいる理由は、そこにあるんだと思う。特に、母性本能をくすぐるらしく、女性社員から慕われる傾向にある。それほど、ハンサムではないにも関わらず(失礼!!)。

その彼から、様々なことで指摘を受けたり、アドバイスを受けて来たし、今も貴重なアドバイスをしてくれる。そういう意味では、彼にはとても感謝をしている。

インタースコープを一緒に経営していた時は、お互いにそうだったと思うが、相手の存在を感じるとことがあり、経営的な問題が発生しても、クリティカルな状況に立たされても、ある意味、安心感のようなものを抱いていたが、ドリームビジョンに関しては、そういうものが一切ない。これは、僕にとって、非常に大きなインパクトだ。

僕はある意味、誤解を恐れずに言えば、起業家としてはそれなりの自信があるし、そこそこの才能も持っていると思っている。しかし、「経営者」という観点に立った場合、偽らざる心境として、自己申告としては及第点に満たないだろうと思っている。

それは、僕自身にとってのみならず、ドリームビジョンという会社全体にとって、他の役員や株主、そして、何よりもスタートアップメンバーとして参加してくれた安田くんや山田くんにとって、大きなリスクとなる。ドリームビジョンのユーザーの方々にとっても。つまり、非常に大きな責任があるということである。

最近の僕は、そういうことを常に考えるようになった。

経営者への道は、まだまだ果てしなく遠い。

追伸:近いうちに、ドリームビジョンの役員との出会いを、このBlog で書こうと思う。

発熱でダウン!!!

ここ数日は起業のことではなく、子育てやプライベートの話を書いてきたので、久しぶりに自分自身の起業の経緯を書こうと思っていたのだが、週末から発熱してしまい、ちょっと書けそうにない。

今日は社外取締役を務める会社の経営会議があって、それには何とか出席してきたが、帰ってきてそのままベッドに入って寝てしまった。夜になって何とか起きて来て、どうしてもやらなければならないことをやっていた。

そのひとつで、中東に赴任している某総合商社の方にメールを書いた。彼は、僕がインタースコープを創業した直後に実施した、第三者割り当て増資を引き受けてくれた個人株主のひとりである。

僕は彼に対して、僕がインタースコープの取締役を退任したことと、その理由について書いた。

すると、わずかその20分後に返事が来た。彼の住む国と日本では、たしか、6時間ぐらいの時差があり、日本の方が時間が先なので、先方は夕方の5時前ぐらいだったと思う。ちょうど、オフィスにいてPCに向かっていたのだろうか。いずれにしても、インターネット社会であることを実感させられた。

彼からの返事には、自分(彼)がEXITできていないにも係らず僕が退任したことを責め立てるわけでもなく、むしろ、その理由を支持すると書いてあった。と同時に、ドリームビジョンに関しても、支援をしたいとまで言ってくれている。ありがたい話である。

話は変わるが、先日、あるVC(ベンチャーキャピタル)の役員の方に挨拶に伺った際に、「平石さんのような『シリアルアントレプレナー(この時、初めてシリアルアントレプレナーという言葉を聞いた)』がたくさん出てくることによって、日本社会は活性化するんです。頑張って下さい」という温かいお言葉を頂戴した。また、僕の退任の挨拶メールに対しては、「激励」というタイトルで、文字通り、励ましのお言葉を頂いた。

僕は、本当に「人」と「運」に恵まれていると思う。

月並みの言葉ではあるが、僕を支援して下さっている人たちと「幸運」のためにも、ドリームビジョンを成功させようと思う。

次は、自分で自分の歩いてきた「道の意味」を整理するためにも、僕自身の起業人生を振り返り、起業物語の続きを書こうと思う。

「額」ではなく「率」。

僕がインタースコープを立ち上げて間もない頃、インターンの学生として面接にやってきたジローが一昨日(4/18)、ドリームビジョンのオフィスを訪ねてきた。正確に言うと、彼のことを僕らのサイトで紹介しようと思って、彼の話を聞くために(要するに取材)、僕が彼を呼んだ。

彼はインターン終了後も学生を続けながら契約社員として働き、新卒でインタースコープに就職した。2003年2月に辞めるまでのほぼ4年間、事実上、インタースコープの創業メンバーとして会社の成長に貢献してくれた。

一昨日、そのジローの話を聞いて、僕の方が学ばせてもらったことがある。

『「MAXの額」ではなく、「率」なんだと思った』ということ。

彼はインタースコープを退職した後、某外資系消費材メーカーに転職をした。
その会社はマーケティング的にとても進んだ会社として認識されており、
そこでも彼は徐々に認められていったらしい。

その会社での経験を通じて彼が感じたことは、
仮に、5,000億円の売上規模の会社だった場合、
売上に対して「1%」の貢献をすれば金額換算して「50億円」になるが、
自分で何かを生み出している、あるいは、貢献しているという実感を得る
という意味では、売上1億円の会社で50%の貢献の方が、
その実感を覚えられるし、やりがいを感じるということだったらしい。

僕のような人間にとって彼の考え方は違和感はない。
というよりも共感すると言った方がよい。

しかし、世の中は様々な見方があるのも事実だし、
人によっては異なる考え方をするだろう。

ある時、グロービスの会合でグッドウィルの折口さんの話を聞く機会があったが、彼は「(持ち株の)シェアは10%でもいいが、その額には拘る」と言っていた。

別の機会に、GDH(アニメーションの会社でマザーズに上場している)の石川さん(僕の好きなベンチャー企業の創業経営者のひとりである)も、正確な数字は忘れたが「時価総額100億円の会社の50%のシャアを持っているよりも、5,000億円の会社の10%(500億円)を持っている方がよい」という趣旨のことを言っていた。

たしかに、そういう考えも一理あると思う。

要するに、自分が何をしたいのか?ということや、どういう立場にいるのか? どういうステージにいるのか? ということによって、答えは異なるということだろう。

僕は、インタースコープの10%弱の株主であるが、ドリームビジョンは80%以上のシェアを持っている。
時価総額の話をすれば論を待たないが、今の僕にとってはシェアの方が大事である。

もちろん、これからドリームビジョンの事業を拡大させて行く際に、先行投資のための資金調達を行う局面が必ず出てくると思うが、その時も、僕は自分のシェアを守るために資本政策を練るつもりである。

ジローは今、彼を含めてたった5人の会社で働いている。
社長もよく知っているが、まだ、30才になったかならないかの若い人である。

そこでの彼は、会社のブランドではなく、自分のブランドで勝負しており、とてもいい顔をしていた。
アントレプレナーシップ溢れる人間である。

起業したはいいものの・・・。

借金で用意した資本金100万円を元手に、僕の起業家人生はスタートした。

クリードエクセキュート(以下、クリードと略す)という会社は、
次の起業にあたるインタースコープを創るまで、9年間経営していた。

経営と言っても、株主は殆ど僕だし、
最も大勢の人がいた時でさえ、僕を入れて5~6人だった。
なので、個人事務所に毛が生えた程度だった。

クリードをやっていた9年間は、前期・中期・後期という具合に、
それぞれ3年ずつに分けることができる。

最初の3年間は、コンサルティング会社や広告代理店でやっていた
市場の調査分析とその結果を踏まえた戦略立案的な仕事をしていた。

そういうと聞こえがいいが、実際には、
以前に勤めていたコンサルティング会社や
知り合いに紹介してもらった広告代理店の下請けをしていた。

それでは、起業した意味がないと思い、
2年目からは自分で営業もしたが、
なかなか思い通りに仕事は取れなかった。

そうこうしているうちに3年目に入ったのだが、
ここで最初の危機が訪れた。

厳密に言えば、2年目の終わりの頃、
あと1ヶ月後に400万円の支払いがあるにも係らず、
手元の現金は殆どないという状態になったことがある。

何とか仕事を取ろうと必死になっていると、
知り合いから紹介されたワインの輸入販売を手がける会社から
パンフレットの制作を頼まれることになり、
「シメタ!!!」と思い、半金を契約時に、残金を納品後2週間以内に
という契約を結び、何とか窮地を乗り切ったことがあった。

さらに言うと、当時、そのような仕事のノウハウは無かったので、
オフィスを間借りさせてもらっていた会社にすべて丸投げした。

なので、売上380万円のうち、360万円は外注費だった。
そして、その外注費の支払いを少々待ってもらった。

でも、手元にお金が残るわけではないから、
また、次の仕事を取る必要があったのだが、
そういうところに、ある知り合いから「町興し」の一環として
企画したイベントの受け皿として、
僕の会社を貸して欲しいという相談があった。

イベントの内容は、トリニダード&トバゴという南米の国から、
スティールドラム・オーケストラのバンドを招聘する仕事だったのだが、
僕の知り合いは「個人」で仕事をしており、行政としては、
法人でないと仕事を発注できないという話になり、
その受け皿の会社を探していたのだった。

予算は400万円で外に出て行くお金も400万円だったが、
消費税分の20万円が一時的に手元に残ったので、
これで何とか凌いだ。

今にしてみれば、とんでもない綱渡りだった。
尚、この仕事はメチャクチャ大変だったが、非常におもしろかった。

またしても脱線してしまったが、3年目の危機というのは、
クリードの設立時に役員に名前を連ねていた僕の友人が、
その年の7月、勤めていた会社を辞めてジョインしてきたのだが、
一緒に連れてきたスタッフがいて、
僕一人と外注だけでさえ綱渡りの連続だった会社が、
いきなりフルタイム4人になって固定費が増えてしまい、
その割に売上が増えず、どうにもならなくなってしまったということだ。

で、僕はどうしたか・・・。

亡くなった父親の遺産のゴルフ場の会員権を売却し、
増資してみんなの給料を支払った。

でも、そのお金も4ヶ月で底をつきそうになり、
「これでもうお終いか?」と思った。

そんなふうに開き直った直後、
某銀行系クレジットカード会社の知り合いから仕事の話がきた。
(実は、その時の担当者と、その後、結婚した。)

そしたら今度は、留学・ホームステイ等の斡旋会社に転職していた
コンサルティング会社時代の知り合いから、
仕事の話がきた。

それで息を吹き返した。

ある先輩に、
「丸3年やっていれば、一人前として認められるようになるよ」
と言われていたが、そういうことかと思ったりもした。

その年の売上は3,850万円で大赤字だったが、
その翌年から3年間は、倍々ゲームで売上が伸びていった。

その頃、つまり、中期(4~6年目)の売上は、
マッキントッシュを使ったDTPと通信販売の商品提供が主たるものだった。

また、マッキントッシュとの出会いは、
極めてアナログだった僕を一気にPCフリークに変えた。

そして、その当時は「マルチメディア」なる言葉が全盛期で、
僕の周囲にはその手の輩がたくさんいた。

中には「2次プロバイダー(ISP)」を始めた人もいたりして、
急速にデジタル&インターネットの世界に魅せられていった。

ある友人は、その後、シリコンバレーに渡り、
現地のVCから20億円ほどを調達し、
シスコに対抗するシェアウエアのルーター開発ベンチャーを創業した。

今にして思うと、DTPの仕事が、
僕をインターネットの仕事に向かわせたと思う。

そうこうしているうちに、本格的にインターネットが浸透し出し、
僕もインターネット関連の事業企画に携わるようになった。

あれは1996年の12月だったから、そろそろ10年になるわけだが、
僕は、当時の売上の70%を占めていたDTPの仕事をバッサリと止めた。

何故かというと、DTPの仕事をやりたくて起業したわけではなかったから。

しかし、その翌年と翌々年は、散々な目にあった。
要するに、めちゃくちゃ貧乏になった。

初心に返って、市場の調査分析と事業開発の仕事で
会社をやっていこうと決心したのだが、
そう甘くはなく、仕事が取れなかった。

97年の夏前から98年の秋までの1年半、
妻は、週に3日は派遣で働いて家計の足しにしていた。

妻もお客さんを持っていたから、派遣で働いている日は、
昼休みに「公衆電話」から会社の留守電を聞き、
お客さんに電話でフォローをし、
夕方からクリードに来て仕事するという生活をしていた。

そんな生活をしているうちに、転機が訪れた。

設立時に役員として名前を連ねていた友人が、
ある総合商社の関連会社で働いていたことがあったお陰で、
その商社からI.T.関連の新規事業開発のコンサルティングを依頼された。

その仕事はある意味で、
僕の人生を大きく変えたと言っても過言ではないと思う。

僕は、たまたま好きが講じて英語が話せることもあり、
その商社の担当者は帰国子女でTOEIC985点という恐ろしいほど
英語が上手にも係らず、僕らが取り組んでいた新規事業に関しては、
当然のことながら僕の方が精通しているので、
ある米国企業の本社に乗り込んで
その会社のCOOにプレゼンする大役を僕に任せてくれた。

その仕事で僕は、I.T.やデータベースのことを学ぶことができた。
後のインタースコープに繋がるアイディアも、そこから得た。

そして、その仕事の担当者は、
その2年後に僕がインタースコープを立ち上げる時に、
ふたつ返事で出資してくれた。

また、同じ頃、知り合いの紹介で、
「疑似キャッシュを開発してインターネットのモール」を運営していた
渡辺さんという人と知り合った。

後に、彼からの依頼により、保険スクエアbang ! という
自動車保険の見積もり比較サイトのインキュベーションに
参加することになった。

その会社は、2004年9月21日、東証マザーズに上場した。

僕は多少の株を持たせてもらっていたお陰で、
それなりのキャピタルゲインを得た。

それでまた、僕の人生は変わった。
ネットバブル様々である。

この続きは明日にしよう。

子育てで睡眠不足の上、風邪を引いてしまっており、
夜更かしは止めろと医者に言われているので。

追伸:そういえばサイバーエージェントの藤田さんとも、オン・ザ・エッヂ(当時)の堀江さんとも、この頃に知り合った。

1991年3月

僕は人生で初めての会社を創った。

株式会社クリードエクセキュートという名前の会社で、
設立年月日は1991年3月27日だった。

社名には少々思い出がある。
本当は、株式会社クリードという名前にするつもりだった。

それが、類似商号でひっかりそうだという話になり、
なんとかクリードにするか?クリードなんとかにした方が
安全だというのが当時の弁護士の意見だった。

というのは、1991年4月1日以降は
株式会社は1,000万円、有限会社は300万円に
最低資本金が変更になる(商法改正)時だったので、
3月27日に法務局に提出して類似商号ではねられてしまうと
再提出は4月1日を過ぎるだろうから、
安全を期した方がよいということだった。

僕は当時27才で、有名な外資系広告代理店に勤務していたが、
貯金は殆どなく、銀行のカードローンでお金を借りて、
それでも足りない部分は友達と当時の彼女に借りて、
資本金の「100万円」を用意した。

今にしても思うと、僕は世の中の変化の時に、
新しく事を始めることになっているようだ。

僕が会社を創ろうと思ったきっかけは、
僕が外資系広告代理店の前に働いていた
コンサルティング会社時代の上司が商法改正になる前、
つまり、1991年3月31日前に会社を創るということで、
その手続きを手伝わされたことだ。

会社というのはそうやって創るのか・・・と思ったと同時に、
「だったら、俺にも創れるということじゃん!!!」と思い、
すぐさま行動に移した。

話を社名のことに戻そう。

クリードという社名を諦めた僕は、
なんとかクリードかクリードなんとかという名前を必死になって
考えていたのだが、僕はその時、39度の熱にうなされていた。

にも係らず、英語の辞書を片手に考えたのが
クリードエクセキュートという名前で、
自分の信条・哲学・教義(クリード)を
遂行する(エクセキュート)という想いを込めた。

その会社の「企業理念」は、

~私共は、企業・個人といった枠を超え、
より良い社会環境実現のため、
社会資源の有効活用による「社会的価値の創造」と
そのビジネスとしての構築・確立を、すべての活動の
「CREED(指針・主義)」としています。~

というものだった。

振り返ってみると、
3度目の起業となる「ドリームビジョン」の企業理念や
事業コンセプトに通じるものであり、
自分の源流はそこにあることを再認識させられる。

もうひとつ、最初の起業には思い出がある。

会社を創りはしたものの、
暫くは当時勤めていた広告代理店にいるつもりだったのだが、
会社を創って嬉しくて仕方なかった僕は、
既に独立(当時は起業という言葉はなく、独立と言った)していた
先輩達に挨拶に行ったのだが、彼らにそそのかされ、
勤めていた会社を辞めて、
自分の会社をスタートさせようと考えるようになった。

その時、以前に勤めていたコンサルティング会社で覚えた
ロジカルシンキングにより、将来の自分がどうしたいのか?
そのためには、このまま暫く広告代理店にいた方が得か?
それとも、苦労はするだろうが、
今、飛び出して、自分の会社を始めた方が得か?
ということを分析してみた。

当時の会社は、ワールドワイドの広告業界ランキングでは常時、
ベスト10の上位に入っているような会社で
クライアントも国際的な企業ばかりだったが、
そこで得られるスキルや経験と人脈は、
自分の会社を始めた後に活きるものではないことに気づき、
今、始めた方が、小さいながらも会社の経営や
事業の立ち上げの経験を積むことができ、
仮に失敗しても、そういう経験を買ってくれる人や会社はたくさんあるだろうと思い、
であれば、返せない借金さえ作らなければ、リスクはゼロに等しいという結論に至り、
「じゃあ、やってみよう!!!」ということになった。

かと言って、何か事前に準備をしていたわけでなく、
今にして思えば「徒手空拳」での起業だったが、
殆ど躊躇することなく、起業家人生をスタートさせた。

あと1ヶ月待っていれば、100万円ぐらいのボーナスをもらえたのだが、
「そんな金をもらってもしょうがない!!」とか思ってスパッと会社を辞めた。

そして、最初に取った仕事は、「20万円」だった。
1991年の5月か6月だったと思う。
28才になって間もない時だった。

その15年後、26才の若者と一緒に、3度目の起業をした。

3度目の起業と初めての子育て

久しぶりにBlogを書くことにした。

実は先月(3月)いっぱいで、僕にとっては「2度目の起業」にあたるインタースコープという会社の取締役を退任した。2000年3月に創業したので、先月で丸6年が経った。

創業者の自分が言うのは手前味噌であるが、インタースコープはインターネットリサーチ業界の草分け的な存在の会社であり、業界では最もイノベイティブな会社として認知されている。マスコミからは「御三家」と言われたりした。

創業者という意味では当然のことであるが、そのインタースコープを退任するに際しては様々な葛藤があったし、色々なことで悩んだことは事実である。

では何故、それでもインタースコープを退任することにしたのか? これから少しずつ、今後の展開も含めて、Blogという形で文章にして行こうと思う。

ところで、僕の人生にとって、「3月」という月は、非常に大きな意味を持つようである。

まず、誕生日が3月30日であり、一度目の起業は1991年の3月だったし、二度目の起業(インタースコープ)も2000年の3月で、今回の起業も2006年の3月である。

因みに、今回の会社の名前は、ドリームビジョンという。

その名前は、2~3年前になるが、妻と食事をしている時に思いついた。

妻に「ドリーム&ビジョンってどう?」と聞いたら「ちょっと長いよね・・・」という返事が返ってきたので、「じゃあ、ドリームビジョンはどう?」と言ったら「いいんじゃない」と言われたのがきっかけである。

実は、インタースコープという名前も妻が命名している(笑)。

では、ドリームビジョンという会社で僕が何をしようとしているか?

企業理念は「夢を実現する」であり、事業コンセプトは「自分らしい生き方とキャリアデザインを支援する」だ。

この構想は、その源流を遡ると、僕が小学校の2つの原体験から生まれている。

ひとつ目は、僕が小学校5年生の頃だったと思うが、友達5~6人で映画を観に行った時のことである。

僕の中では「ラーメン屋事件」と呼んでいる。

映画を観た後、ラーメン屋に入ったのだが、最初にガキ大将的な存在だった奴が「みそラーメン」を注文したところ、僕も私も「みそラーメン」となり、最後に注文した僕だけが「塩ラーメン」と言ったところ、「なんで皆と同じものを食べないんだ!!!」と言われた。

僕は「自分の小遣いで食べるのに、どうして自分の好きなものを食べちゃいけないんだ?」と思ったが、次の日に学校に行ったら、なんと僕は「村八分」にされていた。

極めて馬鹿げた話だと思うが、要するに「高度成長期」の日本において、僕らの親達が「みんなと同じが一番」という価値観を持っていたのである。子供にそういうふうに教育するわけだから、当然、子供もそういう価値観に育つわけだ。

二つ目の原体験は、同じく小学校5年生ぐらいの頃だったと思うが、こちらは「ピンクのGパン事件」と呼んでいる。

僕はある時、文字通り「ピンクのGパン」を買って来た。

すると母親が、

「あなたがそういう色のGパンをはいていると、私があなたのお父さんから叱られるので、フツーのブルーのGパンと交換してきて欲しい」と、

哀しい表情で僕に言った。

僕は「表現の自由は認められているはずだ!!!」と、ませた反論をしたようで、それを聞いた母親はより一層、哀しい表情をしたことを覚えている。

因みに、僕の母親は小学校の教師をしていた。

それらのふたつの原体験が、どのようにドリームビジョンの事業構想に繋がっているかというと、日本社会を活性化するには「価値観の多様性」を認めること、つまり、自分自身の判断で「自らの生き方を選択」することを尊重する社会にすること、チャレンジする人をリスペクトし、失敗した人を蔑まないカルチャーを育むこと、そのためには「社会の制度」を変える必要があり、制度を変えるのは「政治」の問題であり、そのためには優秀な政治家を排出する必要があり、政治家は誰が選ぶかというと「国民」であるわけで、結局は「教育」の問題に立ち返ると考えたところにある。

少々抽象的且つ観念的な話なので具体的な話をすると、「開業率と廃業率」を比較した時に、ここ最近の日本は「廃業率」が開業率を上回っているらしいが、その原因は「社会の価値観と制度」にあると僕は考えている。

例えば、起業をして失敗した場合、「自己破産」に追い込まれるケースが多い。そうなると、余程のことでないと再起は困難である。

僕は米国(というよりは米国政府)が嫌いだが、米国(欧州はどうだろう?)の良いところは、日本のような自己破産制度はなく、才能とやる気があれば、いくらでも「敗者復活」が可能だというところである。

僕は以前、何かの取材で「日本は生き方がナローバンドだ」と言ったことがある。

例えば、一流大学を出て、三菱商事に就職した人が、自分でビジネスを立ち上げると言って会社を辞めると言った時、今ではだいぶ違ってきていると思うが、それでも、「辞めるのを止めておけ」と言われるのが通常ではないだろうか。

つまり、日本社会の価値観と制度は、「ものすごい成功者も出そうとしない代わりに、落伍者も出さない」。僕流に表現すると「ナローバンド(ある一定の範囲内)」で生きて行けということになっているように思う。

確率論的に言えば、その方がいいことは確かだと思う。

但し、そのためには、前提条件として、一流大学に合格する学力があり、尚かつ、組織の中で出世するスキルに秀でていることが必要である。平たく言えば、社会のエリートということだ。

それは、「勝者」の定義が「ナローバンド」であり、選択肢が限られているということである。だから、親が子供に、そのような生き方を望むのだろう。

そういう僕は昨年、初めて「父親」になった。

世の中の多くの人は、子供ができると「冒険」は出来ないとか、経済的なリスクを伴うチャレンジは出来ないと考えて、転職等は諦めるようであるが、僕は転職どころか、「3度目の起業」をする決断をした。

それは、自分の子供が物心ついて、友達同士で「お互いの父親」のことについて話をするようになった時に、「胸を張って、自信をもって語れるような父親でありたい」と思ったからである。

ひさしぶりのBlogで尚かつ最初のポストにしては少々長くなったので、そろそろ終わりにしようと思うが、僕のBlogを読んでくれる人のために、僕という人間のことがよく書かれている記事を紹介しておきたい。

http://dblog.dreamgate.gr.jp/user/e072/e072/
http://www.president-vision.com/index.php?state=backnumber&action=view&id=82