Always do what you say you will do.

New York や Silicon Valley に滞在していても、熊本の地震のニュースが目に入って来る。文字通り、距離を感じるが、何とも痛ましい気持ちになる。お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りすると同時に、被災された方々が一日も早く普通の日常に戻れることを望みます。

今回の出張も、いつもどおり得るものが多く、とても生産的な一週間になったが、それが年齢のせいか、他の要因かは分からないが、今までは感じなかったことを感じた。

New York 行きのフライトの中で、「杉原千畝(すぎはら ちうね)」という日本人の外交官に関する映画を見た。

彼は、第二次世界大戦中のポーランドで、ナチスドイツの迫害によって祖国を追われたユダヤ人を救うために、本国(日本)の外務省の許可を得ず、2,000人を超える人達に「日本行きの通過ビザ」を発給した。

僕は、2012年6月、初めてロンドンを訪ねた時に、偶然?にも、自分の父親が「杉原千畝」によって助けられたという人に会った。シリアルアントレプレナーであり、Innovation Warehouse というアクセラレーターを運営する「Ami Shpiro」という方だ。

「当時の日本で、組織の命令に背くことがどれほど大変なことかは想像に難くない。自分が今、こうして生きているのは、杉原千畝が父を救ってくれたからだ。日本には本当に感謝している」と彼は言っていた。

杉原千畝は、満州の学校(中学?高校?)を出たらしいが、その学校には、以下の「3つの教え」があったそうだ。

「人の世話になるな」。
「人の世話をしろ」。
「見返りを求めるな」。

僕は、28歳の時に「徒手空拳」で起業し、苦労をしながら頑張ってきたし、1990年代後半のネットバブルの最終列車に飛び乗り、VCから資金調達をし、エクセレントではないにしても、それなりの結果を残してきたと思っている。

そして今は「日本のスタートアップシーンをグローバル化する」こと(に挑戦する)で、今後の日本経済の発展に微力ながら貢献したいと思っている。

でも、いったい自分は何をしたいのか?その根底を自分自身に問い質していくと、結局は、そういう仕事を通じて「社会から認められたい」という欲求に支配されていることに気がつく。

所詮は”自分のため”である・・・。

ナチスドイツという意味では、もうひとつ、「Woman in Gold」という映画を見た。第二次世界大戦中の「オーストリア」で、ナチスドイツの迫害を逃れて、米国に亡命した女性のことを描いた実話に基づく映画である。

また、途中で時間切れになってしまったが、「ネイティブ・アメリカン(インディアン)」と「白人」の戦いを描いた映画で、レオナルド・ディカプリオ主演の「Revenant(帰ってきた人)」という映画も見た。

昨夜、San Francisco でお会いした、こちらに住む日本人の方々から伺った話だが、今も「ネイティブ・アメリカン」の方々が存在し、彼らの保護区のような地域があるそうだ。

極少数となった彼らは、自己の「アイデンティティ」や「米国社会における存在意義」に思い悩み、アルコール中毒や麻薬中毒になってしまう人が少なくないという。

人類は、筆舌に尽くし難い悲惨な歴史のもとに、今を生きている。僕たちの平和な生活は、多くの人立ちの犠牲の上に成り立っている。

ところで、NYCで会ったベンチャー投資をしている、ある男性が、自分のポリシーだと言って教えてくれたことがある。

Always tell the truth.
Always do what you say you will do.
Obey billionaire!

3番目には色々と思うところがあるが、それなりに真実を突いていると思う。

これからの人生を考える上で有意義な出張だった。

at San Francisco Int’l Airport

「責任」を「引き受ける」。

自分で約束した期限は守れなかったが、何とかNYC&Silicon Valley出張前に「宿題」は提出した。清々しい気分だ。

先々週の金曜日から次男の体調が悪くなった。最初はヘルパンギーナ(幼児が感染するウイルス)と診断されたものの、一週間経っても症状が回復せず、先週の木曜日、急遽、予定を変更し、僕が次男を総合病院に連れてった。

診断の結果は「溶連菌感染症」。実は3月下旬にも罹っており、まさか&ひょっとして・・・とは思っていたものの、やはり・・・という結果だった。

物事はそこで収束せず、次は「妻」が感染し、その次は「長男」が感染した。つまり、僕以外の家族全員が「溶連菌」に感染したということだ。

僕は何故か、インフルエンザも、家族全員が感染しても移らない・・・。

というわけで、こうして、成田エクスプレスに乗り、New York 出張へ向かうことができている。

ところで、ETICを通じて知り合い、何度かお話をさせていただいたことのある田坂広志さんが、ご自身の著書のなかで「責任」を「引き受ける」ということを書かれている。

文字上の意味は誰にでも理解できることだし、僕も理解したつもりでいた。しかし、田坂さんがご著書で仰っていた「その意味はとても深く」、僕はその本質を理解していなかったということを理解した。

つい先日のことである。

人間は本能的に、いや、僕のような我儘な人間は、と言った方がよいかもしれないが、冷静に考えれば「やらない選択肢は無い」という事実を理解せず、「やりたくない」という理由で「意思決定」を避けたがり「先延ばし」にする。

でも、よくよく冷静になって考えると、嫌なことでも、あるいは自分が責任を負いたくないことでも、それを「捨てるという選択肢」が「現実的ではない(捨てることはできない)」のであれば、その「責任」を「引き受ける」しかない。

結局はそれが「自分自身にとっても合理的」であり「メリット」を享受することになる。

もうひとつ、別の話になるが、僕は何でも「自分でやらなければ気が済まない人間」だ(だった?)が、それは裏を返すと、結局は「他人を信用しない」ということになる。何でも自分でやった方が満足の行く結果になると思っているわけで、それは傲慢な考え方だ。

当たり前のことだが、大きなことを成し遂げるには、たくさんの人、それも「たくさんの優秀な人達」を巻き込む必要がある。

誰かに任せて、仮に、それが上手く行かなかったとしても、自分にキャパシティが無かったのであれば、結局は出来なかったのと同じことだ。

能力的には出来たとしても、それをする「時間」がなければ結局は出来ないことと同じである。

とある会議での議論で、田坂さんの仰ることの意味が、少し分かったような気がした。

「あの本を読めば、この本は読めない。読む価値のある本は、買う価値がある」。

アメブロでブログを書き始めたのは2006年4月16日だったので、ちょうど10年になる。先程、過去のエントリーを確認して、その事実に気がついた。

今の仕事を始めた2011年3月以降は書く頻度が激減し、2012年以降はせいぜい月に1~2回ほどの更新しかできなくなった。2015年は年間で僅か1回だった。

色々と心境の変化があり、また、心境だけでなく物理的な変化もあり、数週間前から、またブログを書くようになった。10年を意識したわけではないが、ある人に、Wordpress で僕のオリジナルブログページを作成してもらっており、近いうちにアメブロから引っ越す予定である。

何かをするには時間が要る。ブログを書くのにも同じように時間が必要だ。

年齢のせいするのは哀しいが、歳とともに体力は確実に衰え、長時間労働はできなくなる。しかし、やるべきこと、やりたいことは減るわけではない。となると、自ずと「何かを捨てる」必要が出てくる。

実は「書きかけ」のエントリーに、10代の頃のことを書いた。当時の僕は「あわよくば」ミュージシャンになりたい!と思っていた。でも、世の中、あわよくば・・・なんかではミュージシャンにはなれない。

本気でミュージシャンになりたいと思い、毎日毎日、死に物狂いで練習し、曲を書いてもなれない人が殆どであり、仮になれたとしても、ミュージシャンで食べていける人は極々一握りだろう。

あわよくば・・・なんかでなれてしまったら、そういう人達に失礼だ。

何事も「成功する保証はない」。二度と戻らない時間が過ぎ去った後でなければ、そのことが成功したか、それとも失敗したかは分からない。

つまりは「失敗しても構わない」と思えることでなければ、勝負はできない。

男は何かの勝負をする時、「負けることを覚悟する必要がある」と、僕が好きな「相田みつを」が書いていた。

ところで先日、facebook のポストで、セブン&アイ・ホールディングスの鈴木敏文会長の辞任に関してコメントするような経営に関する知見はないと書いたが、「老害」批判一色の報道やコメントには違和感を感じるところがある。

確かに、それこそ、いい大人が、記者会見の席でお家騒動の話を延々とするのは興冷めな話ではあるが、周囲の猛烈な反対を押し切ってセブン・イレブンを開業し、同様に猛烈な反対を押し切ってセブン銀行を立ち上げてきた功績に対する敬意を表さないのは、失礼な話だ。

また、僕はどのような方かは存じ上げないが、セブン・イレブンの井阪社長の交代人事提案に関しても、世の中が批判している「世襲」に関する噂は噂でしかないとしたら(という前提だとして)、鈴木敏文会長ならではの「嗅覚」があったのかもしれない。

あれだけの経営者が、最高益を更新している最中の会社の社長交代を提案するには、それなりの判断があったのではないか?という気もする。いずれにしても、後味の悪い結果だったことは間違いない。それも鈴木敏文会長の責任と言えばそれまでだが・・・。

話を元に戻すと、僕は「あわよくば」のミュージシャンを諦めた後は、また「あわよくば」で俳優を目指し、オーディションには受かったが、負けを覚悟してまで勝負する勇気は無かった。僕にとっては、それだけのことでしかなかったということだ。

あと7年という年月が過ぎれば、僕は還暦を迎える。インタースコープというベンチャー企業を立ち上げ、Yahoo! Japan に売却するまでの時間と同じである。

中学生の頃、地元(福島県郡山市)の本屋が、本を買った客に配っていたカバーには、こう書いてあった。

「あの本を読めば、この本は読めない。読む価値のある本は、買う価値がある」。

これからの7年間。「積読」というわけにはいかない。

「人生は短い」。

祝「起業25周年」。父の思い出。

桜の季節になると、父のことを思い出す。今日(4/4)は父の命日。昭和6年4月27日に生まれ、昭和62年(1987年)4月4日に亡くなった。55歳だった。

父には色々なことを教わった。

「いいか、世の中には2種類のタイプの人間がいる。一人は自分で経験したことからしか学べない人間。もう一人は、本を読んだり、歴史から学んだりできる人間だ。何でも経験できるに越したことはないが、人生の時間は限られている。ところで、お前はどちらの人間だ?」

僕がいくつの時のことだったかは忘れたが、その時の父の気持ちが、今は痛いほどよく分かる。というか、申し訳なくて、涙が出そうになる…。

大腸ガンになり、あまり先が長くないと知っていた父は、ある時、僕たち3人兄弟を病室のベットの足元に立たせて、ひとりずつ、説教をした。僕に対しては、こんな話をした。

「お父さんが生きていれば、お前が結婚する時には、マンションの頭金ぐらいは出してやれる。事業を始める時には、資本金ぐらいは出してやれる。でも、これからは一切、そういう援助は無いと思って生きていけ。それがどういう意味か分かるか?お前の友達が一万円を使うとき、お前は五千円しか使えないぞ。もし、お前も一万円を使いたいなら、友達の2倍のおカネを稼ぐ必要がある」。

放蕩息子だった僕も、こうしてブログに書けるほど(今までにも何度か書いているし、「挫折のすすめ」にも書いた)、よく憶えている。

実際、周囲の友人たちが結婚するようになり、僕は父の言葉の意味を理解した…。

もし、今、父が目の前に現れたら、僕は何と報告すればいいだろうか・・・?子供(おそらく、特に男の子)の躾や行動は、「父親」の日頃の行動に強く影響を受けているという。

天国の父親にこれ以上、心配を掛けないように。そして、子供たちが立派に育っていけるように。日々の感情や怠惰な心に流されず、少々のことにへこたれず、立派な人間になれるように・・・。

祝「起業25周年」。「リンゴジュース」と「ポップコーン」。

今から25年前、1991年3月27日。僕は人生で初めての会社を設立した。その9年後、36歳の終わり、2000年3月。山川さんたちと一緒にインタースコープを立ち上げた。そして、その後の6月、僕たちは大岡山から中目黒に引っ越した。早くても午前様という不夜城生活を考えると、30分でも通勤の時間は勿体無いし、体力がもたないだろうと思ったからだ。

その後、2005年3月。僕たちは恵比寿の今のマンションに引っ越した。人生で初めて住宅を購入した。

ベランダから見える借景(遮るものが何もない)は都会とは思えない静けさで、遠く多摩川の花火も見える。そして、この季節は、きれいな桜の花が咲く。

僕たち家族は全員、恵比寿という街も今の住まいもとても気に入っているが、長男が中学生、次男が小学生になる2年後を考えると、もう一部屋あった方がいいと思い、思い切って越すことにした。

正確には、部屋数は足りているのだが、その内の一部屋が窓が無い。恵まれていない環境の方が子供は立派に育つという話もあるが、僕は2人の子供に差をつけるのはしたくなかった。また僕自身、変化を求めてもいた。

出来れば、同じ恵比寿で新居を探したかったが、我々が望む条件(マンションでも戸建てでもどちらでも良かった)をクリアすると、僕たちの予算では手が届かず、長男があと2年弱、今の小学校に通える範囲内で、恵比寿から少しだけ離れることにした。

最初に購入し掛けたのは「都立大学」から徒歩7~8分の距離にある土地だった。呑川緑道の近くで、閑静な住宅街だったが、妻は「急行が止まらない」ということと、商店街が充実していないという理由で、実はあまり乗り気ではなかった。その土地は、幸か不幸か、購入代金のローンが通らず、お流れとなった。

次に購入し掛けたのは、目黒線で目黒から一駅の「不動前」から徒歩10分、目黒不動尊のすぐ近くにある新築の建売住宅だった。

その物件は何故か、ローンの審査が通ったのだが、駅から物件までの通り道が静かで、夜9時を過ぎると人通りが少なく、夜中でも人通りが絶えない恵比寿や中目黒に15年以上も住み慣れている僕たちには、夜道は少し怖い気がした。

契約の前日、僕は家族全員で不動前から物件まで歩いてみた方がいいだろうと思い、大阪出張から急いで帰宅し、雨の中を不動前の駅から物件まで、当時はまだ3歳だった次男をベビーカーに乗せ、傘を差しながら歩いてみた。結局、その物件は流すことにした。

ここ数年、年明けから3月までは猛烈に忙しい。法政大学MBAの修士論文の指導、HackOsakaというイベント、そして、シリコンバレーツアー。その合間を縫って、ほぼ毎週土日は「家探し」だった。最初は色々な物件を見に行けるということで楽しんでいた長男も、やがて、「いつになったら普通の週末が来るんだ!」となった。物件探しを始めて3ヶ月、僕も「本当に引っ越しできるのだろうか・・・」と半ば絶望的になっていた。

その時の僕は「52歳」。引っ越し自体は、長男が大学生になる頃まで伸ばすという選択肢もあったが、僕の年齢を考えると、その時点(ちょうど60歳)で新居を購入するのであればローンは組めないだろうからキャッシュ以外に選択肢はなく、不安定極まりない生活をしている僕自身のことを考えると、経済的には今しかないだろうと思っていた。

そんな時、たまたま妻が問い合わせをした不動産会社から提案された物件の中に、結果として購入した土地が含まれていた。駅から徒歩7~8分のその土地は昨年のGW、別の不動産会社から紹介されていた。値段が高く、ちょっと無理だな・・・と思い、見送っていた土地だった。

ところが、妻が見つけてきた不動産会社の提案資料を見ると、GWに見た時には「商談中」となっていた区画が「販売中」になっており、尚且つ、全区画に「参考プラン」が付いていた。「参考プラン」とは、その土地であれば、こういう住宅が建てられますよ!という、文字通り、参考としてのプランのことだ。

それを見ると、残っていた区画の中では一番安い土地でも、4LDKの家が建ち、尚且つ、近隣の関係で、実は日当たりがかなり良さそうなことが分かった。

当時は中国経済がまだ順調で、アベノミクスの効果もあり、都内の不動産価格は上昇しており、また、購入意欲が強く、良い物件は午前中に見たものが夕方には申し込みが入っていたということが普通だった。僕たちはもう一度、その土地を見に行き、紹介してくれた不動産会社に電話をし、購入の意思を伝えた。やはり、僕たちの後にもう一組、購入の申し込みが入った。

その不動産会社の社長はいかにも不動産会社の経営者という感じだったが、見覚えのある名前で、僕は、ひょっとして・・・と思い、ある知り合いに「ご無沙汰です。ところで、◯◯さんのお兄さん、◯◯で不動産会社を経営されていませんか?」とfacebookでメッセージを送った。するとその翌日、「弟です」という返事があった。

また不思議なことに、その不動産会社に行った日は、その土地の近くで、妻の従姉妹の子供に2度も会い、インタースコープ時代に学生インターンをしていた人間(その土地の近くの住人)にばったり会ったりと、なんと一日に5人の知り合いにあった。学生時代にインターンをしていた彼には当然、僕らが買おうとしていた土地の周辺事情について、根掘り葉掘りと質問をした。

4~5ヶ月を掛けてやっと土地を見つけた後は、約3ヶ月、建築家の方との設計の期間になった。毎週、とある住宅メーカーのモデルハウスに家族4人で通う日々が始まった。

次男は「リンゴジュース」と「ポップコーン」にありつけるためか、毎週、楽しみにしていたようだった。長男は「建築」という仕事に興味を持ったようで、その建築家の方から頂いた設計の際に使う定規を使って、暫くの間、住んでみたい家の図面(勿論、素人図面)を書いては、僕たち夫婦に見せる日々を送っていた。

一昨日の土曜日、上棟式を行った。苦労をして見つけた土地に上物が建ち、初めて、建物の中に入った。僕が中学一年生だった時、両親が新居を建てた時のことを思い出した。

引っ越しは6月下旬。あと2ヶ月とちょっと。すぐである。

少しずつ、今の家の中を片付ける必要があり、昔の書類や写真を整理していると、20代の頃の写真や結婚したばかりの頃の写真が出てくる。

実は、それらの写真を見ると、僕はとても哀しい気持ちになる・・・。何故だろう?と考えた。その理由は「何故、もっとプロダクティブに時間を過ごさなかったのだろう・・・?」という思いがあることだと気づいた。

勿論、当時の僕は一生懸命に生きていたし、人生を浪費していたわけではない。でも「何故、あの時、こうしなかったのだろう・・・」と思うことがたくさんあり、この先、それを取り返せる時間があれば話は別なのだろうが、数日前に「53歳」になった現実を考えると、何とも哀しい気持ちになってしまう。

田坂広志さんが「若さがいかに貴重かということに気がつくのは、その若さを失ってからだ」ということをご自身の著書で書かれていたが、「光陰矢の如し、学成り難し」という言葉の意味を今になって実感せざるを得ない自分自身がなんとも情けなく、愚かに思えてくる。

僕に出来ることは、これからの時間を悔いのない時間にすることしかない。今、こうしてブログを書くことにしたのも、そういう思いからだ。

ところで、僕にとっての2冊めの著書「挫折のすすめ」にも書いたが、学部しか出ていない僕が、法政大学経営大学院の客員教授を仰せつかることになったキッカケは2009年の夏、自宅のソファーでドラッカーを読んでいた時に頂いた、小川先生(法政大学経営大学院イノベーションマネジメント研究科創設者、教授)からの一本の電話である。

その小川先生とは最近、LINEでやり取りをすることが多い。そのLINEで、小川先生が4年前の今日、書かれたブログを紹介された。

詳細は是非、そのエントリーを読んでみて頂きたいが、小川先生が学生の頃、東横線の「都立大学」に住んでいたことや、当時、お世話になった伯母さんの話が書かれている。小川先生のその時の心境、時代背景、亡くなられた伯母さんのこと等が、リアルに伝わってくる。そのエントリーを読んで、僕は「文章を書くことが好き」なことを思い出し、ここ最近の思いをブログに残しておくことにした。

はたして、20年前の僕が、小川先生のそのエントリーを読んだら、今と同じような心境になっただろうか・・・。

少しカッコつけて?表現すると、ここ最近、若さに哀愁を感じるようになったが、そういう年齢になってからでないと分からないことや感じないことがあるのだろう・・・。

facebookで頂いた誕生日祝いのメッセージに対するお礼に書いた、今までの人生で最も大きな挑戦に目処をつけたら、2006年から2011年初頭まで、毎月20~25本ぐらいのエントリーを書いていた頃のように、また、頻繁にブログを書きたいと思っている。

文章で食べていける才能は無いが(言うまでもなく)、「文章を書く時間のある人生」を送りたい。

今回のNew York 出張は、楽しかった。

今回のNew York 出張は、楽しかった。

1986年2月に初めて訪れて以来、かれこれ30回近く、NYCに行っているが、今回の2泊3日(両側は移動日で、実質一日)のNYC訪問は、僕は何を大切にしているのか?何にモチベートされ、何を求めているのかを再認識する良い機会となった。

本当は2/27(土)に San Francisco から New York に移動するはずだったが、大阪市主催のシリコンバレーツアーで連れて行っていた学生&社会人(総勢約40名!)の中の3人がインフルエンザに罹ってしまい、27(土)のフライトに乗れないという事態が発生。その対応でシリコンバレー滞在を2日ほど延長した。

正直、実質一日のためにNYCに行くべきかどうかギリギリまで悩んだが、結論として、強行軍で行くことにした。

NYCには、僕らの投資先である「Peatix」と「Material Wrld」というスタートアップがある。3/1(火)の昼過ぎにPeatix のオフィスを訪ね、その後、昨年秋にBrooklynに引っ越した Material Wrld のNew Office を訪ねた。

Peatix はTokyoで生まれたスタートアップだが、2013年から、Co-founder/CEOの原田さんが育った街でもある New York に進出した。彼らが戦う市場にはEventbright というガリバーがいて、米国市場でPeatix の橋頭堡を築くのはそう容易いことではなく、正直、かなり苦労をしているが、原田さんの挑戦を応援したい。

Peatix は2011年5月20日、ベンチャーナウの竹内さん、ネットエイジ創業者の西川さん、そして僕とで始めたピッチイベント「Innovation Weekend」の記念すべきKick off イベントでの優勝チームである。当時は、Orinoco という社名だった。その年の12月、僕らは彼らに投資した。彼らが他の事業を整理し、Peatix に懸けることを決めたからだ。

Material Wrld とは、投資先のLanguage Cloud のJohn から紹介されて知り合った。Co-founder のRie とJie は Harvard Business School で知り合い、共に働いていたファッション業界で感じていた問題意識で意気投合し起業。僕たちは、一度も彼女たちに会うことなく、Skype で話をしただけで、投資することを決めた。

Rie(日本人)は外交的な性格でチャーミング、華があり、人を惹きつける魅力を持っている。Jie は Cool Beauty なチャイニーズ。非常に Practical というか、Operation Excellent な女性で、この2人の相互補完関係なら成功するだろうと思った。実際に2人に会ったのは、投資してから1年後ぐらいだった。

NYC時間で3/1(火)のディナーは、Material Wrld の Rie とJie、Peatix の原田さん、CFOのAkikoさん、事業開発のDaniel、として僕というメンバー。

facebookにも書いたが、全員がスタートアップの世界に生きており、お互いの事業の進捗状況、競合の状況、日本のスタートアップ界隈の噂話(笑)、米国のスタートアップ事情、そして、お互いの「人生観」を含めて、なんと4時間もの間、様々な話題に花が咲いた。

僕以外は全員、英語のネイティブスピーカーで、Jie と Daniel は日本語が話せないし、当然のことだが、会話は英語だった。中にはよく聞き取れない会話もあったし、自分が思い描くレベルには程遠く、自分自身の英語力にストレスを感じたが、それでも8割方は理解でき、彼らとの会話を楽しむことができた。

福島県郡山市という地方都市で生まれ育ち、一度も海外に住んだことがない僕が、こうして、NYCに投資先ができ(海外という意味では、Silicon Valley にもLondonにもある)、彼らと想いを共有でき(それは、僕自身が起業家として成功も失敗も経験してきたからだ。そのことは自信をもって言える。)、楽しい時間を共にし、そして「人生観」という深い話を「英語」でできるなんて、僕にとってそんな幸せなことはない。

あんな楽しい夜は、記憶にないほど久しぶりだった。

学生の頃、ぼんやりと夢見ていたことは、こういうことだったのだろう・・・。

願わくば、あと10歳、若かったら・・・と思うが、自作の座右の銘のとおり、「人生はすべて必然」であり、僕にとっては今が、そのタイミングなのだろう。

この生命があと20年、できれば、あと25年、続いてくれたら幸せである。

on my way back to Tokyo by Narita Express(に加筆修正)

それでも、New York が好きな理由。

10ヶ月ぶりの New York。初めてこの街を訪れたのは、1986年2月。大学4年生の時だった。不良?外国人が集まる東京のバーで知り合ったアメリカ人(当時は学生)の友人宅に約1ヶ月泊めてもらって、昼夜なく、マンハッタンの街を遊び歩いた。あれから、29年。かれこれ20回以上、この街を訪れている。

New Yorkの魅力は大きく2つ。ひとつは、よそ者を受け入れること。この街には「外国人」という概念が存在しない。世界中からユニークで魅力的な人間が集まってくる。挑戦者は誰でも歓迎する。但し、ビジョンと野心を持っていない人間には厳しい街でもある。

2つ目は、上記と重複するが、その独特なカルチャー。ここ数年は仕事柄、シリコンバレーの方が行く機会が多いが、New York には、その産業的バックグランドのせいで、金融、広告、デザイン、アート、ファッション、リテイル、不動産等、Tech-savvyやGeek以外の人間も受け入れる(むしろその方が多い)多様性がある。

一方、若い頃は NewYork に傾倒していた僕も、ここ数年、Moscow, St. Petersburg, London, Paris, Singapore, Vietnam等、様々な国や都市に行くようになり、London や Paris, St.Petersburg等の魅力を理解するようになったせいか、以前ほど盲目的にNew York にハマっているわけではない。

そのNew Yorkだが、今回の訪問は、僕にとって特別な意味がある。

2011年5月に、ベンチャーナウの竹内さん、ネットエイジの西川さんと一緒に始めたピッチイベント「Innovation Weekend」を、初めて、ここNew York で開催する。異国の地で、尚且つ、英語で、僕たちがイベントを主催するのである。1986年に初めて New York に来た時、どうしてそんなことが想像できただろうか?

お陰様で20社以上のスタートアップがピッチへ応募してくれ、その中からベストな7社を選出した。そして、オーディエンスとして登録してくれている人は150人を超えた。

ところで、アメリカに来る時は特に「時差ボケ」が酷い僕は、着いた初日はアポはいれず、いつもはゆっくりと過ごすのだが、50歳を越えて、人生が残り少なくなってきたと感じているからだろうか?今回は初日からアポを入れ、尚且つ、夜は初めて会う方との会食まで入れた。今日も4件、明日は5件、アポを入れている。

僕の話だけでは申し訳ないので、この2日間で学んだことを紹介したい。

New York初日は、Brooklyn にある Made in NY Media Center というインキュベーション施設を訪問した。

たしか、2年前にオープンしたと言っていたと思うが、ここ数年のNew York は、その理由は忘れたが、Film Maker(映画製作者)、シナリオライター、ジャーナリスト、デジタルコンテンツ・クリエイター等が、Los Angeles や San Francisco等に流出してしまう傾向にあったらしく(一方、I.T.系のスタートアップは物凄い勢いで増えている)、それに危機感を抱いたMichael Bloomberg NY市長が助成金を出し、NY Media Center(クリエイター達のためのインキュベーション)を運営する組織を募集したという。

僕がプロデューサーとして関わっている「大阪GI(Global Innovation)創出支援事業」や、London Tech Cityというスタートアップのムーブメント(僕は London Tech City Global Fellowのメンターを仰せつかっている)とその思想や目的は同じである。

世界中の「都市」が、いかにして若い優秀なタレント(人々)を惹きつけるか?(誘致するか)を競っているということだ。

もうひとつ、Brooklyn Boulders という極めてユニークな施設を訪問した。Bouldersは「大きな岩」という意味で、「屋内ロック・クライミング」施設である。

古い倉庫を改造した施設内には、高いところで、5~6メーターはあろうかという壁が作られており、本格的なロック・クライミングを体験(練習)できる。年甲斐もなく、初めて挑戦してみたが、なんとか初心者コースはクリアできたw。

Brooklyn Boulders は、ボストンにも進出しており、TEDx Bostonの会場にもなっており、最近、注目の施設のひとつらしい。

彼らは、ロック・クライミングを単なるスポーツとして捉えているのではなく、人と人とを繋ぎ、コミュニティを作るための触媒として位置づけている。

例えば、ロープにぶら下がって登るロック・クライミングはペアを組んで行うが、相手が落ちれば命の危険さえあるわけで、それがお互いの信頼感を生み、彼らのメンバー(登録者)の中には、一緒に起業したり、結婚した人達もいるらしい。

NY Media Center で案内してくれた女性が言っていたが、New York では、大手の映画制作会社や広告代理店等に務めていることができる人達でも、様々なバックグランドの人達との出会いと刺激を求め、敢えて、組織を飛び出し、NY Media Centerのメンバーになっている人も少なくないという。

NY Media Center のメンバーも、Brooklyn Boulders のメンバーも「同じ会社」という絆ではなく、別の何かで繋がっている「コニュニティ」を求めているということだ。

そのようなトレンドは東京でも感じらなくもないが、まだまだ「就社」意識が強い日本と、雇用の流動性が高い New York(米国)では社会的バックグラウンドが異なり、また、そもそもが移民の国である米国と日本では、人々が置かれている環境も価値観も異なるということだ。

話は変わるが、ここ数ヶ月、仕事だけでなく、プライベートでも多忙を極めており、とにかく時間がない。

時間に追われている時に、子供に騒がれると、とんでもないことになるという理由で、僕はついつい、次男(3歳5ヶ月)に甘くなる。

長男(小4)は、そのことに気づいており、「お父さんは、◯◯に騒がれるのが嫌で、そういうふうにするんでしょう?」「◯◯が悪いのに、僕のせいにしないでよ」「そんなに甘やかしていたら、◯◯はとんでもない大人になってしまうでしょう」とクレームをつけてくる。彼の主張は正しいことが多い。

次男は、ある意味、賢い人間で、自分の形勢が悪くなると、とにかく「泣く」。そうすれば、自分の主張を聞いてもらえると分かっているのである。

あまりに忙しいせいで、子供たちの教育が疎かになってしまっているのでは、本末転倒である。

New York からiPhoneの「Face Time」で電話をし、子供たちの顔を見れば、時差ボケも飛んで行くし、家族は「血の繋がっているコミュニティ」とも言える。

Innovation Weekend New York の会場スポンサーである「WeWork」もサービスとしてデスクやMTGルーム、Wi-Fi、イベントスペース等を提供しているが、ことの本質は「コミュニティ」であり、みんな一緒に頑張る仲間を必要としているのである。

パーソナルな時代になればなるほど、人々はコミュニティ(自分の帰属場所)を求めるのだろう。

僕たちもNew York のスタートアップコミュニティに溶け込めたらいいな・・・。