二つの祖国への遺言。by 朝河貫一博士

若い頃と言った方がいいか?子供の頃と言った方がいいか?分からないが、東京が憧れだった頃は、生まれ育った地域のために何かしたいなどと思ったことは無かった。

僕を動かしていたのは、とにかく、全国区で成功することであり、大学生の時に初めてNew Yorkを訪れた後は、New Yorkに住むことが夢だった。

グローバルな何かという意味では、30代半ばで立ち上げたインタースコープの頃には殆ど何も出来なかった。40代後半になり、ベンチャーナウの竹内さんと一緒に立ち上げた Innovation Weekend というピッチイベントで World Tour を行い、海外のスタートアップへ投資をし、海外での講演にも呼ばれるようになり、少しずつグローバルな活動を始めることが出来た。

サンブリッジとしての6年3ヶ月は、結果としてグローバルに活動するための土台になった。

この3連休、次男を連れて帰省したことは先日のエントリーで書いたが、一日遅れで帰省した弟家族と一緒に、我々兄弟の母校を訪ねた。

福島県では、福島高校、磐城高校、そして僕たち三兄弟が卒業した安積高校が、進学校として競い合っている。

その安積高校の先輩には、米国イエール大学の教授を務められ、名誉教授にまでなられた「朝河貫一」博士がいる。また、母校の古い木造の校舎は、国の重要文化財に指定されている。

落ちこぼれで成績最低だった僕でさえも、愛校心を覚え、誇らしく思う。

10数年ほど前から男女共学になり、僕たちが母校を訪れていた最中、自転車に乗った女子生徒たちが通り過ぎて行った。

重要文化財に指定されている校舎に足を踏み入れ、2階の講堂に入ってみた。

整然と並んだ360席(数えてみた)の椅子越しに前方の演台を見ながら、10代の彼らには輝かしい未来が待っているんだなぁと思った瞬間、実年齢は54歳になってしまったが、気持ちの上では、彼らと同じような精神を持って、この先の人生を歩んでいけたらいいなぁ・・・と思い、ちょっとワクワクした。

聡明な彼らの未来が明るいものであって欲しい。

そして、郷里の若者の未来に何か僕にできる貢献をしたいと思った。

ところで、我らが朝河先生は、太平洋戦争の「最中」、日本と米国の将来を思って、こう仰っている。

二つの祖国への遺言

米国よ、

国際連合が発足したとき、覇権を行使してはならない。

戦後、米国は謙虚さという学科を学ぶことによって、

世界に現存する矛盾と不平等に思いを致し、

そこから真の正義を考えなければならない。

力を振りかざす正義感に立った政治伝道師的な態度は、反省しなければならない。

日本よ、

敗戦後、日本は民主改革によって、再び大発展をとげるであろうが、

軍部や権力者の指導に盲従して戦争に走った共同体的倫理は、もはや捨て去ろう。

民主主義においては、政体がそうなっているだけでは民主国家とはいえない。

国民一人一人は常に道徳と責任を自覚するとともに、

民主主義を勝手にゆがめる勢力に対しても、これに打ち勝たなければならない。

こうしてこそ平和と真の民主主義が訪れるのである。

今日を予言するような遺言である。