「責任」を「引き受ける」。

自分で約束した期限は守れなかったが、何とかNYC&Silicon Valley出張前に「宿題」は提出した。清々しい気分だ。

先々週の金曜日から次男の体調が悪くなった。最初はヘルパンギーナ(幼児が感染するウイルス)と診断されたものの、一週間経っても症状が回復せず、先週の木曜日、急遽、予定を変更し、僕が次男を総合病院に連れてった。

診断の結果は「溶連菌感染症」。実は3月下旬にも罹っており、まさか&ひょっとして・・・とは思っていたものの、やはり・・・という結果だった。

物事はそこで収束せず、次は「妻」が感染し、その次は「長男」が感染した。つまり、僕以外の家族全員が「溶連菌」に感染したということだ。

僕は何故か、インフルエンザも、家族全員が感染しても移らない・・・。

というわけで、こうして、成田エクスプレスに乗り、New York 出張へ向かうことができている。

ところで、ETICを通じて知り合い、何度かお話をさせていただいたことのある田坂広志さんが、ご自身の著書のなかで「責任」を「引き受ける」ということを書かれている。

文字上の意味は誰にでも理解できることだし、僕も理解したつもりでいた。しかし、田坂さんがご著書で仰っていた「その意味はとても深く」、僕はその本質を理解していなかったということを理解した。

つい先日のことである。

人間は本能的に、いや、僕のような我儘な人間は、と言った方がよいかもしれないが、冷静に考えれば「やらない選択肢は無い」という事実を理解せず、「やりたくない」という理由で「意思決定」を避けたがり「先延ばし」にする。

でも、よくよく冷静になって考えると、嫌なことでも、あるいは自分が責任を負いたくないことでも、それを「捨てるという選択肢」が「現実的ではない(捨てることはできない)」のであれば、その「責任」を「引き受ける」しかない。

結局はそれが「自分自身にとっても合理的」であり「メリット」を享受することになる。

もうひとつ、別の話になるが、僕は何でも「自分でやらなければ気が済まない人間」だ(だった?)が、それは裏を返すと、結局は「他人を信用しない」ということになる。何でも自分でやった方が満足の行く結果になると思っているわけで、それは傲慢な考え方だ。

当たり前のことだが、大きなことを成し遂げるには、たくさんの人、それも「たくさんの優秀な人達」を巻き込む必要がある。

誰かに任せて、仮に、それが上手く行かなかったとしても、自分にキャパシティが無かったのであれば、結局は出来なかったのと同じことだ。

能力的には出来たとしても、それをする「時間」がなければ結局は出来ないことと同じである。

とある会議での議論で、田坂さんの仰ることの意味が、少し分かったような気がした。