祝「起業25周年」。「リンゴジュース」と「ポップコーン」。

今から25年前、1991年3月27日。僕は人生で初めての会社を設立した。その9年後、36歳の終わり、2000年3月。山川さんたちと一緒にインタースコープを立ち上げた。そして、その後の6月、僕たちは大岡山から中目黒に引っ越した。早くても午前様という不夜城生活を考えると、30分でも通勤の時間は勿体無いし、体力がもたないだろうと思ったからだ。

その後、2005年3月。僕たちは恵比寿の今のマンションに引っ越した。人生で初めて住宅を購入した。

ベランダから見える借景(遮るものが何もない)は都会とは思えない静けさで、遠く多摩川の花火も見える。そして、この季節は、きれいな桜の花が咲く。

僕たち家族は全員、恵比寿という街も今の住まいもとても気に入っているが、長男が中学生、次男が小学生になる2年後を考えると、もう一部屋あった方がいいと思い、思い切って越すことにした。

正確には、部屋数は足りているのだが、その内の一部屋が窓が無い。恵まれていない環境の方が子供は立派に育つという話もあるが、僕は2人の子供に差をつけるのはしたくなかった。また僕自身、変化を求めてもいた。

出来れば、同じ恵比寿で新居を探したかったが、我々が望む条件(マンションでも戸建てでもどちらでも良かった)をクリアすると、僕たちの予算では手が届かず、長男があと2年弱、今の小学校に通える範囲内で、恵比寿から少しだけ離れることにした。

最初に購入し掛けたのは「都立大学」から徒歩7~8分の距離にある土地だった。呑川緑道の近くで、閑静な住宅街だったが、妻は「急行が止まらない」ということと、商店街が充実していないという理由で、実はあまり乗り気ではなかった。その土地は、幸か不幸か、購入代金のローンが通らず、お流れとなった。

次に購入し掛けたのは、目黒線で目黒から一駅の「不動前」から徒歩10分、目黒不動尊のすぐ近くにある新築の建売住宅だった。

その物件は何故か、ローンの審査が通ったのだが、駅から物件までの通り道が静かで、夜9時を過ぎると人通りが少なく、夜中でも人通りが絶えない恵比寿や中目黒に15年以上も住み慣れている僕たちには、夜道は少し怖い気がした。

契約の前日、僕は家族全員で不動前から物件まで歩いてみた方がいいだろうと思い、大阪出張から急いで帰宅し、雨の中を不動前の駅から物件まで、当時はまだ3歳だった次男をベビーカーに乗せ、傘を差しながら歩いてみた。結局、その物件は流すことにした。

ここ数年、年明けから3月までは猛烈に忙しい。法政大学MBAの修士論文の指導、HackOsakaというイベント、そして、シリコンバレーツアー。その合間を縫って、ほぼ毎週土日は「家探し」だった。最初は色々な物件を見に行けるということで楽しんでいた長男も、やがて、「いつになったら普通の週末が来るんだ!」となった。物件探しを始めて3ヶ月、僕も「本当に引っ越しできるのだろうか・・・」と半ば絶望的になっていた。

その時の僕は「52歳」。引っ越し自体は、長男が大学生になる頃まで伸ばすという選択肢もあったが、僕の年齢を考えると、その時点(ちょうど60歳)で新居を購入するのであればローンは組めないだろうからキャッシュ以外に選択肢はなく、不安定極まりない生活をしている僕自身のことを考えると、経済的には今しかないだろうと思っていた。

そんな時、たまたま妻が問い合わせをした不動産会社から提案された物件の中に、結果として購入した土地が含まれていた。駅から徒歩7~8分のその土地は昨年のGW、別の不動産会社から紹介されていた。値段が高く、ちょっと無理だな・・・と思い、見送っていた土地だった。

ところが、妻が見つけてきた不動産会社の提案資料を見ると、GWに見た時には「商談中」となっていた区画が「販売中」になっており、尚且つ、全区画に「参考プラン」が付いていた。「参考プラン」とは、その土地であれば、こういう住宅が建てられますよ!という、文字通り、参考としてのプランのことだ。

それを見ると、残っていた区画の中では一番安い土地でも、4LDKの家が建ち、尚且つ、近隣の関係で、実は日当たりがかなり良さそうなことが分かった。

当時は中国経済がまだ順調で、アベノミクスの効果もあり、都内の不動産価格は上昇しており、また、購入意欲が強く、良い物件は午前中に見たものが夕方には申し込みが入っていたということが普通だった。僕たちはもう一度、その土地を見に行き、紹介してくれた不動産会社に電話をし、購入の意思を伝えた。やはり、僕たちの後にもう一組、購入の申し込みが入った。

その不動産会社の社長はいかにも不動産会社の経営者という感じだったが、見覚えのある名前で、僕は、ひょっとして・・・と思い、ある知り合いに「ご無沙汰です。ところで、◯◯さんのお兄さん、◯◯で不動産会社を経営されていませんか?」とfacebookでメッセージを送った。するとその翌日、「弟です」という返事があった。

また不思議なことに、その不動産会社に行った日は、その土地の近くで、妻の従姉妹の子供に2度も会い、インタースコープ時代に学生インターンをしていた人間(その土地の近くの住人)にばったり会ったりと、なんと一日に5人の知り合いにあった。学生時代にインターンをしていた彼には当然、僕らが買おうとしていた土地の周辺事情について、根掘り葉掘りと質問をした。

4~5ヶ月を掛けてやっと土地を見つけた後は、約3ヶ月、建築家の方との設計の期間になった。毎週、とある住宅メーカーのモデルハウスに家族4人で通う日々が始まった。

次男は「リンゴジュース」と「ポップコーン」にありつけるためか、毎週、楽しみにしていたようだった。長男は「建築」という仕事に興味を持ったようで、その建築家の方から頂いた設計の際に使う定規を使って、暫くの間、住んでみたい家の図面(勿論、素人図面)を書いては、僕たち夫婦に見せる日々を送っていた。

一昨日の土曜日、上棟式を行った。苦労をして見つけた土地に上物が建ち、初めて、建物の中に入った。僕が中学一年生だった時、両親が新居を建てた時のことを思い出した。

引っ越しは6月下旬。あと2ヶ月とちょっと。すぐである。

少しずつ、今の家の中を片付ける必要があり、昔の書類や写真を整理していると、20代の頃の写真や結婚したばかりの頃の写真が出てくる。

実は、それらの写真を見ると、僕はとても哀しい気持ちになる・・・。何故だろう?と考えた。その理由は「何故、もっとプロダクティブに時間を過ごさなかったのだろう・・・?」という思いがあることだと気づいた。

勿論、当時の僕は一生懸命に生きていたし、人生を浪費していたわけではない。でも「何故、あの時、こうしなかったのだろう・・・」と思うことがたくさんあり、この先、それを取り返せる時間があれば話は別なのだろうが、数日前に「53歳」になった現実を考えると、何とも哀しい気持ちになってしまう。

田坂広志さんが「若さがいかに貴重かということに気がつくのは、その若さを失ってからだ」ということをご自身の著書で書かれていたが、「光陰矢の如し、学成り難し」という言葉の意味を今になって実感せざるを得ない自分自身がなんとも情けなく、愚かに思えてくる。

僕に出来ることは、これからの時間を悔いのない時間にすることしかない。今、こうしてブログを書くことにしたのも、そういう思いからだ。

ところで、僕にとっての2冊めの著書「挫折のすすめ」にも書いたが、学部しか出ていない僕が、法政大学経営大学院の客員教授を仰せつかることになったキッカケは2009年の夏、自宅のソファーでドラッカーを読んでいた時に頂いた、小川先生(法政大学経営大学院イノベーションマネジメント研究科創設者、教授)からの一本の電話である。

その小川先生とは最近、LINEでやり取りをすることが多い。そのLINEで、小川先生が4年前の今日、書かれたブログを紹介された。

詳細は是非、そのエントリーを読んでみて頂きたいが、小川先生が学生の頃、東横線の「都立大学」に住んでいたことや、当時、お世話になった伯母さんの話が書かれている。小川先生のその時の心境、時代背景、亡くなられた伯母さんのこと等が、リアルに伝わってくる。そのエントリーを読んで、僕は「文章を書くことが好き」なことを思い出し、ここ最近の思いをブログに残しておくことにした。

はたして、20年前の僕が、小川先生のそのエントリーを読んだら、今と同じような心境になっただろうか・・・。

少しカッコつけて?表現すると、ここ最近、若さに哀愁を感じるようになったが、そういう年齢になってからでないと分からないことや感じないことがあるのだろう・・・。

facebookで頂いた誕生日祝いのメッセージに対するお礼に書いた、今までの人生で最も大きな挑戦に目処をつけたら、2006年から2011年初頭まで、毎月20~25本ぐらいのエントリーを書いていた頃のように、また、頻繁にブログを書きたいと思っている。

文章で食べていける才能は無いが(言うまでもなく)、「文章を書く時間のある人生」を送りたい。