自分しか証人のいない「試練」。

僕は試合を観てはいないが、ネット上の書き込みを見ていると、一昨日の「韓国戦」は、結果以上に良くない内容だったようだ。

今回のワールドカップは、何となく、盛り上がりに欠ける。

以前のエントリーにも書いたが、幸か不幸か?日本代表がワールドカップに行くのが当たり前になり、それだけでは「評価」されなくなっているのが現実だと思うが、「勝てそうだから応援する」というのでは、あまりに無責任な話だと思う。

フランスの時だったかは、帰国する選手を空港で待ち構えて「生卵」をぶつける(被害者は、たしか城だった)という騒動があったが、裏を返せば、そのぐらい「本気」だったということだ。

高校生の時から大のサッカーファンの妻が「応援しなきゃ、そりゃ負けるよ」と言っていたが、僕は今回だからこそ、応援したいと思う。

ところで昨日は、インタースコープ時代にお世話になったある方と数年ぶりにお会いするために、久しぶりに「東急池上線」に乗った。

実は、妻の実家が池上線沿線にあり、両親が顕在だった頃はしばしばお世話になっていた路線である。

駅と駅の間隔が短く、加速し切る前に次の駅に着いてしまう、何ともローカルな赴きの漂う「池上線」は、僕にとっては「東京の光景」のひとつでもある。

さて、そんなことを思いながら「旗の台」に着くと、時間が止まっているような感覚を覚えた。

高校を中退し「中学浪人」をしていた時の友人が、旗の台にある「昭和医大(昭和大学)」に通っていたこともあり、何度か足を運んだことがあるが、20年以上も前の光景が今も残っていた。

少し早く着いてしまったので周囲を散策すると、何とあの頃にその友人と入った「ゲームセンター」が今もあった。

実は、その彼は、もうこの世の人ではないのだが、彼とやっていたバンドを思い出した。

彼に貸した「ストラトキャスター」は結局、どこに行ってしまったのだろう?

前回は「父」の想い出を書いたが、早くに亡くなった友人の分も含めて、良いことも辛いこともたくさん詰まった「濃い」人生を送りたいと思う。

「旗の台」に向かう途中で読み終えた「ニーチェの言葉」の最後の2つ、「すべての良い事柄は、遠回りの道を通って、目的へと近づいていく」という一文と「自分しか証人のいない試練」というタイトルの元に書き綴られている言葉、そして、この章(最終章)のテーマ(美について)同様、最初のページに書かれている「理想や夢を捨てない」という言葉は、まさに今の僕に必要な言葉である。

ところで今日は、僕が保育園に迎えに行った。

朝からの約束で、帰宅後、彼のリクエストに応えて「アルファベット」を教えた。

日本語の発音にはない「F」「V」と「L」に手こずっていた。

運動神経の発達はやや劣るが、知的好奇心は抜群である。

子供の可能性を信じてあげるのが「親の最大の責任」である。