今日(3.11)開港した「茨城空港」って何?

僕が初めて New York City(マンハッタンのことで、NYCと略すのが一般的)を訪れたのは、1986年2月。今から24年も前になる。

こうして文字にしてみると、随分と時間が経ったんだな・・・と思う。

当時のNYCの観光名物でもあった「graffiti(落書き)」満載の地下鉄にアメリカ人の友人2人と一緒に初めて乗った時は、白人、黒人、東洋人と、この地球上のすべての人種が乗っていたと言っても過言ではない状況に「唖然」とし、物凄い「恐怖感」を覚えたその感覚が、今も僕の中に残っている。

あの頃のNYCはジュリアーニ氏が市長に就任する前で、とても治安が悪く、Lower East Side、特に「アルファベット・アベニュー」辺りは滅茶苦茶ジャンキーなエリアで、真っ昼間からドラッグでラリッた奴らが蛇行しながら歩いていた。

そんなNYCを訪れた理由は、僕を「社会見学」の一環として地下鉄に乗せてくれたアメリカ人の友人2人の1人がNY出身(NYCからクルマで40分のPearl Riverという閑静な住宅街に実家があった)だったということと、このブログで何度も紹介している元H2Oの赤塩正樹氏がNYCに移住していたことだった。

僕にとってはセンセーショナルな地下鉄に乗り、その赤塩氏が住んでいたEast Villageのアパートを訪ねた日は、2月のNYCとは思えない「小春日和」の暖かい日だったことまで憶えている。

さて、そんなジャンキーなNYCにすっかり魅せられてしまった僕は(I was addicted to NYC at that time…)、それからの10年で10回以上、今までに20回以上、NYCを訪れた。

一時期は、ファッション雑誌の編集者がNYCのトレンディなスポットはどこ?と僕に尋ねてくるほど、NYCの「今」に詳しかった。

そういう「今」は、何にも知らないけど・・・。

最後にNYCを訪れたのは、9.11があった2001年の4月である。

さて、タイトルのとおり、ここまでの文章は「前置き(伏線)」であり、今日の「本題」は、僕が好きな「自助努力」と「予期せぬ成功」である。

まず、「自助努力」であるが、「280億円」だかを注ぎ込んで今日(3.11)開港した「茨城空港」については(http://twitter.com/kazesaeki 茨城空港の開港に際して、当初、年間90万人の利用見込みのところ20万人に下方修正。前原大臣が地元の自助努力を期待すると述べたのに対し、県知事が、国が自助努力すべきと反論していたが、国の自助努力って、いったいなんぞや。(続)”国”という言葉を簡単に口にするが、人間の集合体の活動と税金が”国”という形になっているにすぎない。ならば、まずそれらの持ち場に関わっているものが、そこで危機感を持って努力するところから始めろよ、と言いたい)、こうしてブログで紹介するぐらいしか対応のしようもない。

まあ、元を質せば、現県知事に直接の責任があるわけではなく(但し、上記のTwitterのとおりの発言をしたのであれば、それは論外である)、自民党「長期政権」時代の「政官財のトライアングルの談合政治」の「産物」であり、旧運輸省なり現国土交通省の「利権の巣窟」に過ぎず、そんな「業界団体」のような「国政」を続けて来た結果が「財政赤字」ですと言って「赤字国債」を発行する「政治家(もちろん、尊敬すべき政治家の方々もたくさんいらっしゃいます。現に、僕の友人にも)」なのか、実質的には「財務官僚」のシナリオなのかはわからないが、この狭い国土の日本に「98個」もの「空港」を造り続けてきたことで「恩恵に被ってきた人達(「空港」以外も含めて、同様な人達)」に、その国債を「買い戻して欲しい」という話である。

我々「経営者(今の僕は、実質的には経営者とは言えないが)」は、「ビジネスと経営者に対する与信能力が無い」銀行に「個人保証(融資を受けている場合)」をさせられていたり、「株主代表訴訟」のリスクに晒されていたりと、つまり、下手を打ったら、その「損失」は「自腹を切って返せよ!」と言われているわけだが、どういうわけか「公共の資金」つまり「税金」を使って仕事をしている「政治家」には事実上、その「リスク」はない。

あるのは、地元と支持母体である業界団体への「利益誘導(そういう意味では、一部の国民は利益に与っている)」と「落選」だけであり、然るに、最も「利益誘導」に走ってきた「長老」が、この国を支配してきたとも言える(そうではない尊敬すべき方々もいる)。

「JAL」は、その「総決算」である。

そう、すべてが「最初から終っている」。

※「関係諸氏&組織」にリンクを貼ることさえ時間が勿体ないので止めた。

次は「予期せぬ成功」の話。

正確には「成功」という定義とは少々異なるが、僕がNYCの魅力に取り憑かれ、そのお陰で英語も多少は話せるようになり、幾ばくかは国際感覚が身に付いたのは、前述した「友人たち」に恵まれたお陰である。

1986年2月、いわゆる「卒業旅行」にNYCを選んだ際、実はその「競合」として「L.A.」があった。

そして、L.A.にも「友人」がいた。

その時、もし、L.A.を選んでいたら、僕の人生はまったく違ったものになっていたかもしれない。

すべては「予期せぬ成功」であり、と同時に、すべての出来事には「原因」がある。

「種」のないところから「芽」が出ることはなく、「人生」も「世の中」も、すべて「必然」の結果である。

今日の営みが、明日と10年後を決める。

「ナイスショット」も「ミスショット」も含めてね。

「10年の歳月」と「一夜限りの再結成」と「経営理念」。

昨夜は、僕たち「インタースコープ出身者(関係者)」にとっては、文字どおり、記念すべき一夜になった。

年度末で多忙を極めているところに生憎の悪天候が重なったにも関わらず、既に法人としては存在していないインタースコープというベンチャー企業の「一夜限りの再結成(10周年)」に、50人もの仲間が参集してくれたことを、とても光栄に思ったと同時に、そういう仲間と仕事ができたことを改めて幸せだと思った。

みんな当時とあまり変わらず、とても元気な表情で楽しそうに談笑している姿を見ると、あまり時間の経過を感じれられなかったが、当時は20~22歳の学生だったインターンの面々が30代を迎えている事実を知り、10年という歳月の重みを実感した。

もう父親や母親になっている人もいる。

また、「パラダイス鎖国」なる著作がヒットするほどに萎縮している今日の日本だが、インタースコープOBOGの何人かは、海外で仕事をしたり暮らしたりしており、グローバルに活躍していることを誇りに思う。

その一方、それ程に優秀な人材を惹き付けていたインタースコープというベンチャー企業を、今日まで存続させることのできなかった僕や山川さんの不甲斐なさを感じもした。

それでも集まってくれた仲間には、心からお礼を言いたい。

当時とはお互いの立場と関係は変わったが、それぞれの人生において、「科学的アプローチと徹底した人間主義により、新たな社会的価値を創造する」というインタースコープの経営理念を実践していってくれたら、創業者として、それほど幸せなことはない。

そして、いつの日かOBOGの中から、インタースコープを超えるベンチャー企業を創業する人が現れることを期待したい。

僕もまだまだ頑張ろう。

そんな想いにさせてくれた「一夜限りの再結成」だった。

意思決定

昨日は、僕が選考委員を務めているドリームゲートの「大挑戦者祭」というイベントがあった。

DeNAの南場さんが基調講演をされていたが、僕が今まで聴いた創業経営者の講演の中でも、特に素晴らしい話だった。

創業期の苦労話はネットベンチャー仲間の間では有名な話しだが、昨日の講演で特に深く響いたのは、マッキンゼーつまり経営コンサルタント時代の意思決定とDeNAを立ち上げてからのそれは、大きく異なるということ。

経営コンサルタント時代の意思決定は、高いフィーを貰っているクライアントに「何を言うか?(価値ある提案ができるか?)」だったが、経営者になってからの意思決定は、「何をするか?しないか?」だということ。

それだけ聞けば当たり前の話だが、問題は、「何をするか」を決めた「その翌日」から「予期せぬ問題」が起こるということ。

そして、何億というおカネとスタッフを投入した意思決定は「間違いだったのだろうか?」という疑問が頭をもたげ、言いようのない「恐怖と不安」に押しつぶされそうになったということ。

僕も自分の拙い経験に照らし合わせて南場さんの話を聴いていたが、その「恐怖」に打ち勝ち、自分の「信念」を持ち続けられる人だけが、経営者を続けられるということ。

あのステージに立ち続けるには、「覚悟」が必要だ。

そのことを再認識させられた。

iPhoneからの投稿

「社会構造の変革」と「予期せぬ成功」。

今日は、来年度(4月)から非常勤講師を仰せつかっている法政大学経営大学院(MBA)イノベーションマネジメント研究科の「最優秀プロジェクト」決定のための最終プレゼンテーションを拝聴させていただいた。

法政大学には、2つのビジネススクールがあり、4月からお世話になるイノベーションマネジメント研究科は、開設されてから、まだ5~6年目で、ビジネススクールの中では「かなりの後発」である。

それ故に、カリキュラムには工夫が施されており、修士論文(もあったかもしれない)の代りに「プロジェクト」と呼ばれる「事業プラン」の立案が義務づけされており、今日はその「最優秀賞」を決める発表会だった。

尚、最優秀賞の受賞者には、なんと、賞金「100万円(今回はふたりだったので50万円ずつ)」が贈られる。

僕は先日、今日のプレゼンテーションに進む人を決める「予選会」にも出席させていただいていたので、ある程度は、事業プランのレベル感を想像していたが、今日の最終発表プランは、僕の予想以上に素晴らしいものだった。

因みに、最優秀賞のひとりは「虎の穴 代表取締役社長 吉田さん」!!

「売上100億円」を超える企業を創り上げた方が学んでいるビジネススクール(MBA)なのである。

また、僕の知る限り、この手のビジネスプランの審査員(そういう僕も審査員を仰せつかったことが何度かあるが)は大概の場合、話がつまらないし、とにかく長いのに辟易とさせられる。

しかし、僕が言うのは大変生意気で失礼だが、今日の「審査員」の方々の「講評」は、どなたも素晴らしく、大変勉強になった。

その中でも記憶に残ったのは、藤沢久美さんが「ルワンダ」を訪れた時の話である。

彼女がルワンダのある小学校(と言っていたと思う)を訪れた際の最初の質問は、「How old are you ?」だったそうである。

彼女は「最初から年齢の質問かよ?」と思いつつ「41歳」と答えると、「じゃあ、あなたはもうすぐ死ぬよ」という返答が返ってきたそうだ。

ルワンダの「平均寿命」は「45歳」なのだという。

そのことを考えただけでも、日本人としてこの国に生まれたことだけで「幸せ」である。

藤沢さんが言っていたとおり、平均的な幸運が訪れれば、我々は「80歳」まで生きるのである(最近は『年金不安』もあり、長寿が『不安』になりつつあるのは皮肉な話だ)。

そして、そんな「成熟した日本」には、成熟した国に相応しいイノベーションがあるはずだと、講評を締めくくっていた。

彼女が副代表を務めているソフィアバンク代表の「田坂広志さん」が、何かにつけ、「日本に生まれたことだけで幸せなことだ」と仰っているが、今日の藤沢さんのひと言で、田坂さんが言わんとすることを、ある種の「リアリティ」をもって理解した。

また、講評の最後を締めくくられた元イーアクセス社長の安井さんが、他の審査員の先生方が仰っていたことを総括するような話をされていたことも印象的だった。

「このご時世を反映してか、各人のプランが良く言えば『リアリティ』がある反面、『社会構造(の変革)』にチャレンジしないで、『今あるものの、これとこれを繋いで』というものが多かったのが残念です」。

社会構造の変革にチャレンジしてきたイーアクセスの社長を務められていた安井さんだからこそ言える講評でもあった。

その一方、ドラッガーのいうとおり、イノベーションには「7つの機会」があり、最も多いのは「予期せぬ成功」である。

つまり、たまたま「タイミング」がよかったりと、僕自身のケースも含めて、自分では予期していないところに「成功」があったというケースが多いのも事実である。

さて、僕は、残された人生を、どう生きようか?

そのことを改めて考えさせられた。

ところで先程、ドラッガーBOTで、彼のこんな言葉を知った。

「人間にとって成長ないし発展とは、何に対して貢献すべきかを自らが決定できるようになることである」。

僕は46歳も残すところあと数週間となり、ようやく、その答えを導き出せそうな気がしている。

「スティーブ・ジョブス」と「劣後順位」。

僕のブログを読んで下さいっている方々も、さすがにもう、浅田真央ちゃんの話は食傷気味だと思うので、今日は別の話。

アップル創業者の「スティーブ・ジョブス」のスタンフォード大学卒業式での「スピーチ」は、ご存知の方が多いと思うが、その中で彼は、こう言っている。

「朝、鏡の前に立ち自分の顔を見て、『今日が人生最後の日だったとして、今日の予定はそのまま実行したいことだろうか?』と自分に訊いてみる。毎日毎日そんなことをしていると、ある日、今日の予定は自分にとって本意ではない、と気づくときがある。そんな日が数日続くようなら、それは、そろそろ人生を変えた方がよいというサインかもしれない」。

彼が言わんとすることは理解できるが、それが「どういう心境なのか?」はイメージできなかった。

それが最近、ホント、ここ最近、「こういうことなのかもしれないな?」と思う出来事があった。

誤解の無いように説明しておくと、僕は今の自分の生活がつまらないと言っているのではない。

このアポは、自分にとって、本当に必要なものなのか?と考えることがあったという意味である。

もちろん、不要なアポを入れることはなく、すべてが何らかの意味があるアポなのだが、どこかで妥協をしていたり、動機にやや不純なものが混じっていたりと、ピュアではない要素があるということだ。

そのことに気づいた。

ドラッガーの言う「劣後順位」でもある。

ところで、我が子が新しい保育園に移ってから、丸2ヶ月が過ぎた。

昨日は、保育園でダダをこねることもなく、初めてすんなりと母親とバイバイできたという。

今朝は僕が妻と彼を送って行ったが、今日も泣いたりせず、元気に登園したらしい。

さて、子供を保育園に預けた後、今度は、妻を仕事場まで送っていった。

目的地に向かう車中で、彼女がおもしろい?ことを言っていた。

それは「人間は、締切がないと、時間を用意しない」ということである。

彼女は「臨床心理士」を目指すと決めた後、予備校に通い、大学3年への「編入受験」をし、大学院の「受験」をし、その次は「臨床心理士」の「資格試験」に合格するための勉強と、常に「締め切り(試験日)」があり、子育てと仕事の合間を縫って、とにかく「まとまった時間」を創ることに一生懸命だったのだが、昨秋、めでたく臨床心理士の試験に合格した後は、日々の仕事と子育てに追われて、春休み(大学で働いてる)になったらやろうと思っていたことが「何もできていない」と言っていた。

「春休み」になってからの方が「時間がある」のは間違いないのに・・・である。

人間は「締め切り」がないと、時間を有効に使えないのかもしれない。

考えてみると、当たり前のことかもしれない。

何故なら、何事も「有限」だと思えば大切にするし、「無限」だと思えば浪費しがちになるだろうから。

浅田真央の「涙」。パート2

はやいもので今日から3月。あと1ヶ月も経たないうちに「桜」の季節がやってくる。一年は短い。

さて、世界が熱狂したバンクーバー・オリンピックも終了。

金メダル「ゼロ」に終った日本だが、色々と考えることがあった。

ところで、その「金メダル」を獲った「キム・ヨナ」の引退説があるらしい。

「荒川静香」がトリノでの金メダルを花道に引退し、プロ・スケーターに転向したように、それは十分にあり得る話だと思う。

実際のところは知らないが、ここまでの「道のり」が「壮絶」なものだったことは想像に難くない。

本人は勿論、五輪で金メダルを目指すのは「家族全員の闘い」である。

ところで、「銀メダルに涙した」浅田真央が、今週号のアエラの表紙を飾っている。

今日の午後、青山一丁目から乗った銀座線の「中刷り広告」でそのことを知ったが、僕の目の前に立った50歳ぐらいのオバさんが、そのアエラを持っていた。

そういう僕も買ってしまった。かなり売れただろう。

何でも「経済効果」に置き換えるのはいかがなものかと思うが、それだけ、人々を虜にしたということだ。

さて、引退観測が流れる「キム・ヨナ」に話を戻すと、もし、本当に彼女が引退したら、「浅田真央」は、むしろ、精神的に辛くなるように思う。

先日のエントリーで「セナ v.s. プロスト」のことを書いたが、プロストが「4度目のワールドチャンピオン」を花道に引退した後、ひとりでF1界を引っ張っていた「セナ」が、レース中にプロストと無線で会話した時に、「アラン、(君がいなくなって)寂しいよ。戻ってきて欲しい」と言っていたことが印象に残っている。

キム・ヨナが引退すれば、「銀メダル」を取った「真央ちゃん」は、追われる立場になる。

16歳で4位に入ったアメリカの「長洲未来」など、若手の台頭も想定される。

「他人の人生についてあれこれ書く暇があったら、自分の人生の心配をした方がいい」とも思うが、「キム・ヨナ」と「浅田真央」という2人の天才は、それだけ人々の人生に「勇気と自信」をもたらしているということだ。

そして、閉塞感の漂う日本だからこそ、「浅田真央」や「上村愛子」に「期待」してしまうのだろう。

複雑な想いに駆られるが、そう考えると、「ドリームビジョンの企業理念」は、ビジネスでなくても実現できるということだ。

ビジネスだろうがスポーツだろうが芸術だろうが、人々に「勇気と自信」をもたらすのは、その人の「生き方」であり、それが「物事の本質」である。

追伸:トリノで金メダルを獲った後だったと思うが、「荒川静香」選手のことも、このブログで書いたことがある。あれから4年近く経つということだ。時の経つのは本当にはやい。