「下北沢」へ引っ越した。

昨日のエントリーで書いたシリコンバレーに住む友人は、いつもどおり、自信に満ちあふれていたが、人生に対する考え方は、一年半前に会った時とは異なっていた。

2008年の夏に会った時は「60歳を過ぎても現役で仕事をしていると思う」と言っていたが、昨日は「60歳になったら、さすがに子供と遊びたいですよ」と言ってた。

何が彼の考えを変えさせたのかは聞かなかったが、子供がもうひとり生まれたことで、親として、あるいは、家族という存在の大切さを、よりいっそう実感するようになったのかもしれない。

シリコンバレーでは、若くして引退し、その後は、地域のボランティアをしたり、自分の趣味に打ち込んだり、あるいは、ジムロジャースのように世界を旅行して回ったりと、第2の人生を歩む人が多いと聞く。

そのためには、50歳までに「引退」できるだけの資産を築く必要があり、それが、彼らをモーレツに働かさせる動機になっているのだろう。

その一方、おカネはそれほど稼げなくとも、ボランティアに打ち込んだり、NPOで働いたりしている人もいて、「多様性」に富んでいるという。

一流大学を出て一流企業に入り、という、どこかの国にあるようなステレオタイプな価値観はない。

僕が学生の頃、初めてニューヨークを訪ねた時、その「エネルギー」と「多様性」と「自由さ」に驚きを感じたのと同じことなのだと思う。

さて、ここから先は「落ちこぼれ」シリーズの続き。

受かる見込みもない大学を含���て「計6校」を受験し、何とか「三流大学」に潜り込んだ僕は、神奈川県伊勢原市の「片田舎」で学生生活を始めた。

念願?の東京に出て来たつもりが、僕が入学した東海大学(関係者の皆様、三流大学と言って申し訳ありません)のキャンパスは「神奈川県秦野市」にあり、新宿から小田急線の急行に乗って、約60分ほどのところにあった。

通学の時間やアパートの家賃を考えて都内は諦めたとしても、何とか向ケ丘遊園辺りに住みたいと思っていたが、父親を説得できず、大学の最寄り駅の隣の駅から徒歩15分のところに住むことになった。

今では考えられない話だが、いわゆる「賄い付き(下宿)」のアパートである。

この生活が、僕は嫌で嫌で仕方がなかった。

自分でおカネを出せば文句はないだろうということで、僕はアルバイトでおカネを貯めて、当時付き合っていた彼女が住んでいた「下北沢(世田谷区)」へ引っ越した。

厳密に言うと、下北沢のひとつ隣の駅(世田谷代田)から徒歩1分のところだった。人気のある下北沢は家賃が高く、手が出なかった・・・。

因みに、風呂無しのアパートで、家賃は「37,000円」だった。

ところで、僕には、ふたつ年下の弟がいるが、彼がその翌年(僕が高校中退で一年ダブっているので)、大学入学で上京した。

成績優秀な彼はストレートで慶応大学法学部に合格し、大田区の北千束というあたりに住むことになった。

これまた、父親の主張で「賄い付き」だった。

僕とは違う理由で、彼も「その下宿」が嫌で嫌で仕方なかった。

そこで僕たちは、アルバイトでおカネを貯めて、ふたりで「下北沢」に住もうということになった。

慶応は、1~2年生は「日吉(東横線)」だが、3年生から「三田(港区)」になり、小田急線と井の頭線の交差する下北沢は、彼にとっても僕にとっても、便利な場所だった。

今でこそオシャレなお店がたくさん立ち並ぶ街になったが、僕たちが住み始めた頃の下北沢は、アングラ系(サブカルチャー系)の劇団やミュージシャンが多く住んでいることで有名で、今のような雰囲気の街ではなかった。

僕は下北沢がとても気に入り、約7年間、住んでいた。

その間に、当時、「H2O」というデュオを組んでいた赤塩正樹氏と知り合ったり、僕がニューヨークフリークになるきっかけとなったアメリカ人の友人と知り合ったりと、僕の人生に大きな影響を及ぼした。

赤塩氏には、僕らの結婚式の「立会人」になってもらったり、アメリカ人の友人の実家(ニューヨーク郊外)に泊まりに行ったり、また、彼と彼の友人に僕の実家に泊まりに来てもらったりした。

自分の人生(卒業後の進路)に対する不安もあったが、こうして、改めて書いてみると、とても楽しい時間を過ごしていたと思う。

次回のエントリーでは、そんな学生生活でのエピソードを書きたいと思う。