「親父の背中」と「放蕩息子」。

よく晴れた勤労感謝の日。僕たち家族は、久しぶりに「砧公園」に出掛けた。

おそらくこれが今年最後の「公園日和」になると判断したのか、初夏の頃と同じぐらい、たくさんの人が集っていた。

因みに、我が子は「新宿御苑」を主張したが、子供の「脳の発達」には、アップダウンのあるところを歩かせるのが効果的ということで、何とか彼を説得し、アスレチック施設や犬の散歩道があり、起伏に富む「砧公園」に連れ出した。

「侍戦隊シンケンジャー」に夢中の彼は、公園に着くと、まず最初に「長い棒(枯れ枝)」を探す。「剣」に見立てて、遊ぶためだ。

お目当ての「長い棒」を見つけてご機嫌の彼の手を取り、公園を一周した後は、ビニールシートを広げてランチを食べた。

食事が終わると、シンケンジャーになりきり、戦いごっこを挑んでくる。

彼の期待に応えようと頑張って遊んでいたのはよかったのだが、公園を出て、駐車場に向かおうとしたところ、腰の違和感に気づいた。

何とも情けない話で、どうやら肉離れのような状態になったらしい。

渋谷で用事を済ませて帰宅した後、こういう時にお世話になっているスポーツマッサージ(針灸士)の先生のところに行き、応急処置をしていただいた。

「子育ては、若いうちの方がいい」ということをまたしても実感。

さて、今日は「高校生活」の続きを書こうと思う。

「学校権力?」に反発し、無料でコンサートを開催した後、僕は3年生になり、大学受験の準備に入った。

中学の頃から理数系の科目が苦手だった僕は、高校入学当初より国公立は諦めており、はなっから「私立文系」に決めていたが、好きだった英語もすでに授業についていけてなく、今さら勉強をしても、OSをインストールせずにアプリケーションをインストールするようなもので、成績は一向に上がらなかった。

「赤点」のオンパレードで、受験勉強どころか、卒業さえ覚束ないよう状況で、最後には、親権者と一緒に呼び出されて、こっぴどくお叱りを受けた。

学校としては、さすがに卒業させないわけにはいかないので、僕ら「落ちこぼれ」にレベルを合わせた「追試」を実施し、何とか「既成事実」として、単位を認定できる「点数」を取らせるということをしてくれた。

殆どの家庭では、そういう時は母親が付き添って学校に来ていたが、我が家は、父が子供の教育に熱心で、その時も、わざわざ仕事を休んで父が来てくれた。

たぶん、半ば諦めていたのだろう。「追試で出された問題が分からなかった時は、元素記号でも公式でも何でもいいから、自分が分かることを答案用紙に書いて来い」と、父は僕を叱るわけでもなく、僕の実力を踏まえたアドバイス?をしてくれた。

今にして思うと、何とも親不孝な子供だった。

さて、学校側の温情により、何とか卒業の目処が立った僕は、いよいよ「受験」のため、願書を取り寄せ、手続きを始めた。

受験に際しては、郡山から東京に行くわけで「宿」が必要である。

すべてホテルに泊まるのはお金がかかるので、詳細は省くが、中学浪人時代の親友が東京の高校に進学しており、彼のお姉さんと一緒に三田(港区)のマンションに住んでいたので、そこに泊めてもらったりした。

ホテルといえば、これまた「親不孝」な話だが、憶えていることがある。

僕は高校の頃から、夏休み等まとまった休みには、三田の友人を頼って東京に遊びにきており、都内の地理には詳しかった。

田舎の少年のくせに、田中康夫の「なんとなくクリスタル」全盛の六本木のディスコに出入りしていたりした。

そんな親不孝な少年は、受験で泊まるホテルの予約に際し、立地とホテルのグレードを重視した。

しかし、父親の予算を大きくオーバーしていたようで、結局は父が自分でホテルに電話をし、「とても良いお値段ですね。もっとエコノミーな部屋はありませんか?」と訊いていた。

こうして書いていて、改めて思うが、何とも情けない、親不孝この上ない息子だった。

因みに、僕は三人兄弟の長男だが、出来の悪い子供ほど可愛いということなのか、僕のことは、とても愛してくれていた。

というか、僕以外は、手がかからなかったのだろう。

若くして他界した父には、孫の顔を見せてあげられず、とても残念だが、そういう父の血を受け継いだ僕らの子供を立派に育てることが、僕の責任であり、父に対する恩返しだと思っている。