「認可」保育園。

未就学のお子さんがいる方には改めて説明するまでもないが、保育園には「認可保育園」「認証保育園(東京都)」「無認可保育園」がある。

東京都の場合、「認可保育園」というのは、区や市に「認可」された施設で、中には「民間」の施設もあるが、殆どは「区や市」により運営されている。

つまり、認可保育園で働く「保育士」の方は「地方公務員」ということになる。

それに対して、東京都が「認証(助成)」している「認証保育園」や「無認可」の保育園で働いている保育士の方は「民間企業」の従業員である。

同じ仕事をしていても、「待遇」が大きく異なるらしい。

子供がいらっしゃる方はよくご存知のとおり、育児というのは重労働である。

ましてや、何人もの園児の面倒を看る仕事は、体力的にも、精神面でも、とても大変な仕事である。

「認可保育園」と「認証保育園」の違いは何か?ということだが、簡単に言うと(例外は除き)、「庭」があるかないかの違いである。

「地価の高い」東京で「庭付きの保育園」を増やすのは、どう考えても無理がある。

それが理由で「認可保育園」が増えず、かといって「無認可」の保育園は、園児ひとり当たりの床面積や保育士の数において劣るのは否めず、その「間」に位置する保育園を作ることで「待機児童」を解消しようということで創られた制度が「認証保育園」である。

しかし、「庭」がないと、3~4歳以上になると、どうしても「運動不足」になりがちである。

僕たちの子供は「認証保育園」に通っているが、上記のような理由により、来年からは「認可保育園」に転園しなければならない。

ところで、保育園に子供を預ける親というのは、自分が働いている間、子供の面倒を看て欲しいからであり、「平日」は「仕事」なのが普通である。

しかし、「認可保育園」の場合、「運動会」や「遠足」等の行事も「平日」に行われるのが一般的だと聞いている。

どうやら、「公務員」=「土日祝祭日」は「休み」という理由によるらしい。

でも、それは「制度(保育園の趣旨)」に「矛盾」していないだろうか?

しかし、保育園によっては、そういう事情を理解してくれて、必ずしもそういう行事への保護者の参加が必須ではないらしいが、保育園によっては、参加するのが当然というところもあると聞く。

さらに言うと、子供を保育園に預けるために、勤務先から「フルタイム」という書類を作成してもらってはいるものの、実際にはパートタイムであり、平日の行事にも参加できるという方も存在し(そういう方が少なくないらしい)、そうなると、保育園としても、無理して「土日祝祭日」に「行事」を行う必要はない、という認識になるのだろう。

小学校の運動会は「日曜日や祝日」に開催されていると記憶しているが、なぜ、保育園は平日に開催するのか?

ちなみに、僕たちの子供が通っている「認証保育園」では、すべての「行事」は「土曜日」である。

また、保育園か幼稚園か分からないほど、子供の「教育」をしてくれる。

先生達は、真剣に「他人の子供」を叱っている。

父が生前、ミュージシャンになる!などと身の程知らずのことを言っていた僕に対し、「俺が幼稚園を創ってやるから、お前は園長先生をしろ!!」と言っていたが、僕の両親も妻の両親も他界し、近所に身寄りがなく、自分達だけで子育てをしてみて、都会における「子育て環境」改善の必要性をヒシヒシと感じている。

数日後に迫った「都議会選挙」では「高齢者医療」の問題を掲げる候補者は大勢いるが、「子育て」環境の抜本的改善に真剣に取り組もうとする候補者は少ない。

もちろん、そう簡単ではないし、普通に保育園を運営したのでは間違ってもビジネスとしては成立しないが、実は将来、「保育園の経営」ができないものかと考えている。

※認可保育園に関することで、僕の認識に間違いがあったので、そのことを~「認可」保育園。その2~というエントリーとして書きました。事実誤認をお詫びします。今後は事実確認に務めますので、何卒、ご了承下さい。

株主説明会

昨夜は、僕が個人株主のひとりとして応援している会社の株主説明会に参加した。

僕がその会社に出資したのは、創業者の方の理念に共感し、純粋に応援したいと思ったからである。

もちろん、何らかのリターンがあれば、それに越したことはないが、それが一義的な目的ではない。

その会社の株主説明会で、僕は終始、厳しい発言をした。

ある意味、自分自身に言っているようなものだった。

話をしながら、僕に投資してくれた株主の方々の気持ちを想像した。

期待に応えるべく、頑張ってやっていこう。

人生に「退屈した時」。

社会からどのようなイメージで見られていようとも、仕事に「意味」を与えるのは、それに携わる「当人」である。

しかし、現代に生きる人間はしばしば、「人生」に確かな「意味」を見出すことが難しくなる時がある。

それは「退屈した時」である。

上記は、一言一句は別として、僕が今までに読んだ本の中で最も影響を受けたと言ってもよい「希望の見つけ方」という本の一節である。

ところで、良くも悪くも、現代社会は「忙しい社会」であり、また、忙しさは「現実から目を背ける効果?」もあり、多忙にしていることで、本当の問題を棚上げしておくことができる。

でも、本当にやらなければならないことは案外少なく、捨てるものを捨てて時間を持て余すと、むしろ、不安になったりする。

でも、時には立ち止まって考えることも必要である。

何に意味を見出すかは、その人の「自由」であり、それは「意志」の問題である。

その人の人生の意味は、その人でなければ定義できない。

他人の尺度で考えているうちは、本当の意味での「心の平穏」は訪れない。

遅まきながら、最近になって、ようやく、少しだけ、そう思えるようになった。

「坂道」を登る。

先日、久しぶりに「大岡山」を訪ねた。

今から約10年前、僕たち夫婦が最も貧乏だった頃、住んでいた街である。高級住宅街の片隅にひっそりと建つ、アパートに住んでいた。

久しぶりに訪れた大岡山は、駅前が再開発されて見違えるようになっていた一方、北口の商店街は当時の趣のままで、10年前と殆ど変わっていなかった。

因みに、当時、「4個100円」の納豆を売っている小さなスーパーがあり、その納豆をいつも買っていた。さすがに、その納豆は売っていなかったが、たぶん、あの頃に通っていたと思われるお店は残っていた。

ところで、僕たち夫婦が住んでいたアパートから駅に向かうには、どのルートを通っても「上り坂」があった。

その道を通りながら、この苦労は、はたして報われるのだろうか?と思い、何度も泣きそうになったことがある。

久しぶりに、その「坂」を登ってみると、「なんだ、この程度か?」と感じたが、当時の僕たちには、きっと、その勾配以上に急に感じられたのだろう。

過ぎてみれば大したことのないことでも、渦中にいる当人たちにとっては、大変なことというのが多々ある。

僕は、何か自分の中のものを「リセット」したくなった時、あの頃とは「種類」も「勾配」も異なるが、自分を励ましながら、また、坂道を登っていくために、大岡山を訪ねることにしている。

人生は、まだまだこれから。

当事者、支援者、あるいは、傍観者。

当事者、支援者、傍観者。

上記以外にも、色々な立場があると思う。

因みに、ドラッガーは、自分のことを「経営という営み」の「傍観者」だと言っていた。

並外れた「分析力」と「洞察力」により、「経営」という営みを「客観視」し、そこから得られた「知見と法則」を経営者に提供していたということだと思う。

大切なことは、自分のスタンスを決めること。

「石川遼」選手が活躍するためには、優秀なコーチやキャディが必要である。そして、ファンもスポンサーも。

ある人との議論を通じて、当たり前のことを再認識する機会をいただいた。

記念日。

昨日(7/1)は、ヤフーバリューインサイトの創立記念日であり、インタースコープを永久保存した日でもある。

色々な意味で、僕にとって、とても大切な日であ���。