「希望学」。

とあることで、創業当時に作った資料などを見ていたら、暫く忘れていたことを思い出した。

それは、「希望」を持つことの効用である。

東京大学社会科学研究所では、「希望学プロジェクト」なる研究を進めているが、そのプロジェクトで行った調査結果に、おもしろいものがある。

詳細は、ウェブサイトをご参照いただければと思うが、簡単に言うと、小学6年生の頃、「将来、なりたい職業(希望)」があった人は、それがなかった人よりも、仕事で「やりがい(充実感)」を感じたことのある割合が高いということだ。

因みに、小学6年生当時、「将来なりたい職業」があった人の割合は「71%」、中学3年生当時で「63%」。つまり、10代前半には、その過半数が「将来、なりたい職業」があったことになる。

しかし、希望していた職業に就いた割合は、中学3年生時点の希望については「15%」、小学6年生時点の希望については「8%」に過ぎないそう。

ここまでの結果だけみると、「夢」や「希望」を持つことは「徒労」に過ぎず、無意味なように思えるかもしれないが、同じ調査で、「これまでに、やりがいのある仕事に就いた経験の有無」を尋ねると、小学6年生の時に「希望する職業があった人」の場合、その「86%」が「今までに『やりがい』を経験したことがある」と答えており、「希望する職業が無かった人」の場合、その割合は77%に留まるそうである。

ところで、数日前のエントリーで、久しぶりに元上司と会った話を書いたが、その時に、彼に言われて「なるほど」と思ったことがある。

それは、「Half Full(半分残っている)」V.S.「Half Empty(半分しかない)」の話。

そのことは知っていたが、「なるほど」と思わされたのは、僕は「Half Empty(半分しかない)」の人だということ。

自分では「Half Full(半分残っている)」だと思っていたが、自己認識というのは、難しいということを痛感した。

たしかに、言われてみれば「そうだな���と思ったが、自分の深層心理の中に「Half Full(半分残っている)」でありたいという思いがあり、それが無意識のうちに、自分は「Half Full(半分残っている)」的に物事を考える人だという「思い込み」を生んでいた。

僕が「あと1ヤード足りなくて、インタースコープを上場させることができなかった」と言ったことに対して彼が言ったのは、「普通は、そこまでだって行かないんだよ。そこまで行っても、まだ「足りない」って思うんだろ。だから、Half Empty(半分しかない)なんだよ」。

要するに、僕の中に「他人と比較する心」があるから、どこまで行っても「満足しない」ということである。

でも、インタースコープを立ち上げたお陰で、滅多に経験できないことを経験することができ、それまでの自分には見ることができなかった世界を見ることができ、たくさんのことを学ぶことができた。

そして、その過程で「やりがい」や「充実感」を覚えたし、今の自分は幸せだと思っている。

僕が尊敬する田坂広志さんが、ご自身の著書で、こう書いている。

「人生において、成功は約束されていない。しかし、成長は約束されている」。

「自分らしい生き方」こそ、大切である。

「ご近所」の友達。

生憎の空模様だった日曜日、子供の「保育園つながりの友達」の家へ遊びに行った。

集まったのは、我々を入れて計4家族。さながら小さな保育園状態で、とても賑やかな日曜日になった。

僕は東京に住み始めて、かれこれ30年近くなるが、子供が生まれ、そして、保育園に入るまで、まさか、こうして「近所の友達」ができるとは想像もしていなかった。

「近所の友達」とは、子供たち同士のことだけでなく、我々大人たちのことも含めて。

昔の人は「子は鎹(かすがい)」と言ったらしいが、まさしく、子供たちのお陰で、親同士が知り合いになり、こうして、お互いの自宅を行き来する「友人」関係に発展していっており、子供という存在は、本当に凄い可能性を秘めている。

最寄り駅が同じで、家が近所なので、ひょっとしたらすれ違っていたのかもしれないが、子供が生まれなかったら、間違いなく、こうして知り合うことはなかった人達である。

ところで、子供の話とは直接は関係ないことのように思えるかもしれないが、最近の政治を見ていると、彼らの人生を考えていないのではないか?と思えることが多い。

昨年9月のリーマン・ショック以降、世界的な金融・経済危機の広がりにより、各国は「財政出動」による危機対策に動き始めたが、それは、一時的には仕方ないとしても、問題の根本的な解決にはならない。

巨額の財政赤字だけならず、世界一のスピードで進む「少子高齢化」問題を抱える日本において、将来への「ツケ」は、大きなリスクを孕んでいると言わざるを得ない。

僕らが「飲み食い」した「ツケ」を払うのは、僕らの子供たちである。

「受益者負担」が原則のはずが、とんでもない話である。

不勉強な僕が、浅はかな考えでこういうことを書くのは、自分の無知を曝け出すことに等しいかもしれないが、日本社会における「税収」は、本当に不足しているのだろうか?

殆どクルマの通らない高速道路の建設費や維持費、何をしているのか分からない特殊法人の維持コスト等、不必要な支出を見直すことにより、かなりの「財源」ができるのではないか?と思う。

また、日本が今、世界第2位の経済大国であるのは、先人の方々の努力の賜物であるのは議論の余地がないが、「高齢者医療」等も、見直しは避けられないように思う。

例えば、首の治療のために3週間前から通い始めた「整形外科」の患者の殆どは、いわゆる「高齢者」の方々である。

「関節の痛み」があったり、歩くのに不自由をしているのかもしれないが、身なりを拝見している限りでは、生活に余裕のある方々のように見受けられる。

共働きの両親のもとで育った僕は、実質的には「祖父母」に育てられたこともあり、お年寄りの方々が住みやすい国であって欲しいと思うが、高齢者と言っても、その経済状況は、人それぞれであり、収入のレベルにより、医療費の負担割合が異なるのは、仕方ないように思う

また、数週間前のエントリーで、保育園を運営するためにかかる「おカネ」のことを書いたが、それは「コスト」ではなく、将来への「投資」であると、僕は思う。

問題は、何におカネが使われていて、何は有効で、何は無駄なのか?どうすれば、低コスト体質の国に「再構築」できるのか?ということである。

今朝の日経新聞一面の「責任ある改革」競えという見出しの論説のとおり、「選挙を前に与野党は目先の危機対応だけでなく、日本の置かれた現状を正直に国民に語り、責任ある改革の見取り図づくりを競うべきだ」と思う。

こうして、僕がブログを書いている瞬間も、僕たちの子供と彼の友達は、保育園で友達と遊び、けんかをし、彼らの人生を歩んでいる。

彼らの将来に責任を持てる生き方をしていきたいと思う。

追伸:あるものを探すために妻のPCのまわりを見たところ、僕らの子供と彼の仲良しの友達、そして、僕の妻と保育園の先生が映っている写真があった。そういう日常こそ、大切だと思うようになった。

「捨てる勇気」。

一昨日の夜、何年かぶりかで、僕が20代の頃に勤務していたコンサルティングファーム時代の上司と会った。

彼は現在、フリーランスで、企業のマーケティングコンサルティングをしたり、大学や大学院で教鞭と執っている。

僕が自分自身の進路やビジネス上の意志決定を求められた時、相談にいく元上司や先輩が何人かいるが、彼は、その中で、最も根源的というか、本質的というか、生きるうえでの「指針」となる、極めて的確なアドバイスをしてくれる。

具体的にどうすればいいとか、こうした方がいいという話もしてくれるが、それ以上に、核心をついたアドバイスをしてくれる。

若い頃に父親を亡くした僕にとって、また、今現在は「上司」という存在がいない僕にとって、彼は掛け替えのない存在である。

その彼に言われたことは、「優先順位」をつけることができれば、「殆どの問題は解決できる(答えは出る)」ということ。

おっしゃるとおりである。

「最も大切なもの」さえ決まれば、あとの要素は「ウエイト」の問題でしかない。

それ(最も大切なもの)を決められないから、つまり、あれこれ「欲張る」から、迷うし、悩むのである。

人間は本来、シンプルな生き物のはずである。

それが、誘惑の多い現代社会では、僕のような「煩悩の塊」の人間は「欲張り」になる。

だから、優先順位が低いものを「捨てられない」のである。

「古いものを捨てなければ、新しいものは入らない」。

僕の好きな「あいだみつを」の言葉である。

毎月一回、トイレの日めくりで見てるだろうっつーの!!

まだまだ精進が足りない。

遅ればせながら、追悼「忌野清志郎」。

僕は、取り立てて「忌野清志郎」の大ファンだったというわけではないが、中学・高校、そして、大学1年までバンドをやっていたこともあり、彼は気になる存在だった。

そして、その存在感は独特だった。

僕のまわりの人たちの何人かも、彼の死を悼むエントリーを書いており、改めて彼の影響力を実感した。

では、彼の「独特の存在感」とは、何だったのだろうか?

言葉で表現することは難しいが、ひと言で言うなら、世の中に「媚びない」生き方にあったように思う。

そして、パラドックスであるが、そんな彼の生き方故、多くの人々が彼に憧れ、メディアも彼を追いかけたのだろう。

昨日の日経夕刊で、音楽評論家の渋谷陽一氏が、「忌野清志郎」という人間を、こんなふうに語っていた。

「僕は彼と雑誌、テレビ、ラジオなど、いろいろなメディアで仕事をしたが、彼から内容についての注文を受けたことが殆どない。

どんな条件でも、それは仕事なのだからという姿勢で彼は取り組み、ベストを尽くした。

そこで、アーティスト風を吹かせることはなかった。

誰より戦う姿勢を貫いた清志郎は、誰より柔軟な姿勢を持つロック・エンターテイナーだった。

そして、そんなアーティストは、彼以外は殆ど存在しなかった」。

「忌野清志郎」という人間を、とてもよく捉えていると思った。

考えてみると、僕の好きな人は皆、そのタイプは違えど、「忌野清志郎」的な「孤高」の人だ。

他人から嫌われるのを恐れて誰からも受け入れられる「消耗品」になるか?
それとも、他人から嫌われるのを受け入れて「孤高の人」になるか?

人の心に強烈な何かを残す人というのは、そういうことなのだろう。

いくつの時の写真かは知らないが、「忌野清志郎」はカッコいいオジサンだった。

「清志郎」に、感謝。

追伸:彼は、ご家族をも、とても愛したそうだ。「ロック(反逆精神)」と「家族愛」は矛盾しない。むしろ、両立する。

ポスト「小沢」の日本社会。

結局は、小沢さんが民主党代表を降りることになった。

この出来事に関する専門的な論評や解説は、文字通り、専門的な方々がされており、僕などがわざわざブログで書く必要もないことだが、敢えて、僕の個人的な感想を記しておきたいと思う。

今回の小沢さんの代表辞任は、単なる野党第一党の代表辞任という出来事に留まらず、日本の政治、もしかしたら、日本社会のあり方を変える、節目になるかもしれないと思っている。

正直に言うと、節目になって「欲しい」と願っている。

小沢さんが稀代の政治家であり、実力者であることは誰の目にも疑いのないことであり、その小沢さん故に、このタイミングで東京地検特捜部の捜査が入ったのだろう。

自民党にとっては、今の支持率において、他の政治家であればともかく、小沢さんが民主党の代表のまま総選挙を戦うことは、是が非でも避けたかったのではないかと思う。

「政府高官(漆間巌 官房副長官)」の「自民党側に捜査は及ばない」という趣旨の発言があり、また、その後は、それまでの東京地検の勢いがトーンダウンしたようにも思え(僕の勘違いかもしれないが)、何とも後味の悪い(スッキリしない)まま昨日の辞任会見というのは、僕は、取り立てて小沢さんを支持するわけでも、否定するわけもないが、これまた「後味の悪い」幕切れである。

80年代の日本は「経済一流、政治三流」などと揶揄?されていたが、バブル崩壊後の「失われた10年(or 15年)」を経て、その間に「BRICs」を代表とする新興国の隆盛に、日本バッシングならぬ「日本Passing」などと言われるようになっている。

「少子高齢化」「世代間格差」「人口減少」「中央と地方の格差」「GDPの2倍とも言われる政府債務」等、社会問題の総合商社的な様相を呈している今日の日本社会において、泥仕合を演じている暇はないだろう。

「根回しの日本」改め、「潔く且つ強かな日本」になって欲しいと思う。

「老人大国?」の日本。

超大型の16連休を取られた方も、今日から仕事に復帰だろう。皆さんは、どんなGWを過ごされただろうか?

さて、昨日は、子供の保育園繋がりの友達とそのご両親が遊びに来て、賑やかな一日を過ごした。

実は、その友達と僕たちの子供は、今年の3月までは同じ保育園だったが、この4月から別々の保育園になってしまっている。

我が子にとって、大の親友である彼が遊びに来ることは、GWが始まる前から楽しみだったこともあり、昨日は大はしゃぎで、夕方、その友達が帰る時になると、「一緒に行く!!」と言って、なだめるのに一苦労だった。

話は変わるが、僕が、超マイナー株主として応援している「オルタナ」という会社がある。

社名と同じ名前の「ビジネス誌」を発行している出版社である。

「オルタナ」の由来は、オルタナティブ(alternative)であり、既存の価値観にとって代わる「新しい価値観」に基づく「政治・社会・ビジネスの在り方」を追求するというのが、オルタナの理念となっている。

そのオルタナ編集長(兼社長)の森さんとは、個人的にも親しくさせていただいているが、彼のメルマガに、とても考えさせられることが書いてあった。

以下、ところどころ、抜粋して紹介したい。

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5月4日に総務省が発表した
「子どもの数、25年連続減 1747万人、人口比最低」――です。

総人口に占める子どもの割合も32年続けて低下し、
13.7%と過去最低を更新しました。

これまで僕はよくこのメルマガで「2050年」の話題を書いてきましたが、
その2050年、日本の人口はどうなっているのでしょうか。

国立社会保障・人口問題研究所の「将来推計人口」によると、
日本の人口は2050年、9515万人と見込まれています。

(中略)

さらに問題なのは人口の世代構成です。
2009年は0~14歳が13%、15~64歳が64%、65歳以上が23%なのに対し、
2050年は0~14歳が9%、15~64歳が52%、65歳以上が40%と見込まれます。
そのころの現役世代には過大な税や、社会保障の負担がのしかかるのです。

(中略)

人口減少を食い止めるためには、国の支出を出産、育児、教育、医療に
重点配分して、出生率を政策的に向上させしかありません。これまで
「日本の社会保障の支出先は『7割』が高齢者」であり、
これは国際的に見ても非常に高い配分になっています。

(中略)

フランスの思想家ジャック・アタリ氏も、今年1月、朝日新聞グローブの
取材に対して、下記のような衝撃的な発言をしています。

日本の最大の弱みは人口だ。移民を拒んだことによって引き起こされる
恐ろしいほどの国内の高齢化と人口減少は、大きな問題となるだろう

「人口が減ってもなんとかなるのではないか」という
「根拠なき楽観論」は、次世代に対して、あまりにも無責任です。

現在の人口をキープした上で、より持続的な社会のあり方を考えていくべきです。
なかでも、東京への一極集中の是正、第一次産業(農林水産業)の復活、
環境への取り組みを通じた企業競争力の強化、自然エネルギーの活用などが
大きな課題です。

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皆さんは、どう思われただろうか?

ところで、先日の日経新聞の記事で知ったことだが、「プレストン効果」なる言葉があるらしい。

米国の人口学者の「サムエル・プレストン氏」は1980年代に、「少子高齢化社会では、政界や産業界の関心が『多数派の高齢者』に向かいやすい。割を食うのは、少数派の若者だ」という趣旨の提言をされたらしい。

まさしく、今の日本は、そのとおりになっている。

このまま少子高齢化が続けば、2050年には「65歳以上が40%」を占める社会になるという。

その時、僕が生きているとすると、87歳。

若者の迷惑にはなりたくない。

医療費の負担も少なくて済む、「元気な高齢者になりたい」と思う。

「ビジョン(イメージ)」が大切な理由。

昨日のエントリーで書いたとおり、今日は、子供の脳の発達に関することが専門のお医者さんから聞いた話をもとに、何故、ビジョン(イメージ)を持つことが大切かということを書いてみる。

子供にとって、○を描くよりも、△を描く方が、格段に難しいらしい。

○は、そのまま一筆でグルリとすれば描けるが、△の場合は、ある点を起点にして直線を描くわけだが、その間、スピードが上がって下がることになり、○を描くよりも脳の仕事が格段に多いことが、△を描くことを難しくしているという。

その延長線上での話として、では、「文字」はどうやって書くのか?

僕が話を伺ったお医者さん曰く、文字を見ながらでは書けないらしく、頭の中に「イメージ」があって初めて、文字を書くことができるという。

具体的に説明すると、脳のデータベースの中に、例えば「平」という文字があり、それを、実際に文字を書く機能を司るところに「転送」することにより、文字を書くことができるらしい。

つまり、頭の中に「イメージ(ビジョン)」がない文字は書けない、ということである。

因みに僕は、人の似顔絵を書く(相手の顔を見ながら写生をする)ことは得意だったが、マンガを描くことは苦手だった。要するに、頭の中に「イメージ」がなかったのである。

そう言われてみると、スポーツで「イメージトレーニング」が大切なことも納得がいくし、仕事においても、将来の「ビジョン(イメージ)」が明確でなければ、それは実現されないということだ。

自分がどういう人生を送りたいか?また、どんな仕事を成し遂げたいか?その「ビジョン」がなければ、そのために必要な「具体的行動」に移せない(脳がイメージを転送できない)わけであり、そりゃ、何事も具現化するわけがない。

「今ある材料で何ができるか?(Given Means)」を突き詰めるか、「自分が望む理想=到達したい場所(Given Goals)」を明確にすることが大切だということが、医学的に証明されているわけである。

さて、僕にとっての「Given Means(手持ちの材料)」と「Given Goals(僕が到達したい場所)」は何なのか?

それを明確にすることで、すべての答えは見えてくるということである。