「未練がましさ」を「捨てる勇気」。

先週のことだが、ある会社の方が「営業」に来られた。

メールと電話で提案された内容はとても魅力的な話しだったが、今のドリームビジョンでは、その効果を充分に活かしきれないということと金額的に厳しいことから、僕の中では「難しい」思っていた。

そんなこともあり、アポイントを設定した電話で「ご来社頂いてもご意向に沿えないこともありますので、その点は予めご了承下さい」と伝えておいた。

実際にお会いしてみると「なるほど・・・」と思うことが多々あった。それでも現在の当社では先方の提案を受け入れることは難しいと思われ、冷静に考えてみようと思い「検討します」と答えた。

すると、「検討?」という答えが返ってきた。

僕が「検討」の意味を説明すると、「僕は『検討』というのは嫌いなんです。検討されるのであれば、○○万円でお願いします」となり、6月中に契約をすれば定価の半額という話しはご破算になった。

結論は当然のことながら「破談」であるが、その途中、「だったら電話で言って頂ければよかったのに・・・」という言葉が返ってきた。僕が電話で伝えていたにも関らずである。

さて、この商談で僕が学んだことは何か?

30分の無駄な商談は、「自分が招いた」ということである。

自分の中では「難しいだろうな」と思っていたにも関らず、「でも、ひょっとしてより良い条件を出してくれるかもしれないし・・・」などという、不遜な考えがあったということだ。

人間という生き物は自分に都合のよい生き物であり、来社して頂いたその方にとってはそんな話しは耳に入ってなく、「アポに応じた=契約の意向がある」という認識のもとに来社されたわけである。

僕は今回の一件で、自分の「甘さ」や「スケベ心」のもたらす「災い」や「ロス」を再認識することができ、そういう意味で得るものがあったが、その方にとっては、えらい「迷惑」な話しだったに違いない。

「捨てるものを潔く捨てる」ことができるためには、自分の中で「ぶれない軸」が必要である。

ただでさえ「短い人生」を充実したものにするために、「未練がましさ」を「捨てる勇気」を持ちたいと思う。

自分に起こった出来事の原因は、すべて「自分の中」にある。