「運命」は変えられるか?

今日の夕方、ちょっとした用があり、渋谷警察署を訪ねた。

その帰り道、すぐ横の立体交差点の歩道橋を歩いている女子高生を見て、自分が高校生だった頃を思い出した。

東京に親戚や友達がいたので夏休みや春休みには遊びにきたりしていたが、その頃、渋谷の立体交差点のスロープを見ながら、都会のダイナミズムを感じていた。

あれから25年が過ぎた今、女子高生が談笑しながら歩いている姿を見て、自分の子供が高校生になった時のことを考えた。

ところで、渋谷警察署に向かう前、中国でビジネスしている方が訪ねて来られた。

彼は、創業メンバーの安田の繋がりで来社されたのだが、お会いしてみると、実は4~5年前、彼が学生だった頃、インターンシップに関するパネルディスカッションで、僕がインターン受入企業の経営者の立場で、彼はインターンをしている学生の立場で会っていたことが分かった。

何と言う「縁」だろう。

その彼と「中国」でのビジネスチャンスに関して話をしたのだが、その彼が言うには、中国では「雲南省」に生まれた人が「上海」に移住(転入)することは「法律」で「制限」されているという。

いったい何という国なのだろう!!!

しかし、雲南省出身の人でも、上海大学の「外部枠(上海以外の人の枠)」に合格すれば、正々堂々と「上海人」なれるらしい。そのため、日本でいう「越境入学」枠の偏差値は、非常に高いという。

一旦、上海人になれれば、その後の人生は「天と地」ほど違ってくる。

そう考えると、日本に生まれたことは、それだけで「幸せ」なことである。

僕の子供が「高校生」になった時、この日本は、どういう国になっているのだろう?

それを決めるのは、僕らの「意志と行動」だ。

人間を見て貸す。

今朝は妻が大学院の用事があり、僕が子供を保育園に送っていった。1才5ヶ月にもなると、いつも一緒に登園する母親が一緒に行かないことを知ると、悲しそうな表情と声を出していた。知能も情緒も日に日に発達していっているようだ。

ところで、彼を見送った後、恵比寿の駅ビルに入っている神戸屋キッチンに立ち寄り、日経新聞を読みながら、朝食を食べた。

いくつか気になった記事があったが、その中でも「重いバブルの教訓」といコーナー(副題は、サラリーマン2007)の内容が心に留まった。

還暦を迎えた元拓銀マン(北海道拓殖銀行)の岡実さんという方のヒストリーが紹介されていた。

彼が中野支店の副支店長をされていた1989年から1991年当時は、本店から「貸付残高」の目標が数字で示され、役員が支店に出向いて発破をかけるという状況だったという。当時の銀行では「当たり前」のことだったのだろう。わずかな土地を担保に「商店主」に「億単位」の融資をしたこともあったという。

拓銀の経営破綻後、彼は、道東の小さな町に本店がある信用金庫の理事長に請われて再就職をした。

札幌地区の営業強化を任された際、肝に銘じたのは、教訓を忘れずに「人間を見て貸す」という原点に立ち戻ることだったという。

当時は、いわゆる「貸し渋り」の時代だったようで、「居酒屋の経営」をやめて「収入がない」元店主が、恐る恐る「アパート建設資金の融資」を求めてきたことがあったらしい。

その方のご自宅に行くと、室内はきれいに片付き、暮らしぶりも質素で、夫妻の人柄に好感を持ったそうだ。

家計の収支や家賃収入からの「将来の現金収支」を計算したが、夫妻の「誠実な人柄」も「返済が滞ることはない」と判断した理由のひとつだったという。

そして、その信用金庫の札幌での「業績は伸びた」。

そもそも「銀行家」という「言葉」が昔はあったらしい。

起業家や企業経営者の「理念や志」に共感し、人物を評価して、その事業の社会的な意義を実現するために「必要な資金」を提供したのが、そもそもの「銀行の社会的役割」だったと思う。

ある意味で、ソーシャル・アントレプレナーシップが出発点だったはずである。

僕がドリームビジョンで行っている「人材紹介」も、いたずらに規模を追求するのではなく、志のある人材を、志のある経営者のもとに紹介したいと思っている。

近い将来、手掛けようと思っている「投資育成」事業においても、そういう姿勢を大切にしたいと思う。

追伸:そういう姿勢を大切にすることが「評価・支持」される「社風と仕組み」が「必要」である。

久しぶりの「池尻大橋」と最後の「スピーチ」。

昨日の夕方、インタースコープにある書類を届ける必要があり、久しぶりに「池尻大橋」の駅に降り立った。

経営から身を退いた後も、インタースコープに週に1度は行っていたが、池尻大橋の「駅」に行くことはなかった。

地上に出て、池尻大橋の商店街をインタースコープに向かいながら、この7年間のことを思い出した。

目黒川沿いの「桜」は、あと1ヶ月もすると、本当に見事な花を見せてくれる。中目黒に住んでいた頃は、爽やかな季節には、毎朝約20分の距離を、目黒川沿いを歩いて通勤した。

今朝は、顧問として最後の仕事をしに行った。

その後、全社でのMTGがあり、みんなの前で、僕にとっては「最後のスピーチ」をした。

たった4人で始めた会社が、立派になったなあと思い、何とも言えない想いにかられた。

資金繰りがショートし、ナケナシのお金を会社に貸しつけていた頃が、今となっては懐かしく思える。あの頃は、本当に大変だった。

僕が話したことは、ふたつ。

「お金」があることと、経営が「安定」していることは、とても幸せだということ。

そして、そういう会社になっても、自分たちで何かを「創り出す」こと、イノベーションを忘れないこと、それが大切であるということ。

そのふたつである。

何かを成し遂げようとすると、人生はあまりにも短い。

毎日を大切にして生きていって欲しい。

子供ができたせいか、その想いがより強くなった。

追伸:何人かの方がメールをくれた。とても幸せなことだと思った。

人生を楽しむ。

先週の土曜日は、僕らが住んでいるマンションの理事長として最後の管理組合総会を務めた後、久しぶりに妻とふたりでランチに出掛けた。

土曜日は子供を保育園に預けているが、妻はボランティアがあり、普段はふたりでゆっくりと過ごす時間は取れないのだが、ここ3週間はボランティがお休みなので、たまにはふたりで食事に行こうということになった。

自宅から徒歩10分ほどのところにある一軒家を改造したようなアットホームなレストランで、ワインを飲みながら、本当に久しぶりにゆっくりと昼食を食べた。

僕らが初めての客と分かったのだろう。お店のオーナーと思しき女性が、とても丁寧に接客してくれた。

妻が2杯目のワインを頼もうとすると、チーズを出してくれたりと、かなり手厚いサービスをしてくれた。そのサービスについつい、もう1杯、ワインを頼んでしまった。

最後はコーヒーを飲んで、お店を後にした。

窓越しに見る恵比寿の街並は何の変哲も無い景色だが、こうして、ゆったりとした時間を過ごせることに感謝をしなければと思った。

金儲けって悪いことですか?

村上ファンドの村上氏の言葉である。

僕は勿論、お金儲けは悪いことだとは思わない。僕もより多くのお金が欲しい。

しかし、何のために「お金儲け」をするのか? それによって、その人の価値が決まると思う。

ホリエモンこと堀江さんは、「世の中、カネで買えないものはない」と言ったらしい。

本当にそうなのか? 少なくとも僕はそうは思わない。

日経新聞の別冊「THE NIKKEI MAGAZINE(日経マガジン)」の2月号に、「清富の実業家 大原孫三郎の贈り物」という特集があった。

大原孫三郎は、クラレクラボウ中国銀行の「創業者」として知られているが、実業家としての顔の他に、東洋一の病院を目指して設立した「倉敷中央病院(岡山県倉敷市)」や大原美術館「」、また、現在の「法政大学大原社会問題研究所」の元となる「工場保健衛生研究所」や「果実王国」となった岡山県の技術基盤を創ったと言ってもよい「大原農業研究所(現在の岡山大学資源生物化学研究所)」を設立したりと、いわゆる「ソーシャル・アントレプレナー(社会起業家)」的な側面を持っていた。

その一方、奥さんが46歳の若さで亡くなった後は独身で過ごしたものの、「芸者の愛人に入れあげて大変だった時期もある(彼の孫にあたる謙一郎氏の弁)」らしく、「聖人君子とは言えない人物だった」ようである。とても「人間臭い」人だったのだろう。

その大原孫三郎氏は晩年、長男(謙一郎氏の父)に「わしの人生は失敗の連続だった」と語っているという。

これだけのことをやりながら、何が不満だったのだろう?と誰もが首を傾げたらしいが、「下駄と靴と片足ずつ同時に履けると思ったが、この考え方は無理だったことを知った」という自省の弁も伝えられているという。

「未完」の想いを言い遺してこの世を後にした彼は、「私は種を撒いただけだ。どう育てるかは、若いお前たち次第だ」と言いたかったのかもしれない(特集の筆者/安西巧氏)。

「ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)」。「高貴な人物には、その地位に応じた社会的責任を負う義務がある」というフランスの名言で、この特集は締めくくられている。

「しかし、昨今の日本の成功者たちは掲げる志を失ってしまったかのようにみえる」という言葉が付け加えられている。

大谷さんが言うように、投資家なら誰でもよいということではない。

「理念なき繁栄は滅びる」のである。

最後の理事会。

僕の人生で初めての「住宅(マンション)」を購入してから丸2年。

高いお金を出して購入したわけだし、賃貸と違って、そこに住む人達とはこの先の人生を共に過ごすことになるので、マンションという「組織」の「カルチャーやルール」づくりに主体的に関りたいと思い、自ら進んで初年度の理事会メンバーになった。

2年目は、まったくもって「想定外」のことだったが、初年度の理事長からのご指名を受け、2代目の理事長として管理組合の仕事をしてきた。マンション前の道路は車の往来が多く危険であることから、住民にアンケートを取り、その結果をもって渋谷警察に陳情した結果、今年の夏には「横断歩道」が設置されることになった。

ところで、今日は管理組会の総会がある。理事長としての僕の仕事は、そこでお終いである。

この2年間は、子供が生まれたり、新しい会社を立ち上げたりと、僕の人生で今までにないほど「大きな変化」の最直中だったので、その時期に理事会の活動や理事長としての責任を果たすのはとても大変だった。

でも、結局は「与える人」が「最も与えられる」ということではないかと思う。会社でも何でも組織の経営は似たようなものでもある。

そのことを学んだ2年間でもあった。

また、積極的に理事会の運営に関ろうという方が少ない現実を考えると、他の人に任せてしまうのが心配な反面、かと言って、さすがにこれ以上はやりきれない。物事には何でも「潮時」というものがある。

「国や会社や組織」が何かをしてくれると期待するのではなく、自分自身が「国や会社や自分が属する組織」のために「何ができるか?」を考えて、愚直に「実践する」人が多い国や会社や組織は「発展」し、それらに「期待する人」が多いそれらは「衰退する」という至極当たり前の原理があると思う。

針葉樹の森。

針葉樹の森。それは「厳しさ」の中で、じっとチャンスを待つ、「耐える文化」の象徴のような気がする。

父親が生前、東北出身の人間のことを「辛抱強い」と説明していたことがある。先月の上旬、初めての「八戸」に向かう新幹線の窓越しに外の景色を見ながら、そんなことを思い出した。

ところで、今年のバレンタインデー(2/14)は「新宿御苑」の某所にて、大谷さんとふたりで、経済界のある重鎮の方に対して「八戸プロジェクト」のプレゼンをしていた。

自分でも理由は分からないが、なぜか、「八戸をシリコンバレーにする!!!」というチャレンジに関して、ロマンチックなものを感じている。

インターネットリサーチ業界を創ってきたのとは違って(それも大変な仕事だった)、言うほど簡単なことじゃないし、果てしない道のりであることは重々承知しているが、不思議と、自分の中に「静かな力」が生まれてきているのを感じている。

10年後に、「ソーシャルアントレプレナーとは、あいつらのことだ」と言われたら、この上ない幸せである。

追伸:ちょうど5年前の「2002年2月13日」、当時のインフォプラントのオフィス(新宿御苑)で、インターネットリサーチ研究会の設立準備会議を開催した。不思議な縁を感じる。