第4回 鉢嶺 登氏 – 法政大学MBAとの共同講座 2006/9/25 (1)

株式会社オプト
代表取締役CVO
鉢嶺 登 氏

1967年6月生まれ。 千葉県出身。1991年早稲田大学商学部卒。 森ビル株式会社に3年間勤務を経て、1994年、米国で急成長しているダイレクトマーケティング業を日本で展開するため、オプトを創業。 1999年にインターネットマーケティングに特化。 2004年2月にJASDAQ(2389)に株式公開。イーコマースや情報提供サービスにも参入するなど積極展開。 若手起業家の組織YEOジャパンの8代目会長を務めるなど、経済、社会活動にも積極的に関与している。

イノベーション ~ベンチャーキャピタリストの視点~

写真:鉢嶺 登 氏

皆さんこんにちは、今ご紹介頂きましたオプトの鉢嶺と申します。
本日はよろしくお願い致します。まず自己紹介を致しますと、私は1967年の6月生まれでございまして、今39歳です。普通の家庭に生まれまして、父は地方の公務員です。そして小学校、中学校と普通の公立行きまして、高校も地元千葉の公立高校に行きました。そこで1浪しまして、早稲田大学商学部のほうに入学しまして、卒業後に森ビルという会社に3年間勤めて、オプトという会社を設立ということになります。ですから設立は1994年、26歳のときになります。

そもそも起業を思い立ったきっかけについてですが、自分なりに思うのは、父が公務員だったので、それに対する反発があったのかなと思います。

また、小学校・中学校と学級委員を結構やっていましたので、その過程を通してみんなで何かを成し遂げるとか、まとめるとかいうものの楽しみを覚えていったのも非常に大きかったと思います。

中学校の頃には戦国武将がすごく好きだったので、尊敬する人はと聞かれると織田信長と答えて続けていたというぐらい戦国武将が大好きでした。そのような中で織田信長は、戦国武将の中でも日本統一の礎を築いたというところに非常に惹かれまして、私もいずれは日本を変えるような影響力のあるような仕事をしてみたいなと思い、起業につながってまいりました。

大学は行くつもりなかったんですけども、中学、高校でやりたいことが結局見つからなかったので、親にまぁ大学に行けばやりたいことが見つかるかもしれないよと説得されて大学に行きました。しかし、案の定大学生活の4年間は遊んで終わってしまい、何をやりたいんだとうというのが最終的に見つからないまま就職することになりました。

鉢嶺様の経歴 ~就職から起業の迷い~

いずれ起業するっていうのは決めていたので、不動産の知識と金融の知識って言うのは自分の会社を切り盛りしていくなかで必要だろうという思い、最終的に森ビルに入社しました。森ビルに入社してからはこのまま普通にいってしまうと多分このままずるずるいっちゃうなと思っていましたので、3年で辞めようということを決めて、入社してからもことあるごとにみんなで3年で辞めるよというふうに言っていました。

しかし、2年間過ぎていよいよ来年起業しないといけないとなりましたら、急に怖くなってきました。様々な統計の資料を見ると、会社起業して5年間生き長らえる会社はごく一部で、10年間、30年間になってくると1%も生き残っていないわけです。そうすると、失敗したらどうしようなどと真剣に悩んでおりました。

たまたまその時に、エジプトに旅行に行くことがありまして、船に寝泊りして遺跡を見ていくというツアーに参加しました。そこで、岸辺に船が寄っていった時にエジプト人が川原にばーって降りてきまして、甲板に向けて、彼らがビニール袋に自達で作ったTシャツとかテーブルクロスを入れて投げてくることに遭遇したんです。それを僕らが気に入ったら千円札を入れて投げ返すということをやるわけなんですけども、最初僕らは楽しんでやるっていたんですけども、その現地の人たちが受け取った千円札を太陽にかざして、座ってお祈りをし始める姿をみてハッとしました。

私は当時25歳だったんですけど、なんで俺は25歳でエジプトに来ることが出来ているのかなと。当時私の両親まだ海外旅行一回も行ったことがないという時期でした。それに比べて、まだ社会で若い25歳で俺は海外に来ることが出来るんだろう。そう思うと別にこう自分が頑張ったからじゃないなと思いました。今の日本という国が栄えているから、結果としてこう若くてもこうしてエジプトに来ることが出来るのだと。せっかく僕らの先代の人たちが頑張って今の日本を作ってくれたのに、僕らはその恩恵にのほほんと乗っかってるだけでいいのかと思いまして、これはいかんと考えを改めました。

当時僕は91年のバブル時期の頂点でしたので、もう大企業入ってしまえば終身雇用で一生安泰だと思っていましたが、それではまずいと。せっかく僕らの先代の人たちが本当に頑張って今の日本を作ってくれたのに、僕らはその恩恵に頼ってのほほんと乗っかってるだけでいいのか?と思いました。

迷いから決断へ

写真:鉢嶺 登 氏

僕らは、むしろ恵まれている今だからこそ大企業からスピンアウトしてチャレンジしていかないとという想いに強く駆られまして、とにかく大企業からスピンアウトして辞め何かにチャレンジすることに意味があると思いました。

もう、失敗するなんて関係ない、逆にもうエジプト現地の姿を見ると、ばかばかしくなっちゃったんですね。日本で失敗したところでたいしたこと無いんじゃないかと。別にバイトすりゃ食べていけると、そう割り切りもできました。

僕が起業する94年というのはバブル崩壊した後だったので、僕が会社起こすよ、といったときには100人中100人が反対されました。

しかし、僕はもうすっきりしましたから大丈夫です、やれますということで帰ってきて起業するということになります。

最初、会社はFAXのダイレクトメールからスタートしました。

当時、FAXというのはほぼ100%オフィスには普及していたのにも関わらず、伝達手法としてしか使われていなくてメディアとして使われていませんでした。

たとえば千代田区、中央区、港区、新宿区、渋谷区という、この5区にオフィスが集中してるんですけれども、たとえば千代田区というのは、昼間の人口が95万人もいるのにもかかわらず、夜中の人口は1万人しかいないという極端な区です。

みんな家に帰っていった無人のオフィスにダイレクトメールだチラシだって置くよりも、みんながバッとオフィスに居る時に広告を流したほうが、より効率的なんじゃないかというふうに思いまして、オフィスが集中しているその5区のオフィスのFAXのデータベースを集めるところからスタートしました。

しかし、ピーク時でも結局4億円しか売り上げが立ちませんでした。これではとても上場できないなというような時に、インターネットというものが出てきまして、一気に舵取りをインターネットに移しました。

いったんFAXの事業からネットに転換するときというのは、いったん売上2億5000万ぐらいに落ちるんですけど、そこからまたちょっとずつ上がっていきました。転機というのはその2001年です。

決断から転機へ

2001年の転機というのは大きく2つありまして、ひとつはチーム経営にしたということです。それまでは、僕はどちらかというと0から1を作る、あるいは新しいものを発想するというのは好きで得意なんですけれども、1になったものを5とか10にするというのはそれほど得意ではないんですね。

1点目は対象市場の成長性希望観、つまり、市場で一番になりうる選択肢が入っているかどうか、 ということです。

2点目はチームとして優れた企業であるか。
野心的なビジョンをもっていて、 かつチームとして優秀でエネルギッシュかどうか。

そんな時に、創業のときのメンバーの一人に0から1を作るということにはまったく興味ない、逆に1になったものを5とか10にしたいんだという者がおりましたので、彼に経営の執行の部分を委ねるようにしましたら、売り上げも上がっていきました。

もうひとつが事業をフォーカスしたということですね、97年の段階で、これからインターネットが来るということでFAXからメールに切り替えました。

そこでのわたしの失敗はこれからインターネットの時代が来るから、できる限りインターネットのいろんな分野に投資をしようと、できる限り借り入れをしました。

そこから投資をしていったわけですけども、2001年からそういうチーム経営の体制にして事業もいっぱいやっていたのをインターネットの広告代理行にすべての資源をフォーカスしました。それ以外の事業はすべて止めるということをして、やっと業績が回復し、会社として伸び始めるということになります。