第04回 吉川 欣也氏 vol.1 (1)

第04回 吉川 欣也氏 vol.1 (1)

元「新聞配達」。シリコンバレーで起業。

吉川さんと初めて会ったのは1993年、彼がプロトコルというI.T.系のシンクタンクに勤めていた頃である。当時から「自信家」であり、「何か凄いことをしでかしそうな人だな」と思っていた。

僕の予感どおり、彼は1999年、シリコンバレーに渡り、ルーター開発のベンチャーを立ち上げる。

はじめに、彼のプロフィールから紹介したい。

彼は愛知県出身、宮崎県育ち。1967年生まれの現在41歳である。
法政大学法学部に入学し、宮崎から東京に出てきたわけだが、彼は、ご両親からは「入学金」以外は負担してもらっていない。授業料も生活費も、すべて自分で稼いで大学を卒業している。今となっては「死語」だろうが、いわゆる「苦学生」だった。

写真:吉川 欣也 氏

「新聞配達」が、僕にとってのベンチャーの始まりでした。

毎日が「新聞」との格闘だった。

「新聞奨学生をやっていたんですが、僕にとっては、もうそこからベンチャーが始まっているんですね。まず、アメリカに行く前に東京に出ると。それで、自分が好きなことをやりたいので、まず自分で稼ぐということです。当時18万円だったかな?それくらいの月収があるというのは新聞配達しか思いつかなかったんです。というか、チョイスがなかったんです。

それで住み込みで18万、まずはこれで行こうと思いました。300件配りましたけど、結構大変でした。何が大変かというと、朝はいいんですよ。早く起きればいいだけなので。3時半~4時に起きて、300件配って、だいたい6時~6時半に終わるんですよ。それはみんなが寝ている間にやりますから、いいんです。

何が嫌かというと、夕刊です。夕刊も同じように、夕方3時半~4時に戻って、今度は250件くらい配るので、少しは減るんですが、授業の5限が取れないんですよ。だから4限までびっちり授業に出て、『ごめん、夕刊配って来る』と言って、その後、みんなの飲み会に19時半くらいから合流するわけです。それで、お酒を飲んで、また3時半になって・・・。そんな生活を1年やって、『オレ、死ぬよな』となりました。

配るほうも大変でしたが、それよりも大変だったのが『集金』でした。だいたい集金の9割は、毎月20日には終わるんですが、そこから残り5%に5日かかって、最後の5%が完全に集め切れないで持ち越すわけです。いつも98%くらいでした。いくら頑張っても居ないし、集金には時間をすごく使うので大変でした」。

戦後間もない頃の話ではなく、1980年代後半の「バブル経済」の頃のことである。

さて、そんな「苦学生」だった彼は、どのようなプロセスを辿り、そもそもなぜ?起業をし、シリコンバレーに渡ったのか?その軌跡を振り返ってみたい。