2度目のコロナと誕生日。

コロナは妻で止まって欲しかったが、次男にも感染。61回目の誕生日は「主夫」として迎えた。週明け4/1に入学式の長男は何とか無事、逃げ切ったようだ。その長男は連絡もよこさず初の無断外泊・・・(正確には着信に気づかず)。まあ、明後日から大学生だしなw。

子供の頃は、60歳と言えば、もう完全な老人だったが、日本人の寿命は伸び、リンダ・グラットンのお陰で人生は100年時代になった。健康を保てれば、まだまだ先は長い。とは言え、頭も心も身体もそれなりに動くのは、あと10-15年だろう。

そんなわけで、この先の人生のグランドデザインを考えている・・・。

Times Square in New York City. March 7th (Thu), 2024

我が家では、家族の誕生日は全員でケーキを食べてお祝いするのがお約束だが、今年はケーキどころではなくなった。そんなことで、今年の誕生日記念のfacebook投稿にはケーキの写真は載せられず、6-7年ぶりに訪れた僕の大好きなNew York City の写真を載せることにした。

NYCは2泊3日、それも初日と三日目は移動日で、フルに滞在したのは中日の一日だけ。超短期滞在だったが、改めて、いつか住んでみたい街だと実感した。

今回のNYC訪問は、武蔵野EMCの学生たちの引率。彼女たち(5人中4人は女子!)にとっての「学び」を最優先にすべてのアポを設定した。ボストンから移動してきた初日は、まず、ホテルから徒歩圏にある「Times Square」へ。記念写真を撮った後、アメリカの象徴とも言えるロックフェラーセンターを訪問。1980年代後半のバブル絶頂期(1989年10月)には、三菱地所がロックフェラーセンターを買収した話をした。彼女たちが生まれる10年以上前のことだ。

その後、彼女たちにとって初めてのNYCの地下鉄でダウンタウンに!投資先のPeatix NYCスタッフのDaniel と一緒にEast Village のイタリアンレストランで食事をした後は、NYCで100年続くスウィーツのお店に移動。NYCはどんな街か?について、Danielから話をしてもらった。

Rie-san とEMCの学生たち at セントラルパーク in NYC. March 8th (Fri), 2024

翌日の午前中は、10数年来の友人の「Rieさん」とセントラルパークで待ち合わせた。5人中4人が女子ということもあり、日本人女性の生き方のロールモデルとして、きっと参考になるだろうと思い、NYCに住むようになった経緯や今までの人生について話をしてもらった。彼女の話は女子4人だけでなく、唯一の男子にもとても参考になったようだ。

Rieさんと分かれた後は、プラザ合意で有名な「The Plaza」まで歩き、そこからLyftで「Astoria」というQueensにある街に移動。偽物を判別する「A.I.スタートアップ Entrupy」の創業者のVidyuthと前日に続き Peatix の Danielとランチを食べた。Vidyuthはインド人で、外国人がNYCで起業家として生きることの意味、その苦労と醍醐味に学生たちは痛く感動していた。

右側中央の男性2人が奥からDaniel at Peatix, Vidyuth at Entrupy. at Astoria in New York.

ランチの後は、East Riverまで30-40分歩き、ボートでダウンタウンまで移動した。両側を川に囲まれているマンハッタンには、Uber/Lyft, 地下鉄やバス以外に「ボート」という移動手段があることを経験すると同時に、絶景を楽しんだ。船を降りた後は、Wall Steet を通ってNew York 証券取引所の前を通り過ぎ、Grand Zero(World Trade Center 跡地)を訪問。5人とも神妙な表情をして見入っていた・・・。

Grand Zero Memorial in NYC. March 8th (Fri), 2024

NYC最後の夜、ダウンタウンを散策し、ホテルに戻った後は、近くにあるイタリアンレストランで、今回の研修旅行を振り返った。入口近くの席にいた太ったイタリア人の男性はオーナーで、帰り際に言葉を交わしたところ、大学教授では儲からないから、また事業をやって一発当てて、NYCに店を開いてくれ!とのことだったw。さすが、イタリア人、ユーモアのセンスがある。

ところで、4/7 (日) 日本時間の朝10時から、サンフランシスコに住む愛宕翔太さんという若い起業家と、Podcastをすることになった・・・。僕が日々書いているシリコンバレーのスタートアップやVCに関すること、日本のスタートアップエコシステムのこと、僕自身の起業家として、またエンジェル投資家として感じていることを踏まえて、シナリオもなく、ざっくばらんに話をする予定である。

乞うご期待!

中川とポルシェ。

ブログに書くほどではないかとも思ったが、前回の投稿からだいぶ時間が経っていることもあり、文字にしておくことにした。気になって読んだコラムに衝撃を受けたので。

大学生の頃、一冊1,000円もするカーグラフィックという月刊誌を毎月買っていた。大学進学で上京後、2年目から一緒に住むようになった弟もクルマが好きで、2人で知識だけは増えていった。当然、クルマを買えるお金があるわけもなく、カーグラで学んだ知識をもとに、2人でクルマ談義をするだけだったが、それも楽しかった。

大学2年生の頃だったと思うが、マツダのファミリアという2ボックス、色は「赤」が大人気になり、僕はレンタカーで赤のファミリアを借りてドライブに出かけたりした。こうして文字にしてみて改めて思い出したが、当時は、クルマを運転すること自体を目的にして出掛けることをドライブと言っていた。そして、ドライブの最中に聴くためにお気に入りの音楽を録音した「カセットテープ」と一緒に、楽しい娯楽として機能していた。1980年代のことである。

気になって読んだコラムは「松任谷正隆さん」が毎月、JAF Mate に寄稿されているものだが、その結末に、僕は思わず「えっ!」と声をあげてしまった。

僕と同年代以上の方には説明するまでもないと思うが、彼は無類のクルマ好きで知られている。本業の音楽活動に加えて、クルマ関係のコラムを書いたり、今は無いと思うが、以前はカーグラフィックTVというテレビ番組があり、そのパーソナリティをしていたりした。

今月号のコラムには、彼の本業の音楽活動に関することが書いてあり、奥さんでもあるユーミンのツアーバンドのギタリストして活躍されていた中川さんという方のことが紹介されていた。

彼もクルマが好きだったらしく、松任谷さんの影響で、ポルシェに乗っていたそうだが、ある年の苗場でのユーミンのライブを最後に病気が見つかり、あっけなく他界されてしまったそうだ。

そして亡くなられる直前に、ご自分でポルシェを処分されたという。

そのことを後で伝え聞いた松任谷さんは、「その時の彼の気持ちを思うと、今でも胸が張り裂けそうになる」と綴っていた。

昭和の高度経済成長期に生まれ育った人間に共通する価値観なのか、クルマは経済的成功のシンボルのひとつだ。カーグラフィックを読んでいた大学生の頃から20年後、創業に関わったウェブクルーというスタートアップのIPOで得たキャピタルゲインで、BMW Z4 3.0i を買った。人生で初めて買ったクルマだった。そんな僕も人生で一度は、ポルシェのオーナーになりたいと思っている。

大学生の頃ほどクルマに対する関心は無くなったが、それでもクルマが好きなのと、松任谷正隆さんのファンでもある僕は、とても楽しく、そのコラムを読み進めていたのだが、最後の最後で、中川さんという寡黙なギタリストの最後を知り、想定外の結末に、心が動揺した。

自分でも何を伝えたいのか? 何を文字に残しておきたいのか? 整理できていないが、会ったこともない中川さんというギタリストの人生から、何かを訴えられている気がした・・・。

※出典:写真はポルシェ・ジャパンのウェブサイトよりスクリーンショット。

あの日。

人生は短いよ。人生100年時代とか言うけど。若い日々は、あっと言う間に通り過ぎる。

子供の頃にお世話になった叔父さんや叔母さんたちが旅立ってしまう年齢になったせいか、子供の頃や自分が若かった頃のことを思い出す。

父は珍しく、急いでいた。制限速度を超えているのは、小学生の僕にも分かった。長い坂道を父のクルマで病院に向かっていた。小学校4年生か5年生の頃だったと思う。あれが人生で初めての入院だった。

地元の総合病院で働いていた父は、とても仕事が忙しかったようで、一緒に遊んでもらった記憶は無い。時々、どこどこに連れて行くという約束をしては、いつも前日になって、仕事が入ってしまい、連れていけなくなった・・・と言っていた。母は、子どもたちを遊びに連れて行ってあげたいという気持ちは分かるけと、行けなくなるとガッカリさせるだけなので、本当に行けることが確実になるまで、何も約束しない方がいいでしょう、と父に言ってた。

コロナ禍の中、息を引き取った叔父は、僕が高校生の時、大雪が降った日、バンドの練習で楽器を運ぶためにクルマを出してくれた。僕の父親(彼にとっては義理の兄)に対する手前もあっただろうけど、本当に他人に優しい、素晴らしい人だった。残念ながら、告別式には参列できなかった。

思い出せば、長男は幼少の頃から気難しく、神経質だった。数学が得意で、Garage Band で作曲を始めた彼の姿を見て、一昨年のクリスマスに、僕は彼にMacBook を買ってあげた。妻に似て、金銭感覚がシビアで、最初は「どうして、そんな高額なものを買ってきてしまったんだ・・・」と涙を流しそうにしていたが、音楽ユニットを結成し、今ではFinal Cut Pro等を使いこなし、昨年の夏には、FMラジオにも出演した。

この両親からどうしてこういう天真爛漫な人間が生まれて来たのか?と思うほど、次男は底抜けに明るく、社交性に優れており、誰とでもすぐに友達になれる。アフタースクールのキャンプでバスに乗る時も、隣が知らない子だろうがまったく気にせず、帰って来る頃には仲良しになっている。長男のような理系の脳ではないと思うが、兄の様子を見様見真似で、Garage Band で作曲をしたりしている。週末は、友達の家に行ったり、彼らを我が家に呼んだりと、学年の違う子どもたちとも楽しく遊んでいる。

彼らがいなかったら、去年の紅白をみるまで、きっとヨアソビは知らなかったし、ヨルシカもね。

田坂広志さんがご自身のブログか何かで若さの貴重さに気づくのは、残念ながら、若さを失った時だということを仰っていた。その時は、理屈としては理解していたが、今になって、哀しいほど、その意味を実感する。

そりゃいろいろあるけど、生きていることは、それだけで素晴らしい。そう思える人生を送れていることに、感謝しかない。

人生は短いね。

無題。

前回の投稿から2ヶ月以上が過ぎた・・・。その間、世の中も僕にも、様々な出来事があった。首相も変わった。

僕がこうしてブログに書くことで何かが変わるわけでもないし、その存在が元に戻るわけでもないけど、自分自身の気持ちを整理するために、このブログを書いている。

とある理由で、彼女には何度かお会いしたことがある。正確に言えば、言葉を交わしたわけではないが、同じ目的で、同じ空間に居合わせたことが何度かあった。

彼女は、テレビや映画で見るよりも、とても華奢で繊細でクールな感じがした。スクリーン越しに見るよりも、とてもキレイで、そして「孤高」な雰囲気があった。

二人の分身を残してまで、なぜ、そうせざるを得なかったのか? ご本人にしか分からないだろう。残された方のことを思うと、言葉が無い。

僕の人生は、57年と半年が過ぎた。体力の衰えを痛感するが、取り組んでいる仕事はおもしろい。そりゃ、ここには書けないトラブルやクリティカルな問題もある。でも、周囲の方々の協力のお陰で、きっと乗り越えていけるだろう。

傷心の日々を送っていた頃に読んでいたドラッカーの著作には「人間は1年で出来ることを過大評価し、5年あれば出来ることを過小評価する」と書いてある。事実、5年前の僕には、今の自分が取り組んでいることなど、想像すらできなかった。

また、百年コンサルティングの鈴木貴博氏は、今起きていることの萌芽や原因は、5年前には出現している、と述べている。つまり、今の自分が取り組んでいることの本質を見極めることができれば、5年後の自分の姿を想像することができるし、それに向けて、布石を打って行くこともできるということだ。

彼女のことだけを書いてこのエントリーを終わらせるのでは心が落ち着かず、自分のことを考えた。

両親からもらった命をどのように実らせるか? 改めて考えたい。

まだまだ人生は続く。

Progress Part-2. 同調圧力ノムコウ。

それが英語だったからなのか、それとも他の言語でも同じ結果になったのかは分からない。僕は中学1年生で初めて「英語の授業」を受けた時、「世の中に、こんなにおもしろいものがあったのか!」という衝撃を受けた。今までの人生で、あの時の衝撃というか感動を超える出来事には出会ったことがない。

強いて言えば、大学生の頃、初めてNew York を訪問した時のことは今も鮮明に憶えている。地下鉄の車両に乗っているのが、白人だけでも、黒人だけでも、もちろん、東洋人だけのわけはなく、とにかく人種の坩堝だったことに衝撃を受けた。

インフィニティ国際学院の第一期生、長野県出身の「フランシス聖(以下、フランシス)」は、カナダ人の父親と日本人の母親を持つ、日本でいうところの「ハーフ」だ。でも、海外の僕の知り合いは、そういう彼・彼女たちを「ダブル」と呼んだりする。

フランシスは日本の公立小学校に通っていたが、型に嵌められる教育カリキュラムに馴染めず、私立に転校する。理解のある先生に恵まれ、一時はモチベーションが高まるものの、担任の先生が変わり、不登校になる。そして、父親と一緒にカナダに移住する。

小学校を卒業し、入学した中学校は、すべての授業が「フランス語」で行われる学校だった。きっとケベック州等、東海岸の学校だったのだろう。最初はまったく授業についていけなかったが、徐々にフランス語を習得。様々な国籍や移民の子どもたちがいるその学校は、まさに日本とは「別世界」で、学校生活は楽しくて仕方がなかったそうだ。でも、ある時、とても仲が良かった友人が家族の都合でカナダを離れ、ヨルダンに帰ることになる。号泣した彼女だったが、それがきっかけでフランスに3ヶ月、留学。カナダとは違った世界を知る。そして、日本に帰国した。

僕が中学生の時、交換留学制度の説明があった。僕は是非、行ってみたいと思ったが、当時の担任の先生は「高校生や大学生になってからでも遅くない。中学で行くのは止めた方がいい」と言った。交換留学制度があることを説明しておきながら、矛盾した話だ。あの時、交換留学に行っていたら、どう変わったかは別として、僕の人生は大きく変わっていたことは間違いない。

英語という言語に触れて以来、僕はバイリンガルになることが夢であり目標だった。留学をしたり、海外で仕事をしたいと思っていた。その夢は未だに実現できていない。

でも、一度も海外に住んだことはないけど、海外で英語で講演をしたり、パネルディスカッションに呼ばれるようになった。こう見えて?、結構、努力している。

そんなこともあり、僕は、フランシスのように、生まれながらにして「自分の中」に「異文化」を持つ人に対する憧れがある。

話は変わるが、洋楽一辺倒だった僕は、子供たちの影響で邦楽を聴くようになるまで、殆ど、J-POPは聴かなかった。そんなこともあり、SMAPが歌った「夜空ノムコウ」は、スガシカオが歌詞を書いたことさえ知らなかった。

実際に聴いてみると、才能溢れる、たくさんのアーティストがいて、僕は邦楽が好きになった。もっと言うと「日本語の歌詞」が・・・。

英語の歌詞にも心の琴線に触れるものがあるけど、ネイティブスピーカーじゃない僕には、当たり前だけど、僕が日本語の歌詞を感じるようには、悔しいけど、理解できない。

でも、フランシスのような子には、分かるんだろうな…。

僕が見ているこの景色は、彼女にはどんなふうに見えるのだろう? 彼女のような人にしか見えない何かがあるはずだ。相手を型に嵌めることしか出来ないつまらない大人には、想像さえできないようなね。

そんな努力しても手に入らないものを開花させてあげないなんて、どうかしてる。それは嫉妬? それとも、同じもの以外は認められない単一民族の性なのか。

フラン、夜空ノムコウには明日が待っているよ! 大丈夫、頑張れ!!

追伸:東京芸大出身の「川村結花」が書いた曲に、ある音楽愛好家が「現代最高の吟遊詩人」と評した「スガシカオ」が詩を書き、キムタクがリードボーカルでSMAPが歌う。嫉妬を超えて、憧れるよw。神様はズルいね!

人生は短いんだ。好きなことをやれ。

僕たち兄弟は早くに産みの母を亡くした。享年45歳。「肺がん」だった。僕が15歳、次男が14歳、三男が9歳の時である。

僕と次男は産みの母のことをよく憶えているが、三男は朧気な記憶しかないそうだ。最初は父の再婚に頑なに反対していた三男だったが、担任の先生との面談の後、納得して帰ってきた。我が弟ながら、健気な奴だと思った。

僕は中学生の頃、夕食が終わった後も食堂(居間とは別の部屋だった)に残り、後片付けをしている母親とよく話し込んでいた。何の話をしていたかは記憶に無い。クラシカルというか、浮かれたことが嫌いだった母は、下世話な話はしなかったし、ドリフターズの「8時だョ全員集合」は嫌悪していた。一方、正統派の俳優や女優の話はよくしていた。女優の香川京子さんの話をしていたことを憶えている。

ところで、昨日(5/6)の日経新聞の「私の履歴書」に、女優の岸恵子さん第六話が掲載されていた。若い頃の写真が載っているが、いかにも聡明な顔立ちをされている。彼女は学級委員をしており、勉強もよくできたそうだが、数学は苦手で、答案用紙の半分を「白紙」で提出したりしたらしい。

そんな彼女を自宅に呼びつけた担任だった数学の先生は、20分ほど、こっ酷く説教をした後、咳き込みながら「根性を通せ。君には多くの才能がある。好きなことをやれ。人生は短いんだ。苦手なものはやらなくていい」と言って、彼女を玄関先まで送ってくれたらしい。岸恵子さんが社会に出られた後、心からお礼を言いたいと思った時、その先生は既にこの世の人ではなかったという。「胸」の病気を患い、あまりにも早く旅立ってしまったそうだ。

新型コロナウイルスは、我々の生活を一変させた。来る日も来る日もテレビでは新型コロナウイルス関連のニュースが報道され、人々は「自粛モード」になり、子どもたちは学校にさえ行くことができずにいる。ネット上には、政府の対応に対する不平不満や苦情など、様々な声が飛び交っており、人々がどれだけストレスを抱えているかが分かる。それだけならまだしも、休業要請をされた業種の方々は、経済的にも追い詰められている。僕がわざわざブログに書くまでもなく、このままの状態が続けば、先に自粛をした人たち、政府の要請に協力した人たちから、経済的破綻に追い込まれるのは明らかだ。

では、どうすれば良いのだろうか?

今から20年以上前、BCG(ボストンコンサルティンググループ)から転じてネットイヤーグループの創業に携わり、その後、ご自身でコンサルティング会社を立ち上げられた鈴木貴博氏が、この先の日本経済の行方をダイヤモンド・オンラインに寄稿されている。また、続編をnoteに書かれているので、興味のある方はお読みになっていただければと思うが、このままダラダラと自粛モードが続くと、仮に「アメリカ経済が3か月、壊滅的な打撃を受けるとしたら、日本経済は同じ打撃を半年分受ける可能性がある」と鈴木氏は予言(警告)している。

実は、このエントリーを書こうと思った動機は、僕自身を含めて、ネット上に様々な投稿をされている人々の、その「目的」は何なのだろうか? ということを考えるためだった。

自粛に追い込まれた方々の「なんとかしてくれ!」という叫びは理解できる。しかし、僕がそういう方々との接点が少ないせいか、あるいは、そういう業種の方々はオンラインでの活動に積極的ではないのかもしれないが、彼らの投稿を見かけることはあまりない。一方、今のところは大丈夫な人たちの方が、様々な意見や情報源をネット上に投稿されているように思う。

では、その目的な何なのだろうか?

僕自身のことを考えてみると、この状況をどうにかしたいと思いつつ、自分(だけ)では、どうにもすることができず、その鬱憤や怒りをどこかにぶつけたい、ということかもしれないし、直接は届かないとしても、賛同者を増やし、世論として政権の判断に影響をもたらしたい、ということかもしれない。

僕は現政権の対応を絶賛するつもりは無いが、かと言って、扱き下ろすつもりもない。しかし、このままの状態が続けば、日本社会は崩壊してしまうだろう。先行きが見えないこの状況に対して、見えない相手に対する怒りをぶつけたいのかもしれない。それがエスカレートすると、我々人間は、特定の相手に怒りの対象を求めてしまうのかもしれない。自粛要請に応じないパチンコ店に対する抗議をする人と、パチンコをしたい人たちとのバトルのように・・・。

ところで、ストレスというものとは少し異なるような気がするが、ここ数日、情緒が安定しない。年明けからフルスピードで走って来たと思ったら、4月以降は新型コロナウイルスの影響で、フルスピードでもなく、かと言ってアイドリング状態でもなく、中途半端な回転数を維持しながら仕事に向き合っている。それは、自分自身の情緒を絶妙な感覚でバランスさせなければならず、容易なことではないのだろう。

今の僕の仕事は、ざくっと8割以上、海外の人たちとのものなのだが、昨年までは、ほぼ毎月のように海外出張し、あるいは、先方が来日し、リアルに相手と会話をしていたが、ここ数ヶ月は、完全リモートになっている。海外とは、時差もあるし、祝日も異なる。商習慣も違うし、言うまでもなく、前提となる価値観や文化も異なる。日本人同士でさえ、ちょっとした言葉のニュアンスや勘違いから誤解が生じたり、上手く物事が伝わらないことがある。海外との仕事で尚且つリモートであれば、ピタッとギアが噛み合わないことがあっても不思議ではない。でも、そういうことがあると、人間なので、心も軋む。精神的にもっとタフな人間だったらいいな・・・と思うこともある。

ところで、話を岸恵子さんに戻すと、高校時代の担任の先生は、彼女を一人の人間として見て、彼女の才能に目を向け、そして、愛情をもって接していたことが、ご本人の文章から伝わってくる。

相手と異なる見解を持ったり、反論することはあっていいが、いわゆる、Disる行為は、対立以外の何も生まない。長期戦を余儀なくされる、このウイルスとの戦いにおいても、可能な限り、相手にも自分にも優しくありたいと思う。

岸恵子さんの「私の履歴書」を読んで、ちょっと軋んでいた心が温かくなった。

このエントリーのタイトルと内容がしっくり来ないが、他にこれはと思うタイトルが思い浮かばず、岸恵子さんの「私の履歴書」第六話で紹介されていた、恩師の方の言葉に「勇気」を頂いたので、それをタイトルにした。

ところで、上の写真は、年初に次男が書いた絵馬。当時、小学2年生。今、紹介するのは皮肉かもしれないし、もっと早くに紹介するべきだったかもしれない。平和とは程遠い状況かもしれないが、お互いに助け合いながら生きていけるように。

9社目の創業とコロナウイルス。

サンブリッジの仕事を始めたのは、2011年3月だった。オフィスから、JR恵比寿駅西口ロータリーに出て来たところで、地面が大きく揺れた。三井住友銀行からは、大声で叫びながら外国人が飛び出してきた。

インタースコープを創業したのは、ネットバブルがピークを打った2000年3月。また、遡ること29年。初めて起業した1991年3月は、金融と不動産のバブル経済が弾けた頃だった。

投資先の一社でもある Infarm の日本法人を設立(代表取締役社長に就任)したと思ったら、新型コロナウイルス。でも、幸運にもTOA World Tour Tokyo 2020 で、日本市場参入のアナウンスをすることができ、多くのメディアにカバーしていただいた。

ベルリン発の都市農業ソリューション「Infarm」、JR東日本から資金調達し日本市場進出——スーパー「紀ノ国屋」で、屋内栽培の農作物を販売へ

https://www.businessinsider.jp/post-208694

僕が新しく何かをしようとする時は必ず、世の中がクラッシュした時だ。そして、僕の誕生日は3月。もうすぐ57回目の誕生日が来る。

新型コロナウイルスの件では、色々と考えさせられた。というか、日々、考えさせられている。

誰しも先行きが見えない事象には不安を覚えるし、パニックになることもある。しかし、不確かな情報に翻弄され、心配しても事態が好転するわけではない。ご家庭によっては大変なところがあるのは心が痛むが、幸いにして我が家は、仕事も何とかやり繰りし、むしろ、二人の子どもたちと過ごす時間が増えたことは不幸中の幸いだと思っている。

むしろ、こういう時こそ、中長期の視点で、新型コロナウイルス後のことを考えた方がいい。地球が終わるわけではない。

還暦まで、あと3年(嫌だねw)。それまでにも、そして、その後にもやりたいことはたくさんある。

Infarm 日本市場参入に続き、もうひとつ、近日中に、新たな取組を発表できると思う。

大きな花を咲かせたい。そのためにも、とにもかくにも健康が大切である。