中川とポルシェ。

ブログに書くほどではないかとも思ったが、前回の投稿からだいぶ時間が経っていることもあり、文字にしておくことにした。気になって読んだコラムに衝撃を受けたので。

大学生の頃、一冊1,000円もするカーグラフィックという月刊誌を毎月買っていた。大学進学で上京後、2年目から一緒に住むようになった弟もクルマが好きで、2人で知識だけは増えていった。当然、クルマを買えるお金があるわけもなく、カーグラで学んだ知識をもとに、2人でクルマ談義をするだけだったが、それも楽しかった。

大学2年生の頃だったと思うが、マツダのファミリアという2ボックス、色は「赤」が大人気になり、僕はレンタカーで赤のファミリアを借りてドライブに出かけたりした。こうして文字にしてみて改めて思い出したが、当時は、クルマを運転すること自体を目的にして出掛けることをドライブと言っていた。そして、ドライブの最中に聴くためにお気に入りの音楽を録音した「カセットテープ」と一緒に、楽しい娯楽として機能していた。1980年代のことである。

気になって読んだコラムは「松任谷正隆さん」が毎月、JAF Mate に寄稿されているものだが、その結末に、僕は思わず「えっ!」と声をあげてしまった。

僕と同年代以上の方には説明するまでもないと思うが、彼は無類のクルマ好きで知られている。本業の音楽活動に加えて、クルマ関係のコラムを書いたり、今は無いと思うが、以前はカーグラフィックTVというテレビ番組があり、そのパーソナリティをしていたりした。

今月号のコラムには、彼の本業の音楽活動に関することが書いてあり、奥さんでもあるユーミンのツアーバンドのギタリストして活躍されていた中川さんという方のことが紹介されていた。

彼もクルマが好きだったらしく、松任谷さんの影響で、ポルシェに乗っていたそうだが、ある年の苗場でのユーミンのライブを最後に病気が見つかり、あっけなく他界されてしまったそうだ。

そして亡くなられる直前に、ご自分でポルシェを処分されたという。

そのことを後で伝え聞いた松任谷さんは、「その時の彼の気持ちを思うと、今でも胸が張り裂けそうになる」と綴っていた。

昭和の高度経済成長期に生まれ育った人間に共通する価値観なのか、クルマは経済的成功のシンボルのひとつだ。カーグラフィックを読んでいた大学生の頃から20年後、創業に関わったウェブクルーというスタートアップのIPOで得たキャピタルゲインで、BMW Z4 3.0i を買った。人生で初めて買ったクルマだった。そんな僕も人生で一度は、ポルシェのオーナーになりたいと思っている。

大学生の頃ほどクルマに対する関心は無くなったが、それでもクルマが好きなのと、松任谷正隆さんのファンでもある僕は、とても楽しく、そのコラムを読み進めていたのだが、最後の最後で、中川さんという寡黙なギタリストの最後を知り、想定外の結末に、心が動揺した。

自分でも何を伝えたいのか? 何を文字に残しておきたいのか? 整理できていないが、会ったこともない中川さんというギタリストの人生から、何かを訴えられている気がした・・・。

※出典:写真はポルシェ・ジャパンのウェブサイトよりスクリーンショット。

あの日。

人生は短いよ。人生100年時代とか言うけど。若い日々は、あっと言う間に通り過ぎる。

子供の頃にお世話になった叔父さんや叔母さんたちが旅立ってしまう年齢になったせいか、子供の頃や自分が若かった頃のことを思い出す。

父は珍しく、急いでいた。制限速度を超えているのは、小学生の僕にも分かった。長い坂道を父のクルマで病院に向かっていた。小学校4年生か5年生の頃だったと思う。あれが人生で初めての入院だった。

地元の総合病院で働いていた父は、とても仕事が忙しかったようで、一緒に遊んでもらった記憶は無い。時々、どこどこに連れて行くという約束をしては、いつも前日になって、仕事が入ってしまい、連れていけなくなった・・・と言っていた。母は、子どもたちを遊びに連れて行ってあげたいという気持ちは分かるけと、行けなくなるとガッカリさせるだけなので、本当に行けることが確実になるまで、何も約束しない方がいいでしょう、と父に言ってた。

コロナ禍の中、息を引き取った叔父は、僕が高校生の時、大雪が降った日、バンドの練習で楽器を運ぶためにクルマを出してくれた。僕の父親(彼にとっては義理の兄)に対する手前もあっただろうけど、本当に他人に優しい、素晴らしい人だった。残念ながら、告別式には参列できなかった。

思い出せば、長男は幼少の頃から気難しく、神経質だった。数学が得意で、Garage Band で作曲を始めた彼の姿を見て、一昨年のクリスマスに、僕は彼にMacBook を買ってあげた。妻に似て、金銭感覚がシビアで、最初は「どうして、そんな高額なものを買ってきてしまったんだ・・・」と涙を流しそうにしていたが、音楽ユニットを結成し、今ではFinal Cut Pro等を使いこなし、昨年の夏には、FMラジオにも出演した。

この両親からどうしてこういう天真爛漫な人間が生まれて来たのか?と思うほど、次男は底抜けに明るく、社交性に優れており、誰とでもすぐに友達になれる。アフタースクールのキャンプでバスに乗る時も、隣が知らない子だろうがまったく気にせず、帰って来る頃には仲良しになっている。長男のような理系の脳ではないと思うが、兄の様子を見様見真似で、Garage Band で作曲をしたりしている。週末は、友達の家に行ったり、彼らを我が家に呼んだりと、学年の違う子どもたちとも楽しく遊んでいる。

彼らがいなかったら、去年の紅白をみるまで、きっとヨアソビは知らなかったし、ヨルシカもね。

田坂広志さんがご自身のブログか何かで若さの貴重さに気づくのは、残念ながら、若さを失った時だということを仰っていた。その時は、理屈としては理解していたが、今になって、哀しいほど、その意味を実感する。

そりゃいろいろあるけど、生きていることは、それだけで素晴らしい。そう思える人生を送れていることに、感謝しかない。

人生は短いね。

無題。

前回の投稿から2ヶ月以上が過ぎた・・・。その間、世の中も僕にも、様々な出来事があった。首相も変わった。

僕がこうしてブログに書くことで何かが変わるわけでもないし、その存在が元に戻るわけでもないけど、自分自身の気持ちを整理するために、このブログを書いている。

とある理由で、彼女には何度かお会いしたことがある。正確に言えば、言葉を交わしたわけではないが、同じ目的で、同じ空間に居合わせたことが何度かあった。

彼女は、テレビや映画で見るよりも、とても華奢で繊細でクールな感じがした。スクリーン越しに見るよりも、とてもキレイで、そして「孤高」な雰囲気があった。

二人の分身を残してまで、なぜ、そうせざるを得なかったのか? ご本人にしか分からないだろう。残された方のことを思うと、言葉が無い。

僕の人生は、57年と半年が過ぎた。体力の衰えを痛感するが、取り組んでいる仕事はおもしろい。そりゃ、ここには書けないトラブルやクリティカルな問題もある。でも、周囲の方々の協力のお陰で、きっと乗り越えていけるだろう。

傷心の日々を送っていた頃に読んでいたドラッカーの著作には「人間は1年で出来ることを過大評価し、5年あれば出来ることを過小評価する」と書いてある。事実、5年前の僕には、今の自分が取り組んでいることなど、想像すらできなかった。

また、百年コンサルティングの鈴木貴博氏は、今起きていることの萌芽や原因は、5年前には出現している、と述べている。つまり、今の自分が取り組んでいることの本質を見極めることができれば、5年後の自分の姿を想像することができるし、それに向けて、布石を打って行くこともできるということだ。

彼女のことだけを書いてこのエントリーを終わらせるのでは心が落ち着かず、自分のことを考えた。

両親からもらった命をどのように実らせるか? 改めて考えたい。

まだまだ人生は続く。

Progress Part-2. 同調圧力ノムコウ。

それが英語だったからなのか、それとも他の言語でも同じ結果になったのかは分からない。僕は中学1年生で初めて「英語の授業」を受けた時、「世の中に、こんなにおもしろいものがあったのか!」という衝撃を受けた。今までの人生で、あの時の衝撃というか感動を超える出来事には出会ったことがない。

強いて言えば、大学生の頃、初めてNew York を訪問した時のことは今も鮮明に憶えている。地下鉄の車両に乗っているのが、白人だけでも、黒人だけでも、もちろん、東洋人だけのわけはなく、とにかく人種の坩堝だったことに衝撃を受けた。

インフィニティ国際学院の第一期生、長野県出身の「フランシス聖(以下、フランシス)」は、カナダ人の父親と日本人の母親を持つ、日本でいうところの「ハーフ」だ。でも、海外の僕の知り合いは、そういう彼・彼女たちを「ダブル」と呼んだりする。

フランシスは日本の公立小学校に通っていたが、型に嵌められる教育カリキュラムに馴染めず、私立に転校する。理解のある先生に恵まれ、一時はモチベーションが高まるものの、担任の先生が変わり、不登校になる。そして、父親と一緒にカナダに移住する。

小学校を卒業し、入学した中学校は、すべての授業が「フランス語」で行われる学校だった。きっとケベック州等、東海岸の学校だったのだろう。最初はまったく授業についていけなかったが、徐々にフランス語を習得。様々な国籍や移民の子どもたちがいるその学校は、まさに日本とは「別世界」で、学校生活は楽しくて仕方がなかったそうだ。でも、ある時、とても仲が良かった友人が家族の都合でカナダを離れ、ヨルダンに帰ることになる。号泣した彼女だったが、それがきっかけでフランスに3ヶ月、留学。カナダとは違った世界を知る。そして、日本に帰国した。

僕が中学生の時、交換留学制度の説明があった。僕は是非、行ってみたいと思ったが、当時の担任の先生は「高校生や大学生になってからでも遅くない。中学で行くのは止めた方がいい」と言った。交換留学制度があることを説明しておきながら、矛盾した話だ。あの時、交換留学に行っていたら、どう変わったかは別として、僕の人生は大きく変わっていたことは間違いない。

英語という言語に触れて以来、僕はバイリンガルになることが夢であり目標だった。留学をしたり、海外で仕事をしたいと思っていた。その夢は未だに実現できていない。

でも、一度も海外に住んだことはないけど、海外で英語で講演をしたり、パネルディスカッションに呼ばれるようになった。こう見えて?、結構、努力している。

そんなこともあり、僕は、フランシスのように、生まれながらにして「自分の中」に「異文化」を持つ人に対する憧れがある。

話は変わるが、洋楽一辺倒だった僕は、子供たちの影響で邦楽を聴くようになるまで、殆ど、J-POPは聴かなかった。そんなこともあり、SMAPが歌った「夜空ノムコウ」は、スガシカオが歌詞を書いたことさえ知らなかった。

実際に聴いてみると、才能溢れる、たくさんのアーティストがいて、僕は邦楽が好きになった。もっと言うと「日本語の歌詞」が・・・。

英語の歌詞にも心の琴線に触れるものがあるけど、ネイティブスピーカーじゃない僕には、当たり前だけど、僕が日本語の歌詞を感じるようには、悔しいけど、理解できない。

でも、フランシスのような子には、分かるんだろうな…。

僕が見ているこの景色は、彼女にはどんなふうに見えるのだろう? 彼女のような人にしか見えない何かがあるはずだ。相手を型に嵌めることしか出来ないつまらない大人には、想像さえできないようなね。

そんな努力しても手に入らないものを開花させてあげないなんて、どうかしてる。それは嫉妬? それとも、同じもの以外は認められない単一民族の性なのか。

フラン、夜空ノムコウには明日が待っているよ! 大丈夫、頑張れ!!

追伸:東京芸大出身の「川村結花」が書いた曲に、ある音楽愛好家が「現代最高の吟遊詩人」と評した「スガシカオ」が詩を書き、キムタクがリードボーカルでSMAPが歌う。嫉妬を超えて、憧れるよw。神様はズルいね!

人生は短いんだ。好きなことをやれ。

僕たち兄弟は早くに産みの母を亡くした。享年45歳。「肺がん」だった。僕が15歳、次男が14歳、三男が9歳の時である。

僕と次男は産みの母のことをよく憶えているが、三男は朧気な記憶しかないそうだ。最初は父の再婚に頑なに反対していた三男だったが、担任の先生との面談の後、納得して帰ってきた。我が弟ながら、健気な奴だと思った。

僕は中学生の頃、夕食が終わった後も食堂(居間とは別の部屋だった)に残り、後片付けをしている母親とよく話し込んでいた。何の話をしていたかは記憶に無い。クラシカルというか、浮かれたことが嫌いだった母は、下世話な話はしなかったし、ドリフターズの「8時だョ全員集合」は嫌悪していた。一方、正統派の俳優や女優の話はよくしていた。女優の香川京子さんの話をしていたことを憶えている。

ところで、昨日(5/6)の日経新聞の「私の履歴書」に、女優の岸恵子さん第六話が掲載されていた。若い頃の写真が載っているが、いかにも聡明な顔立ちをされている。彼女は学級委員をしており、勉強もよくできたそうだが、数学は苦手で、答案用紙の半分を「白紙」で提出したりしたらしい。

そんな彼女を自宅に呼びつけた担任だった数学の先生は、20分ほど、こっ酷く説教をした後、咳き込みながら「根性を通せ。君には多くの才能がある。好きなことをやれ。人生は短いんだ。苦手なものはやらなくていい」と言って、彼女を玄関先まで送ってくれたらしい。岸恵子さんが社会に出られた後、心からお礼を言いたいと思った時、その先生は既にこの世の人ではなかったという。「胸」の病気を患い、あまりにも早く旅立ってしまったそうだ。

新型コロナウイルスは、我々の生活を一変させた。来る日も来る日もテレビでは新型コロナウイルス関連のニュースが報道され、人々は「自粛モード」になり、子どもたちは学校にさえ行くことができずにいる。ネット上には、政府の対応に対する不平不満や苦情など、様々な声が飛び交っており、人々がどれだけストレスを抱えているかが分かる。それだけならまだしも、休業要請をされた業種の方々は、経済的にも追い詰められている。僕がわざわざブログに書くまでもなく、このままの状態が続けば、先に自粛をした人たち、政府の要請に協力した人たちから、経済的破綻に追い込まれるのは明らかだ。

では、どうすれば良いのだろうか?

今から20年以上前、BCG(ボストンコンサルティンググループ)から転じてネットイヤーグループの創業に携わり、その後、ご自身でコンサルティング会社を立ち上げられた鈴木貴博氏が、この先の日本経済の行方をダイヤモンド・オンラインに寄稿されている。また、続編をnoteに書かれているので、興味のある方はお読みになっていただければと思うが、このままダラダラと自粛モードが続くと、仮に「アメリカ経済が3か月、壊滅的な打撃を受けるとしたら、日本経済は同じ打撃を半年分受ける可能性がある」と鈴木氏は予言(警告)している。

実は、このエントリーを書こうと思った動機は、僕自身を含めて、ネット上に様々な投稿をされている人々の、その「目的」は何なのだろうか? ということを考えるためだった。

自粛に追い込まれた方々の「なんとかしてくれ!」という叫びは理解できる。しかし、僕がそういう方々との接点が少ないせいか、あるいは、そういう業種の方々はオンラインでの活動に積極的ではないのかもしれないが、彼らの投稿を見かけることはあまりない。一方、今のところは大丈夫な人たちの方が、様々な意見や情報源をネット上に投稿されているように思う。

では、その目的な何なのだろうか?

僕自身のことを考えてみると、この状況をどうにかしたいと思いつつ、自分(だけ)では、どうにもすることができず、その鬱憤や怒りをどこかにぶつけたい、ということかもしれないし、直接は届かないとしても、賛同者を増やし、世論として政権の判断に影響をもたらしたい、ということかもしれない。

僕は現政権の対応を絶賛するつもりは無いが、かと言って、扱き下ろすつもりもない。しかし、このままの状態が続けば、日本社会は崩壊してしまうだろう。先行きが見えないこの状況に対して、見えない相手に対する怒りをぶつけたいのかもしれない。それがエスカレートすると、我々人間は、特定の相手に怒りの対象を求めてしまうのかもしれない。自粛要請に応じないパチンコ店に対する抗議をする人と、パチンコをしたい人たちとのバトルのように・・・。

ところで、ストレスというものとは少し異なるような気がするが、ここ数日、情緒が安定しない。年明けからフルスピードで走って来たと思ったら、4月以降は新型コロナウイルスの影響で、フルスピードでもなく、かと言ってアイドリング状態でもなく、中途半端な回転数を維持しながら仕事に向き合っている。それは、自分自身の情緒を絶妙な感覚でバランスさせなければならず、容易なことではないのだろう。

今の僕の仕事は、ざくっと8割以上、海外の人たちとのものなのだが、昨年までは、ほぼ毎月のように海外出張し、あるいは、先方が来日し、リアルに相手と会話をしていたが、ここ数ヶ月は、完全リモートになっている。海外とは、時差もあるし、祝日も異なる。商習慣も違うし、言うまでもなく、前提となる価値観や文化も異なる。日本人同士でさえ、ちょっとした言葉のニュアンスや勘違いから誤解が生じたり、上手く物事が伝わらないことがある。海外との仕事で尚且つリモートであれば、ピタッとギアが噛み合わないことがあっても不思議ではない。でも、そういうことがあると、人間なので、心も軋む。精神的にもっとタフな人間だったらいいな・・・と思うこともある。

ところで、話を岸恵子さんに戻すと、高校時代の担任の先生は、彼女を一人の人間として見て、彼女の才能に目を向け、そして、愛情をもって接していたことが、ご本人の文章から伝わってくる。

相手と異なる見解を持ったり、反論することはあっていいが、いわゆる、Disる行為は、対立以外の何も生まない。長期戦を余儀なくされる、このウイルスとの戦いにおいても、可能な限り、相手にも自分にも優しくありたいと思う。

岸恵子さんの「私の履歴書」を読んで、ちょっと軋んでいた心が温かくなった。

このエントリーのタイトルと内容がしっくり来ないが、他にこれはと思うタイトルが思い浮かばず、岸恵子さんの「私の履歴書」第六話で紹介されていた、恩師の方の言葉に「勇気」を頂いたので、それをタイトルにした。

ところで、上の写真は、年初に次男が書いた絵馬。当時、小学2年生。今、紹介するのは皮肉かもしれないし、もっと早くに紹介するべきだったかもしれない。平和とは程遠い状況かもしれないが、お互いに助け合いながら生きていけるように。

9社目の創業とコロナウイルス。

サンブリッジの仕事を始めたのは、2011年3月だった。オフィスから、JR恵比寿駅西口ロータリーに出て来たところで、地面が大きく揺れた。三井住友銀行からは、大声で叫びながら外国人が飛び出してきた。

インタースコープを創業したのは、ネットバブルがピークを打った2000年3月。また、遡ること29年。初めて起業した1991年3月は、金融と不動産のバブル経済が弾けた頃だった。

投資先の一社でもある Infarm の日本法人を設立(代表取締役社長に就任)したと思ったら、新型コロナウイルス。でも、幸運にもTOA World Tour Tokyo 2020 で、日本市場参入のアナウンスをすることができ、多くのメディアにカバーしていただいた。

ベルリン発の都市農業ソリューション「Infarm」、JR東日本から資金調達し日本市場進出——スーパー「紀ノ国屋」で、屋内栽培の農作物を販売へ

https://www.businessinsider.jp/post-208694

僕が新しく何かをしようとする時は必ず、世の中がクラッシュした時だ。そして、僕の誕生日は3月。もうすぐ57回目の誕生日が来る。

新型コロナウイルスの件では、色々と考えさせられた。というか、日々、考えさせられている。

誰しも先行きが見えない事象には不安を覚えるし、パニックになることもある。しかし、不確かな情報に翻弄され、心配しても事態が好転するわけではない。ご家庭によっては大変なところがあるのは心が痛むが、幸いにして我が家は、仕事も何とかやり繰りし、むしろ、二人の子どもたちと過ごす時間が増えたことは不幸中の幸いだと思っている。

むしろ、こういう時こそ、中長期の視点で、新型コロナウイルス後のことを考えた方がいい。地球が終わるわけではない。

還暦まで、あと3年(嫌だねw)。それまでにも、そして、その後にもやりたいことはたくさんある。

Infarm 日本市場参入に続き、もうひとつ、近日中に、新たな取組を発表できると思う。

大きな花を咲かせたい。そのためにも、とにもかくにも健康が大切である。

僕は自分のことを褒めたことがない。

勉強は出来たほうだった。中学までは・・・。おそらく、僕の人生で最初の「挫折」は、高校受験に失敗したことだと思う。合格発表の掲示板に自分の名前が無かったあの時のことは、今もよく憶えている。

詳細はここでは書かないことにするが、昨年末から、「1分で話せ」の著者、伊藤羊一さんとお会いしたり、Slackで話をしたりするようになった。先日の伊藤さんのFBポストを読んで、僕はとても考えさせられた。

「1分で話せ」は40万部を超えるベストセラーとなったこともあり、ご存じの方も多いと思うが、伊藤さんは、日本興業銀行(元みずほ銀行)でご自身のキャリアをスタートさせた。

彼は横浜支店で働いていた時、様々な苦労を乗り越えて、明和地所のマンション建設に必要な融資案件をまとめることができたそうだ。そして、自分が融資を担当したマンションが完成した時、行ってみよう!と思って、休日に現地まで見に行った。

「入居者の家族が、笑顔でそのマンションに入っていったのを見たんだよな。その様子は、今でも鮮明に覚えている。25年前くらいのことなのに。ひと家族とすれ違っただけなのに。そのくらい、感激があった。ああ、自分は取引先にお金を融資する、という仕事をしていたんだけど、融資をするのが仕事なんではなくて、、、そのお金が使われて、こうやってマンションが建って、そこに入居する人がいて、それで、笑顔で幸せに生きている。それが仕事の意味なんだな、と。その笑顔に触れた時、自分の中で電流が走った。あれが原点」。

「石切り職人」の話である。

こうしてブログに書くのも嫌になるが、56歳(今年3月で57歳になる!)にもなる僕にとって、伊藤さんのような「原点」はあっただろうか? 回想してみたが、残念ながら、僕には、伊藤さんの身体に流れたような電流が走ったことは一度もない。残念ながら本当に・・・。

トイレの中で、そのことを考えていた時、伊藤さんのような経験ではないけど、僕の中で、ひとつの区切りになった出来事を思い出した。それは、僕の人生で初めてのクルマを買った時のことだ。

その話をすると未だに妻に笑われるのだが、才能もないくせに、大学一年生になるまでは、あわよくば、ミュージシャンになりたいと思っていた僕は、いわゆる「会社」という場所で働くということが、まったくイメージできなかった。

長くなるので詳細は割愛するが、ある会社で働いていた24歳の時、ビジネスの世界で生きていくことにリアリティというか将来展望を持てなかった僕は、とある有名な劇団のオーディションを受けたのだが、なんと、300人中の5人に選ばれてしまった。しかし、俳優を目指して勝負する勇気もなく、皮肉なもので、その数年後、起業した。そして、それからの約9年間は、とにかく、お金で苦労をした。そんなこともあり、僕は人並みの生活を送りたかったし、経済的に成功したかった。

今までに計8社の創業に参画したが、その内の1社、ウェブクルーが上場したことで、そこそこのキャピタルゲインが入った。僕は2004年3月、学生時代から憧れだった「BMW (Z4 3.0i)」を購入した。渋谷のセルリアンタワーホテルでアポがあり、恵比寿のマンション(これもウェブクルーのキャピタルゲインで購入した)を出て、旧山手通りに入り、神泉の交差点から国道246号を降りて、渋谷駅南口の交差点でUターンし、セルリアンタワーホテルの駐車場にZ4を停めた時は、それまでの苦労が報われた気がして、とても嬉しかった。

こうして書きながら、もうひとつ、思い出したのは、インタースコープというインターネットリサーチの会社を創業し、Yahoo! Japan にエグジットした時のこと。インタースコープは、業界の「御三家の一角(マクロミル、インフォプラント、インタースコープ)」として数えられるようになり、インターネットリサーチという業界の創造と発展に、それなりの貢献をしてきたという実感を持てたことだ。

しかし、伊藤さんが感じたような「電流」を感じたことは、残念ながら、一度もない。

これもお恥ずかし話なのだが、つい先程、その理由が分かった気がする。それは、僕は「誰のために仕事をしているのか?」という意識が希薄だったからだと思う。

話は変わるが、同じくインターネットリサーチ御三家の一角、インフォプラントの創業者である大谷さん(元Gパン学長)が設立した「インフィニティ国際学院」という、とてもぶっ飛んだ高校がある。僕はそのインフィニティ国際学院のナビゲーターなる役職を仰せつかっているのだが、明日、記念すべき第一期生に対して、オンラインで授業をさせてもらうことになっている。

自分が中学1年生の時に感じた「矛盾」や「落ちこぼれ」だった高校時代の頃を自分を思い出すと、その多感な時期に「どんな大人」と接するか? どんな教育を受けるか? が、その後の人生に大きな影響を与えることはこうして書くまでもない。

典型的な日本の教育に何らかの問題意識や窮屈さを感じて、インフィニティ国際学院に入学してきたのだとしたら、彼らの人生のたった2時間かもしれないが、自分に課された責任は大きいし、彼らの将来に幾ばくかでも貢献できるとしたら、それはすごく光栄なことだ。

あの頃の日本には無かった仕組みを自らの手で創り上げた大谷さんには尊敬しかないし、こういう機会を頂けたことは感謝しかない。

中学1年生の時の担任との会話が、僕が日本の教育制度に対する問題意識を持つに至ったきっかけになったのだけど、その問題意識や制度の矛盾を解決する、少なくとも解決すべく「挑戦」することで、僕も、若い日の伊藤さんが感じた「電流」を、還暦までには感じられるかもしれない。

美容室は、髪を切りに来るお客さんをキレイにしたり、かっこよくしてあげたり、幸せな気持ちにさせるために存在している。

マラソンの有森裕子選手がオリンピックで「2個目のメダル」を獲った時に仰った言葉を発するようになれることが、僕の人生の目標である。

あと3年3ヶ月。頑張ろう。