Has Berlin changed?

今回のベルリンは2泊3日の短い滞在だったが、良く知っている友人たちに加えて、新たな出会いもあり、有意義だった。

僕が初めてベルリンを訪れたのは2015年11月。無謀にも初めてのベルリンで、Innovation Weekend というピッチイベント(予選)を開催した時だった。

あれから約8年。その頃のベルリンは、だいぶ物価が高くなってきたとは聞いていたが、それでも当時の為替レートで計算すると、レストランは東京の60-70%、場所にも拠るが、家賃は約半分くらいと言っていたと思う。

日本でもニュースになったりもしているので、ご存じの方もいると思うが、今では、1つの物件に、なんと申し込みが300件!もあるそうだ。

ベルリン州政府の住宅政策の問題や規制が影響しているのだろうが、移住者の増加に対して、新しい物件の供給が追いつかないらしい。日本では東京や大阪のような大都会でも考えられないことだ。

それでも、ロンドン、パリ、アムステルダム等と較べれば、ベルリンの生活コストは、1/2-1/3だという。今の為替レートで計算すると、ひょっとしたら東京よりも生活コストが高いかもしれない。

ベルリン市内を走るトラム写真は夜10時過ぎ。まだ明るい。2023年6月12日(筆者撮影)

昨年9月に引き続き、ベルリンを訪問したのは、ベルリン州政府が主催するAsiaBerlin Summitなるイベントに、今年も登壇者の一人として招かれたからだ。そこで、予期せぬ面白い出会いがあった。

集客協力の一環として、イベント運営者が用意した各登壇者の顔写真入りのバナーがあり、それぞれがLinkedInへ投稿する。すると、何人かから会場で会いたいという連絡を頂いた。

その中の一人に、アジア人の女性がいた。彼女はスペインのMBAで、ケーススタディの対象として、なんとInfarmを取り上げていたという!それで、シードステージの投資家であり、日本法人を経営していた僕に話を聞きたかったらしい。

さすがに話せることと話せないことがあるが、日本法人の経営者として、また幹部会議への参加を通じて、そして、投資家の一人として、パイロットファームしかなかったアーリーステージからユニコーンになるまでの過程を見てきたことを、可能な範囲で共有した。ユニコーンにもなると、そういうこともあるんだな…。

今日はいつものホテルをチェックアウトした後、日本企業が資金を出しているスタートアップスタジオ的な組織の責任者とお会いした。彼とは先日、Zoom で話をしたが、実際に会ったのは初めてだった。

MTGを通じて改めて感じたことは、日本は、日本語という言語とHigh Context なカルチャーによるInvisible Barrier があり、参入し難い市場ということだ。

その後は、両親のどちらかが日本人の友人を訪ねた。彼は非常にユニークなファンドを運営しており、ベルリンのとある場所にアパート(日本でいうマンション)を3部屋、購入している。写真を撮るのを忘れてしまったが、まだリノベーション中のアパートを案内してもらった。

彼がやろうとしていることは、その一部をCo-working spaceにすることと、市場価格よりも安く日本企業の駐在員に賃貸したり、僕のような出張者が泊まれるようにすることだ。

と同時に、日本人(に限らないと言っていたかもしれない)の起業家で、ベルリンでスタートアップをしようとしている人たちに代わり、とても複雑なドイツの行政手続き等を代行することで、事業やプロダクト開発に専念できるようにしたいと言っていた。

その理由は、日本にルーツを持つ人間として、不動産が高騰し、物件が逼迫しているベルリンにおいて、少しでも、日本人がビジネスをし易い環境を提供したいということだ。日本に対する思いはとても強いものを感じる。

彼と話をしながら思ったことは、僕の知り合いに限ったことかもしれないが、彼も含めて、両親のどちらかが日本人の友人の殆どは、日本ではなく、もう一人の親の出身国に住んでいるということ。つまり、彼らにとって、日本は好きな国だが、と同時に、住み難い国だということだ。それは、日本にとって、大きな損失である。

ラグビーの日本代表は、主将がニュージーランド人であり、外国人選手がたくさん含まれていたが、そのことに文句を言う人は誰もいなかっただろう。

少子高齢化が避けられない日本を再び活力ある社会にしていくためには、日本が好きな外国人が住み易い国にしていく必要がある。

少なくとも、僕はそう思っている。

さて、ノルウェーはどんな国なのだろうか? 初めてのオスロが楽しみだ。

スットクホルム経由でオスロに向かう機中にて(投稿は帰国後の自宅)

ユニコーンになったInfarm から学んだこと。

FIVE lessons learned from the Infarm Launch in Japan.

The Infarm founders. July 7th, 2016, at the Infarm HQ office. Photo by myself.

2021年12月、投資先のInfarmはヨーロッパは「ユニコーン」になった。

物語の始まりは、2015年11月18日。初めて訪問したベルリンで、無謀にも初めてのInnovation Weekend Berlin を開催した。

SunBridge Global Venturesという、シード&アーリーステージのスタートアップへの投資会社を経営していた頃、口を開けば「Go Global」と言っていたこともあり、まずは、自分たちが Go Global を実践しよう!ということで始めたのが、Innovation Weekend というピッチイベントの Small World Tourだった。

2014年5月にシンガポールでKick-offし、2016年までの3年間、ロンドン、ボストン、ニューヨーク、サンフランシスコ、そしてベルリンで開催した。イベントこそ主催しなかったが、パリにも足を伸ばし、現地のスタートアップエコシステムを研究した。

シンガポールでは、TECHINASIAのメンバーが協力してくれたこともあり、順調に ピッチ登壇スタートアップが集まったが、ボストンでは、イベント当日3日前の時点で、わずか「3社」しか登壇スタートアップが集まらず、スポンサーの皆さんに何と言ってお詫びをすれば良いのか?と途方に暮れていたことを思い出す。

その後、堰を切ったようにたくさんのスタートアップからの応募があり、結果的には大盛況に終わったが、今にして思うと、奇跡としか言いようがない。

ベルリンでは計2回、開催した。Infarm は初回の優勝スタートアップで、2015年の年間チャンピオンにもなった。

実は、初めてのベルリンでの開催にも関わらず、そこそこ順調にピッチ登壇スタートアップが集まり、既にアプリケーションを締め切っていたのだが、Storymaker というPR会社の創業者 Bjorn Eichstadt から紹介されたのがInfarmだった。

2013年にベルリンで創業したInfarm が我々のピッチイベントに登壇した時は、パイロットファームが1台あっただけで、ビジネスモデルも固まっていなかった。

InStore Farm designed by Infarm (old model) at the Infarm office in 2016. Photo by myself
The Infarm HQ office in 2016. Photo by myself.

Innovation Weekend Berlin で優勝した翌日、Infarm のオフィスを訪ね、創業者たちと話をしながら、彼らなら、この奇想天外な構想を実現するのではないか?と思い、その一年後、投資することを決めた。

暫くはホームグラウンドのヨーロッパで地歩を固めるため、日本に来ることはなかったが、2018年の秋、いよいよ日本市場参入を本格的に検討したいので相談に乗って欲しいと、久しぶりに連絡があった。

それから入れ代わり立ち代わり、四半期に1度のペースで、ファウンダーたちが東京に来るようになり、その度に僕は、投資家候補やクライアントになってくれそうな流通関連企業の幹部とのアポイントを取り、彼らを連連れ回していた。

JR東日本の皆さんとは、SunBridge Global Ventures を経営していた頃に知り合った。鉄道会社ではあるものの、非鉄道部門の事業を伸ばすことにコミットされていることを思い出し、興味を持っていただけるのではないか?と思い、たしか、3年ぶりに連絡をした。

僕の読みどおり?とても興味を持っていただき、一緒にベルリンやパリに出張し、当時のInfarm 本社オフィスや生産施設、Infarm のユニットを導入してくれているスーパーマーケットを視察した。そして、子会社の紀ノ国屋の皆さんをご紹介いただいた。

サミットとのご縁は、住友商事の知り合いを介してだった。初めて西永福のサミット本社を訪問し、当時、住友商事から執行役員としてサミットに出向されていた方とお会いした時、この人とは是非、一緒に仕事をしてみたいと思った。その年の暮れ、創業者の一人でCEOのErezが来日した時、3人で食事をした。

コクヨの東京本社に併設されているTHE CAMPUSに導入いただいたのは、日経ビジネスの記者の方(酒井大輔氏)が書いて下さった記事を社員の方がご覧になられたことがキッカケだった。社長の黒田さんとは10数年前、とある会合で知り合っていた。

こうして振り返ってみると、Steve Jobs が言っていた connecting the dots そのものである。きっと、これからの人生もそうありたい。

最後に、Infarm 日本法人の経営者として、また、Infarm 全体のリーダーシップチームの一員として、幹部会議に出席し、Global スタートアップの経営に参画してきたことで学んだことを整理したい。

1つ目:CAPEX。野菜を生産しているという意味では「農業」であり、AgriTech スタートアップだが、その収益構造は、完全に「製造業」だということ。

もちろん、設備投資の額は何を生産するかで大きく異なるが、テスラを生産するのか? iPhone を生産するのか? 野菜を生産するのかの違いであり、需要予測に基づき、生産拠点という「設備投資」を行う必要がある意味では、基本的な構造は同じである。

また、Vertical Farming(LED/水耕栽培)というカテゴリーは、研究開発投資(R&D)が求められる点でも、テスラやアップルのような大企業と類似している。ひと言で言えば、財務的体力が求められる事業ということだ。

2つ目:Diversity。Infarm は一時期、11カ国で事業展開しており、1,000人を超える従業員が在籍し、その国籍は「50カ国」を越えていた。ベルリン(ドイツ)発祥にも関わらず、僕が思うに、ドイツ人はせいぜい3割もいなかったし、英語が母国語の人も2割もいなかったと思う。でも、もちろん、社内公用語は「英語」である。

グローバルな事業を生み出すには、グローバルな問題意識、環境、そして、多様性が極めて重要ということだ。

一方、日本のスタートアップを見ると、殆どのケースで、創業者は全員「日本人」、投資家も日本人 or 日本企業 or 日系VC、社員も殆ど日本人、顧客も日本企業(日本人)だろう。尚且つ、現時点では、世界第3位のGDP(日本市場)があり、それでは、ガラパゴス化は必然であり、むしろ合理的である。

理想を言えば10年、できれば20年前に、Infarmのようなグローバルスタートアップの経営に参画する機会があったなら・・・と思うが、Infarm で得た貴重な経験を、これからの人生に活かしていきたいと思う。というか、活かすことのできる仕事をしたい。

3つ目:Expansion v.s. Focus。個人的な感想だが、市場にしても、品種にしても、手を広げ過ぎたように思う。一般論で言えば、少ない市場、少ない品種の方が経営資源の投資効率が良いのは間違いない。ソフトウエアのビジネスと違って、生産施設を前提としたビジネスであり、アゲインストの風が吹いた時の撤退コストも大きい。

4つ目:Product Market Fit。定量的に検証したわけではないが、お菓子やスイーツ等、デザートに分類されるものは、それなりに「冒険(試しに買ってみる)」する人が多い気がするが、日常の「食事」に使う食品に関しては、基本的に「冒険しない(知らないものは買わない)」人が多いように思う。

Infarm の主力商品は「ハーブ類」であり、顧客の立場で考えれば、購入する前に「試食」をしたいだろう。でも、Infarm が日本市場に参入するまさにそのタイミングで、新型コロナウイルス(COVID-19)が猛威を振るい、紀ノ国屋やサミットに限らず、すべてのスーパーマーケットで「試食」は出来なくなったことは極めて痛かった

PMF:Product Market Fit に至る前に撤退を余儀なくされたことは、経営者として悔しかったが、そのようなリスクも含めた上で経営するのがビジネスだ。

5つ目:Office & Factory。僕は今まで、インターネット関連のビジネスにしか携わったことがなく、「本社部門(オフィスワーク)」と「生産施設(現場)」とに分かれている事業(組織)は初めての経験だった。

また、Infarm はヨーロッパに親会社があり、本国では事業基盤が整っているが、日本法人はスクラッチから立ち上げる必要があり、純粋なスタートアップとは言えず、かといって、出来上がっている組織でもなく、社内のカルチャー、緊張感、スタッフのモチベーションをどうマネージすれば良いか?が難しかった。

Infarm Japan の経営を通じて、僕はたくさんのことを学んだ。

今後は、株主の一人として、Infarm がこの世界的な逆境を乗り越え、力強く成長して行くことを見守りたい。

ひとつ、付け加えることがあるとすれば、残念ながら撤退することにはなったが、Infarm に投資し、日本市場への参入を実現できたことで、欧州の「AgriTech/FoodTech」系スタートアップで、日本市場への参入に興味のあるところから相談されるようになった。

その中の一社で、とあるノルウェーのスタートアップと交流ができ、6月に、人生で初めて、オスロに行くことになった。

本当に最後に、このような機会を提供してくれた、Erez, Guy, Osnat の3人の創業者、また、リーダーシップチームのメンバー、日本法人のメンバー、上記で紹介したJR東日本、紀ノ国屋、住友商事、サミット、コクヨの皆さんには、改めてお礼を申し上げたい。

ありがとうございました!!

中川とポルシェ。

ブログに書くほどではないかとも思ったが、前回の投稿からだいぶ時間が経っていることもあり、文字にしておくことにした。気になって読んだコラムに衝撃を受けたので。

大学生の頃、一冊1,000円もするカーグラフィックという月刊誌を毎月買っていた。大学進学で上京後、2年目から一緒に住むようになった弟もクルマが好きで、2人で知識だけは増えていった。当然、クルマを買えるお金があるわけもなく、カーグラで学んだ知識をもとに、2人でクルマ談義をするだけだったが、それも楽しかった。

大学2年生の頃だったと思うが、マツダのファミリアという2ボックス、色は「赤」が大人気になり、僕はレンタカーで赤のファミリアを借りてドライブに出かけたりした。こうして文字にしてみて改めて思い出したが、当時は、クルマを運転すること自体を目的にして出掛けることをドライブと言っていた。そして、ドライブの最中に聴くためにお気に入りの音楽を録音した「カセットテープ」と一緒に、楽しい娯楽として機能していた。1980年代のことである。

気になって読んだコラムは「松任谷正隆さん」が毎月、JAF Mate に寄稿されているものだが、その結末に、僕は思わず「えっ!」と声をあげてしまった。

僕と同年代以上の方には説明するまでもないと思うが、彼は無類のクルマ好きで知られている。本業の音楽活動に加えて、クルマ関係のコラムを書いたり、今は無いと思うが、以前はカーグラフィックTVというテレビ番組があり、そのパーソナリティをしていたりした。

今月号のコラムには、彼の本業の音楽活動に関することが書いてあり、奥さんでもあるユーミンのツアーバンドのギタリストして活躍されていた中川さんという方のことが紹介されていた。

彼もクルマが好きだったらしく、松任谷さんの影響で、ポルシェに乗っていたそうだが、ある年の苗場でのユーミンのライブを最後に病気が見つかり、あっけなく他界されてしまったそうだ。

そして亡くなられる直前に、ご自分でポルシェを処分されたという。

そのことを後で伝え聞いた松任谷さんは、「その時の彼の気持ちを思うと、今でも胸が張り裂けそうになる」と綴っていた。

昭和の高度経済成長期に生まれ育った人間に共通する価値観なのか、クルマは経済的成功のシンボルのひとつだ。カーグラフィックを読んでいた大学生の頃から20年後、創業に関わったウェブクルーというスタートアップのIPOで得たキャピタルゲインで、BMW Z4 3.0i を買った。人生で初めて買ったクルマだった。そんな僕も人生で一度は、ポルシェのオーナーになりたいと思っている。

大学生の頃ほどクルマに対する関心は無くなったが、それでもクルマが好きなのと、松任谷正隆さんのファンでもある僕は、とても楽しく、そのコラムを読み進めていたのだが、最後の最後で、中川さんという寡黙なギタリストの最後を知り、想定外の結末に、心が動揺した。

自分でも何を伝えたいのか? 何を文字に残しておきたいのか? 整理できていないが、会ったこともない中川さんというギタリストの人生から、何かを訴えられている気がした・・・。

※出典:写真はポルシェ・ジャパンのウェブサイトよりスクリーンショット。

あの日。

人生は短いよ。人生100年時代とか言うけど。若い日々は、あっと言う間に通り過ぎる。

子供の頃にお世話になった叔父さんや叔母さんたちが旅立ってしまう年齢になったせいか、子供の頃や自分が若かった頃のことを思い出す。

父は珍しく、急いでいた。制限速度を超えているのは、小学生の僕にも分かった。長い坂道を父のクルマで病院に向かっていた。小学校4年生か5年生の頃だったと思う。あれが人生で初めての入院だった。

地元の総合病院で働いていた父は、とても仕事が忙しかったようで、一緒に遊んでもらった記憶は無い。時々、どこどこに連れて行くという約束をしては、いつも前日になって、仕事が入ってしまい、連れていけなくなった・・・と言っていた。母は、子どもたちを遊びに連れて行ってあげたいという気持ちは分かるけと、行けなくなるとガッカリさせるだけなので、本当に行けることが確実になるまで、何も約束しない方がいいでしょう、と父に言ってた。

コロナ禍の中、息を引き取った叔父は、僕が高校生の時、大雪が降った日、バンドの練習で楽器を運ぶためにクルマを出してくれた。僕の父親(彼にとっては義理の兄)に対する手前もあっただろうけど、本当に他人に優しい、素晴らしい人だった。残念ながら、告別式には参列できなかった。

思い出せば、長男は幼少の頃から気難しく、神経質だった。数学が得意で、Garage Band で作曲を始めた彼の姿を見て、一昨年のクリスマスに、僕は彼にMacBook を買ってあげた。妻に似て、金銭感覚がシビアで、最初は「どうして、そんな高額なものを買ってきてしまったんだ・・・」と涙を流しそうにしていたが、音楽ユニットを結成し、今ではFinal Cut Pro等を使いこなし、昨年の夏には、FMラジオにも出演した。

この両親からどうしてこういう天真爛漫な人間が生まれて来たのか?と思うほど、次男は底抜けに明るく、社交性に優れており、誰とでもすぐに友達になれる。アフタースクールのキャンプでバスに乗る時も、隣が知らない子だろうがまったく気にせず、帰って来る頃には仲良しになっている。長男のような理系の脳ではないと思うが、兄の様子を見様見真似で、Garage Band で作曲をしたりしている。週末は、友達の家に行ったり、彼らを我が家に呼んだりと、学年の違う子どもたちとも楽しく遊んでいる。

彼らがいなかったら、去年の紅白をみるまで、きっとヨアソビは知らなかったし、ヨルシカもね。

田坂広志さんがご自身のブログか何かで若さの貴重さに気づくのは、残念ながら、若さを失った時だということを仰っていた。その時は、理屈としては理解していたが、今になって、哀しいほど、その意味を実感する。

そりゃいろいろあるけど、生きていることは、それだけで素晴らしい。そう思える人生を送れていることに、感謝しかない。

人生は短いね。

短くなった夏休み。

僕には日系人の叔父がいた。ロサンゼルスで生まれた人で、自分で会社を興して成功し、裕福な生活をしていた。妻と結婚したことで、僕は彼の義理の甥になり、事あるごとに、色々なことを教わった。残念なことに、数年前、事故で亡くなった。

「子供には瑞々しい感性があり、どの子も天才だ。我々大人に謙虚な姿勢があれば、子供たちから多くのことを学ぶことができる」。その叔父が生前に言っていたことだ。

安倍首相の一声で小中高校が一斉休校になり、我が家の子供たちも暫くの間、自宅での勉強を余儀なくされていたが、その間、小3の次男は少々太ってしまった。そのことを妻はとても気にしていたが、学校が再開し、毎日、重たいランドセルを背負って、片道700メートルの道を往復するようになると、だいぶスッキリとしてきた。

緊急事態宣言が発令される前からノマド&テレワーク生活だった僕には、あまり大きな変化は無かったが、それでも、自宅にいることが増え、運動不足の次男を連れ出し、駒沢公園や林試の森公園まで、片道3キロ弱の道を自転車で出掛けるようになった。

学校が再開し、梅雨が始まると、自転車での散歩はできなくなったが、毎週日曜日、家族全員でプールに行くようになった。

泳ぎが苦手だった僕は、50メートルも泳ぐとゼイゼイ言っていたのだが、久しぶりに泳いでみると、以前よりはマシになり、200-250メートルぐらいは泳いで帰れるになった。

僕と同じような年齢の友人たちは、もう子育ては終わりつつあり、人生100年時代に向けて、この先のことに想いを巡らせているようだが、僕は、まだまだ先が長い。次男が成人(18歳@66歳、20歳@68歳)すると、70歳の声が聞こえている。

話は変わるが、昨日、ふとしたことから、Amazon Prime で、アル・パチーノ主演の「Stand Up Guys(邦題:ミッドナイト・ガイズ)」という映画を観た。70歳を超えたオジイサンたちが、かっこよく、余生を生きる、クライム・コメディ映画だ。

あくまでも映画の世界(フィクション)ではあるが、マフィアであっても、愛と友情に生き、弱い者を守り、強いが理不尽な奴にはリスクを取ってでも立ち向かう。本来の意味ではない使われ方の「忖度」とは無縁な生き方だ。

カッコいい70歳を目指そう。そのためにも、身体を鍛えておかないと!

Dream as if you’ll live forever, live as if you’ll die today.

とある週末、長男が通う中高一貫校の学園長の講演会に出掛けた。予想に違わず、大勢の保護者が参加しており、学園長の講演内容には多くの示唆があった。この先の人生について色々と考えさせられた。

久しぶりに自宅の書棚からドラッカーを取り出し、移動の電車の中で読み始めた。所狭しとマーカーが引いてあるが、まったく憶えていないところがたくさんある。いつも思うが、ドラッカーの本は、読むたびに、新しい発見がある。正確に言えば、当時は「その本質を理解していなかった」ことに気づかされる、ということなのだろう。

その他に最近読んだ本は、「モビリティ2.0:深尾三四郎著(日本経済新聞社)」「理は変革の中に在り:野村克也著(KKベストセラーズ)」「日本の論点2019-20:大前研一著(プレジデント社)」である。更に言うと、ブロックチェーン関連の書籍も何冊か読もうとしたが、どれも途中で挫折した。僕が期待した内容とは異なっており、「将来的にこんなことができる!」ということが中心で、技術的な説明はなく、あまりにつまらなく、どうしても読む意思を持ち続けられなかった。僕が期待していたのは、エンジニアではない僕でも分かるような「技術解説」だった。

そんな僕の問題意識を解決してくれたのは、Tim Romero というアメリカ人の友人(起業家、エンジェル投資家)だった。彼からの説明は、たったひとつの技術的な観点だけだったが、そのことにより、ブロックチェーンの可能性とその構造故、ブロックチェーンには向かない領域がたくさんあることの両方を理解することができた。巷で言われている「すべてはブロックチェーンに移行する」というのは「リアリティがない」ことが、よく分かった。

ところで、2018年も残すところ、あと2日。年々、年の瀬の感覚が無くなり、一年が経つのが速い。

今年の前半は毎月のように海外に出掛けたが、今、改めてGoogle Calendar を見直してみると、1月下旬から2月上旬は「長男の中学受験」だった。そんなこともあったな・・・というぐらい、もうずいぶんと昔のことのように感じる。

実は、長男の受験の直前、当時、保育園の年長だった次男が発熱。そう、よりによって・・・である。妻も僕も背筋に寒いものを感じたが、健気にも次男はトイレ以外は自分の部屋から一歩も出ず、食事も自分の部屋で食べてくれた。無事に長男の受験が終わった数日後、次男は「今だから言うけど、超つまんなかったw」と笑顔で告白してくれた。

「小学受験は親の受験。中学受験は家族の受験。大学受験は本人の受験」というらしいが、その言葉どおりの受験だった。

家族のことで言えばもうひとつ、長男と次男のお蔭で、洋楽派で尚且つ世事に疎い僕も、最近はJ-POPを聴く機会に恵まれている。「ONE OK ROCK」の「c.h.a.o.s.m.y.t.h.」と「SEKAI NO OWARI」の「RAIN」がお気に入り。若いということは、ただそれだけで素晴らしい。そう思うほどに、歳をとったということだ・・・。横浜スタジアムを満員にした彼らの将来が明るいものだといいね。

最後に少しだけ仕事の話をすると、今年はまる一年、とあるプロジェクトの実現のために、某大企業の方々とコツコツとMTGを重ねた。僕個人やドリームビジョンというクレジットと経済力では到底実現できないことを、その会社の方々とご一緒することで、世の中にインパクトを与えられる仕事ができるかもしれない。一年後、このブログで良い報告ができるようにしよう!

明日からは生まれ育った福島県郡山市の実家に帰省する。2015年末から再スタートしたスキーに、今年も子どもたちと行く。寒波のお蔭でコンディションは良さそうだ。

いいスタートを切りたいね! 皆さん、良いお年を!!