「テクノロジー思考」と「現代の教養」。

ご本人はご記憶に無いかもしれないが、僕が初めてリブライトパートナーズの蛯原さんにお会いしたのは2013年6月、Echelon というシンガポールでのカンファレンス会場だった。後で知ったことだが、当時の蛯原さんは、ご家族を東京に残したまま、単身、シンガポールに移住された頃だった。

彼は今、東南アジアに限らず、間違いなく、今後のテクノロジー産業をリードしていくであろう「インド」の「スタートアップ」エコシステムに関する日本の第一人者である。

「先見の明」があったと言うのは簡単だが、その頃は運営されているファンドの規模が今ほど大きかったわけではないだろうから、二重生活をされるのは、経済的にも決して簡単なことではなかったと思う。

当時は、日本のベンチャーキャピタルが挙ってシンガポールに拠点を設け、成長市場の東南アジアでの投資を始めた頃だったが、独立してVCファンドを営む蛯原さんが、何の後ろ盾もなく、ご自身の判断とリスクで、そのような決断をし、実際に行動に移されたというのは、誰にでもできることではない。

ご存じの方も多いと思うが、彼は、米中の覇権争いが今後の世界情勢にどのような影響をもたらすか?について、地政学リスクの分析とそれに基づくコンサルティングの世界的権威と言ってもいい、ユーラシア・グループ社長の「イアン・ブレマー氏」と対談ができるほどの「洞察力」を持っている人だ。

その彼が満を持して著したのが「テクノロジー思考」という本である。まだ手に取られていない方には、一読をお勧めする。

詳細は彼の著書をお読みいただくとして、僕にとって、なるほど・・・と思ったことをいくつかご紹介したい。

1点目。「イノベーションの取り組みにおいて、極めて多く見られる間違いがある。むしろ、殆どの人が間違えていると言ってよい。その過ちとは、あなたがいま買っているものはイノベーションであって、事業を買っているのでも、ましてや将来の収益を買っているのでもない、ということである。それを取り違えるという過ちを、買う本人が一番やってしまう。故に2年後の取締役会で『あの投資は我社の収益にまったく役に立っていないじゃないか』という不毛な議論が始まるのである」。

2点目。「イノベーションを実現するのに最も適した組織体はスタートアップである。逆に最も適さないのが大きく古い組織体である。なぜならば、新規の革新に取り組むということは、すなわち、既存の持ち物を捨てる、ないしは大きく変えることを意味するからであり、それには有形無形に大きなコストがかかるからである」。<中略>

「スタートアップ、ユニコーンブームが生じている第一の理由はイノベーション至上主義、第二の理由は過剰流動性と論じたが、ブームには当たり前だが必ず需要者がいる。上記の理由でイノベーションの最大需要者は大企業である」。

「オープンイノベーション」と称し、世界中で大企業がスタートアップとの連携を模索しているのは、そういうことだ。

上記に関する興味深いエピソードがある。

ある大企業において、経営戦略を立案する立場にいらっしゃる方が仰っていたのだが、その方が勤務されている会社の「事業構造」は、なんと「50年」に渡り、変更されていないそうだ。僕は「20年」だと記憶しており、その次にお会いした際に確認したところ、「いえ、50年です」と仰っていた。

50年に渡り「収益」を生み出す「事業構造」というのは、とてつもなく素晴らしい経営資源であるが、と同時に、それは「変化」に対する「強烈な抵抗(Friction)」となるのは言うまでもない。しかし、さすがに、イノベーション至上主義の時代にあり、その企業もオープンイノベーションを模索している。

問題は「カルチャー」である。特に「時間軸」が、スタートアップと大企業では、大きく異なる。スタートアップにとっては「時間が経つ=資金が燃える」ことを意味する。安定した収益基盤があり、財務的にも安定している大企業とは噛み合わない。

既存事業とのカニバリゼーション(抵抗力)が生じることは勿論、大きな障害だが、カルチャー(クロックスピード)が異なっては、事業(アプリケーション)は機能しない。

故に、大企業がスタートアップとオープンイノベーションを志向し、実現しようとするのであれば、僕がわざわざブログに書くまでもなく、社長直轄等の「別組織」が必要不可欠である。権限を移譲し、意思決定を速くする必要があるからだ。

ところで、日本人あるいは日本のビジネスマンの英語力の問題に関して、ライフネット生命保険の創業者で、現在は立命館大学アジア太平洋大学(APU)の学長を務められている出口治明さんが、何かのインタビュー記事で、一言一句は別として、こういう趣旨のことを仰っていた。

日本のビジネスマンの英語力を向上させることは難しくありません。経団連所属の企業が、管理職になるには、TOEICで「800点以上」の成績を持って来なさい。そうでなければ、管理職にはなれませんよ、と言えば、彼らの英語力はすぐに上達します。

問題は、経団連所属企業の経営トップの何割が、ビジネスで通じる英語が話せるかだろう。

僕の知り合いで、元楽天の幹部だった方がいる。三木谷さんが「英語公用語化」を表明し、実際に導入されてから2-3年後のある日、我々の投資先のスタッフが New York から東京に来ていた時、彼と一緒に、東京は二子玉川にある楽天本社に彼を訪ねたことがある。

彼は一言もと言っていいほど、英語は話せなかったはずだが、なんと、New York のスタッフと僕と3人で、何の支障もなく、英語で会話をした。

確かに、文部科学省の萩生田大臣の「身の丈」発言はいかがなものかとは思うが、中学、高校で「6年間」、大学の一般教養まで含めれば「8年間」も英語を勉強して、それでも「英語が話せない」というのは、「英語教育のカリキュラム」と「日本の社会構造」の問題以外の何物でもない。とんでもない時間の無駄である。

最後にもうひとつ。ドリームビジョンの投資先に、創業メンバーが全員「インド人」のスタートアップがある。シリコンバレーのスタートアップだ。そこのCEOが昨年10月に初来日した時の会話を紹介したい。

彼は僕に「東京でカントリーマネジャー(日本事業の責任者)を採用したら、年収はいくらぐらいと思えばいい?」と質問した。それに対して、僕が「1,200万円から1,500万円ぐらいかな」と答えると、「えっ?事業開発経験で10年選手。年齢は30代半ばぐらいの人材だよ?」と聞き返してきたので、「そうだ」と答えると、「なんでそんなに(年収が)安いんだ?」と聞き返された。

もうローカルルールでやっていける時代は終わっている。「テクノロジー思考」。日本再生のための必読書である。

「目的」と「手段」。

8月最後の金曜日は、仕事を通じて知り合い、今年で15年になる友人2人と、久しぶりに食事をした。

ひとりは男性、ひとりは女性。

男性の方は同い年で、尚且つ、お互いの長男も同い年。彼のプロジェクトで米国企業にプレゼンに行ったのが1998年3月9日、その2年後の2000年3月9日にインタースコープを創業しており、何かの縁を感じている。

その彼が最近、日本の大企業を辞めて、多国籍企業の日本法人の社長に就任した。

そんなこともあり、久しぶりに会おうという話になり、3人で食事をした。

彼は、中学時代を海外で過ごしたこともあり、英語が堪能(TOEIC:985点!)で、今までに駐在した国は7カ国と聞いているが、新しい職場には、その彼よりも英語が上手な日本人がたくさんいるという。

しかし、日本側の考え方や日本市場の構造を本社側に理解してもらうことは、「新参者」の彼の方が上手らしい。

つまり、西洋人の思考パターンやロジカルパスに対する理解力が、今までの海外駐在経験を通じて養われたということであり、それが彼の「最大の強み」ということだ(本人も、改めてそう思ったと言っていた)。

ところで、僕は中学で初めて英語に接して以来、英語がとても好きになり、いつかは海外(英語圏)に住んでみたいと思い、大学も「英文科」に進みたいと思っていたが、父親に「目的と手段」を履き違えるな!と言われ、法学部か経済学部でないと学費は出さない!と一喝されたことがある。

父親が言いたかったことは、英文学者や通訳になるのならいいが、そうでないのなら英語は「手段」であり目的ではない、ということだったのだが、当時の僕は、実社会のことは何も分からず、英語以外で興味のあることはバンドぐらいだった。それで仕方なく、しぶしぶ、法学部や経済学部に「近い」学部を探したことを思い出す。

僕の友人の例は、まさしく、父親の言っていたことのように思う。

また、彼は、流通や金融の立場からではあるが「製造業」を見てきており、コンサルティングファームや広告代理店を経て起業し、その後は、ネットビジネスの世界しか知らない僕にとって、大企業や製造業の世界を垣間見ることができる、それも「経営者」の立場から解説してくれる、貴重な存在である。

その彼が「日本の製造業」の「空洞化」に対して、この間まで「240円」だった為替レートが「80円(1/3)!」になっても、まだ、こうして踏ん張っている日本の製造業は「世界的にみてピカイチ!」だと言っていたことは、とても印象的だった。

また、日本は「エンジニア」に対する評価が低い(かった)という僕の主張に対しては、「日本は『経営者』に対する評価も低いよね。現場が優秀だから、部長の延長線上でいいと思っている。日本社会は、リーダーを必要としない」というコメントを返してきた。

「コンセンサス」型の社会・組織構造を善しとしてきた日本社会だが、明治維新や戦後日本の復興を考えると、この難局を乗り越えるには、リーダーが必要だと思う。

稲盛さんのリーダーシップにより、あの「JAL」が復活したことが、それを物語っている。

さて、今日のエントリーのタイトルである「目的と手段」に話を戻すと、父は生前、ゴルフをするために生きているのではなく、生きるためにゴルフをしている、と言っていた。

因みに、ガウス生活心理研究所の油谷さんという方が、彼らの調査研究結果をもとに、50歳までは「健康」=「働くための手段」と考える人が多いのに対して、50歳を越えると「健康でいることが『目的』」に変わるという話をされていた。

僕自身のことでいうと、まだ20代の頃、あるアメリカ人の友人が「There are two kinds. One is “Live to work”, the other one is “Work to live”.」と言った後に、「Ikuo, you are ” Live to work “」と言われたことがあるが、50歳という年齢を意識するようになってからか、子供ができてからか、僕の人生において「大切なこと」が変わってきたのは事実である。

一般的にそうなのかどうかは分からないが、15歳の時に母親、24歳の時に父親を亡くしたことが影響しているのか、僕は子供ができてから、彼らが「成人」するまで「健康」でいたいと強く思うようになった。

10代の頃、僕は父に反発してばかりいたが、その父から学んだことは数知れないし、母がいつも僕に言ってくれていたこともよく憶えている。

長男が20歳の時、僕は「62歳」。次男が20歳になると、僕は「68歳」。

彼等の記憶に残る「生き方」をしたいと思う。

そのためにも「健康」でいないとね。

というと、健康でいることは目的ではなく、手段になってしまうけど…。

@長男のヒップホップのスタジオ

「変化する者」が「生き残る」。

6月1日。今日からサマータイムを導入した企業や、夏の間、週休3日制とした企業もあるらしい。

原因はともかく、日本社会が変わり始めたのは事実のようだ。

ところで、今朝は、5/20(金)にスタートした「Innovation Weekend」の第2回目以降の打ち合わせで、渋谷にあるベンチャーナウのオフィスを訪問した。

6月は「24(金)」で決定。7月は「22(金)」を予定している。

何事も始めるのは容易いが、続けるのは容易ではない。

毎回のクオリティを担保しつつ、プレゼンターにも来場者にも、そして、エンジェル投資活動を行う方々にも満足していただけるよう、骨身を惜しまず、コツコツと努力を続けたい。

話は変わるが、今日の夜は、朝日オリコミという「新聞オリコミ広告(チラシ)」会社の鍋島さんという方と、僕にとっては守備範囲外の「門前仲町」にある「ラーメン屋」に出掛けた。

「よってこ屋」なるラーメン屋に寄るたびに僕が foursquare でチェックインをするのを見て、僕は相当なラーメン好きだと思ったらしく(僕が行くラーメン屋は、よってこ屋だけなのだがw)、鍋島さんの守備範囲の門前仲町にある老舗のラーメン屋にお誘いいただいたという次第。

オリコミ広告というと、典型的なアナログメディアであり、事実として、市場は縮小傾向にあるが、実は、そこにもイノベーションの種がある。

「変化する者」が「生き残る」。至言である。

今日は48歳の誕生日。4度目の年男。

今日は48歳の誕生日。4度目の年男。

期せずして、忘れられない年(歳)になった。

35歳になった時、「20歳から35歳までの時間がもう一度くると、僕は50歳になる・・・」と気がつき、「人生は短い」と思うようになった。

あれから13年。長かったか短かったかは別として、起伏に富んだ13年だったのは間違いなく、且つ、とても「充実」した時間だった。

40代の最後の2年間を大切に過ごそうと思う。

ところで、昨日の親善試合で「カズ」がゴールを決めた!!

凄いのひと言だ。フランスWCに行けなかったのは残念だが、それを補って余りある値千金のゴールである。

因みに、僕は30代の頃、アイルトン・セナ、伊達公子、そしてカズが「3大ヒーロー(ヒーローという単語は女性にも使えるらしい)」だった。

生まれてきた我が子の顔をみて「コーナーを攻める人生じゃなさそうだな・・・」と思い翻意したが、子供に「セナ」という名前をつけようと本気で考えていたほど好きだったし、30代後半で現役復帰し、今も世界レベルで戦っている伊達公子にはとても勇気づけられている。

そして、カズは「東北」に「エール」を贈ってくれた。賞賛しても賞賛しきれない。

一方、原発の問題は日に日に深刻さを増している。

ついに、自殺者まで出してしまった。言葉が見つからない。

「おち」さんがご自身のブログで警鐘を鳴らしていたように、中途半端な知識で原発問題に関する制度的、技術的コメントは控えるが、福島県出身の僕でさえ、こういう事態になるまで、出身県に原発があることさえ忘れており、しかし、福島原発で発電された電力で何一つ不自由のない快適な生活を送っていたのは紛れも無い事実であり、その意味をよくよく考える必要がある。

火力発電に頼ることは化石燃料に頼ることとイコールとなりCO2排出の問題があるし、合理的に考えれば経済問題ということになるかもしれないが、もはや、そのような次元では済まないだろう。

ところで、3月27日の朝日新聞の「天声人語」に、考えさせられるエピソードが紹介されていた。

僕を含めた「すべての日本人」が「試されている」のだと思う。

「成長」とは何か?

今日で11月も終わり。今年も残すところ、あと1ヶ月となった。

ところで、つい先日、僕たち家族にちょっと嬉しい出来事があった。

渋谷区が主催する読書感想文ならぬ「読書感想『絵』」のコンクールで、僕たちの子供が「銀賞」を受賞した。

「銀賞」と言っても、ひとりだけでなく、何人かに与えられるものだが、それでも受賞は嬉しいニュースだった。

この「読書感想『絵』」のコンクールは、未就学児(幼稚園・保育園)と小学生の各学年(中学生があったかは、よく憶えていない)に分かれていたが、印象的だったのは、「技術的」な問題はさておき、「絵」そのものの持つ「存在感」や「キャラクター」は、小学生の高学年よりも、むしろ、未就学児の作品の方が優れているように思えたこと。

「絵本」を読んで感じたことを「絵」にするわけだが、既成概念や技術に関する知識がない分、感じたことを感じたまま、自分が描ける描き方で表現しており、そこに戸惑いや躊躇がなく、絵に「生命力」があるというか、その子の「個性」が表現されていた。

僕が未就学児の子供を持つ父親というバイアスがあるのかもしれないが、小学生の高学年になると、技術的には優れていても、「生命力(エネルギー)」が感じられないものが多かった気がする。

「成長」とは何か?を考えさせられた。

「素数」と「リーマン予想」。

今週は、法政大学イノベーション・マネジメント研究科のプロジェクト(一般的なビジネススクールでいう修士論文に相当)中間発表ウィーク。

院生の方々の発表を聴き、評価をしなければいけない。

ビジネスプランの審査員等で評価の仕事はかなり経験しているが、いつもとても悩ましい仕事である。

明日も院生の方の発表がある。

ところで昨夜(テクニカルには今日の午前零時半~2時過ぎ)、NHKで「魔性の難問~リーマン予想・天才たちの闘い~」なる「数学」に関する番組(再放送)を見た。

算数は得意(成績は5だった)だったが、中学になって「数学」になると、とたんに苦手になり、高校の時はいつも「赤点」だった。

そんな僕が何故、数学に関する番組を見たのか?

実はワインを飲んでソファーで眠ってしまったのだが、目が覚めると、その番組が放送されていた。

簡単に言うと「素数」~僕は、この言葉さえ忘れていた~に関する謎を解くために悪戦苦闘をしてきた天才数学者たちの挑戦と挫折を綴ったものだ。

中には、命を落とした数学者もいたらしいが、彼らが挑んだのは「リーマン予想」というものを解き明かすことだった。

「素数」とは、1とその数以外のどの整数でも割り切れない数のことで、その出現には何の法則性もないように見えるらしいが、ドイツの数学者「ベルンハルト・リーマン」が、「素数」を使ったある関数(ゼータ関数)の零点の分布が直線になっていることを発見し、一見すると何の法則性もないように見える「素数」に、実は何らかの法則性があるのではないか?という予想(仮説)を発表し、数学界に衝撃をもたらしたという。

今日までに何人もの天才数学者が、その予想(仮説)を証明しようと挑んできたが、未だにだれひとりとして、リーマン予想を証明した数学者はいないそうである。

また、僕にはきちんと説明ができないが、リーマン予想(ゼータ関数の零点は直線に分布する)と「量子力」には相通ずるところがあるらしく、素数の謎を解き明かすことは、宇宙の謎を解き明かすことに繋がるのではないか?と言われているという。

そんな天才数学者の軌跡や挑戦と挫折を初めて知り、改めて思ったことは、僕がやっていることは、文字通り、宇宙の断片に過ぎず、何をしようと多寡が知れている、ということだ。

そう、人類の歴史から見れば、微細なことであり、誤差にもならない。

そう考えると、とどのつまり、何をやってもいいということであり、結局は自分の好きに生きればいい。

自分に期待しすぎて重たくなり、何もできなくなるよりも、自分が好きなこと、その中でできることをしていくことが、幸せな人生を送る秘訣ということだ。

下手な自意識なんて、捨ててしまおう・・・。

追伸:自分が「好き」で尚かつ「できる」こと、それも趣味ではなく「仕事(ビジネス)」として。凡人にとって、これは難問である。

「卓越性の追求」。

今日から11月。恵比寿界隈の広葉樹が、赤や黄色に紅葉している。

でも、僕が子供の頃と較べると、季節が進むのが1ヶ月ぐらい遅くなっているように思う。

ところで、先日のエントリーでもドラッガーの話を書いたが、今朝、Twitterで流れていた「ドラッガーBOT」に「卓越性の追求」に関するものがあった。

「自らの成長のために最も優先すべきは卓越性の追求である。そこから充実と自信が生まれる。能力は、仕事の質を変えるだけでなく人間そのものを変えるがゆえに、重大な意味をもつ。能力なくしては、優れた仕事はありえず、人としての成長もありえない」。

仰るとおりである。

特に「能力は、仕事の質を変えるだけでなく『人間そのものを変える』がゆえに、重大な意味をもつ」というくだりは、大きな意味を持つ。

では、どのような能力において「卓越性」を追求するべきなのだろうか?

そう、それは人によって異なる。

つまり、何を達成したいか?要するに何が「目的」か?によって、卓越すべき能力や領域が異なる。至極、当たり前のことだ。

民主化された国であれば、人生において何をするか?どんな人生を送るか?は「個人の自由」である。

「ミンツバーグ」を読みながら、そんなことを考えた。

追伸:自分の中で色々な変化があり、10月はアメブロでブログを書き始めて以来、最も更新数が少なかった。今月は、どうなるだろうか?まずは、初日の今日は更新をした。