流浪の月。

窓の外から日本語が聞こえた気がして、カーテンを開けてみた。

すると、バックパックを背負った若い日本人女性が友人と話しながら歩いていた。パリの方がベルリンよりも日本人が多いんだろう。住んでいる人も訪問者も。統計を見れば明らかだが、実際、通りを歩いていても、パリの街では日本人を見掛ける。

当たり前だが、異国の地にいれば、僕は異邦人だ。どことなく、心許ない気持ちになる。僕の場合、出張で尚且つ一人で来ることが多いこともあり、余計にそういう心境になるのかもしれない。

ところで、久しぶりに飛行機の中で映画を見た。コロナ前は2ヶ月に一回は海外出張をしており、映画は殆ど飛行機の中で観ていたが、ここ2年半はどこにも行けずにいた。

今年6月、Infarm の幹部会議でアムステルダムに行き、8月は武蔵野大学アントレプレナーシップ学部の学生29人を連れて3年ぶりにシリコンバレーに行った。訪問前、人生が変わるよ!という僕の言葉に半信半疑だった彼らは、初日から、僕の言葉の意味を理解した。

今回のヨーロッパ出張はアムステルダムでのInfarm幹部会議、ベルリンではAsiaBerlin Summit 25周年記念イベントでの講演、そして、西村経済産業大臣のInfarm Growing Center 視察のアテンドと、盛りだくさんだった。

オマケに、フランス管制官のストライキにより、パリ経由の帰国便が欠航になり、予定外の一泊二日のパリ滞在を楽しんだ。

帰りの機中で見た映画は「流浪の月」という日本映画。普段は英語の勉強を兼ねて、洋画一辺倒なのだが、観たい映画がなく、消去法だった。

その「消去法」で観た「流浪の月」という映画に、今までに感じたことのない、形容できない感情を覚えた。

ネタバレで申し訳ないが、父親は病で早逝し、母親は恋人と新しい生活を始め、少女は叔母の家に引き取られる。そこでは、中2の従兄弟に性的虐待に合う。雨の公園でベンチに座ったまま本を開いて帰ろうとしない少女に傘を差し出した大学生に、少女は「家に帰りたくない」という。

世間では「誘拐事件」として報道され、2ヶ月間に及ぶ共同生活の後、通行人に警察に通報され、彼はロリコンの誘拐犯、少女は被害者となる。

人間は常識という名の偏見のもと、社会のマジョリティに適合できない人たちを差別してしまう。男か女か、白人か黒人か黄色人種か、既存の分かりやすい基準で人々をラベリングする。たしかに、その方が楽だろう。

そういう僕の中にも差別の念がある。国家間のイデオロギーに根付くものや歴史的経緯、また、価値観の相違によるものもある。その根底にあるのは、自己防衛本能だろう。何故なら、誰しも、社会の例外として孤立したくないから。

でも、この「流浪の月」という映画は、そのような「安全地帯」に住んでいる自分に対して、大きな疑問を投げ掛け、それまでに感じたことのない感情をもたらした。

話は変わるが「止まらぬ円安。縮む日本」。今朝の日経新聞の一面には、とても落胆した。そんなことは、10年前から分かっていた。遅いんだよ、警鐘を鳴らすのが!

競争力を失った産業を温存。新陳代謝を忌避し、リスクは先送り。

「賞味期限切れ」になった産業に終身雇用という美辞麗句で従業員を縛り付け(縛り付けられた人たちも、そのマヤカシを幸せと勘違いしていたんだろうけど)、新しいスキルを身につける機会を奪い、挙句の果てには「希望退職」という形で放り出す。当然、今の、そして、これからの世の中で必要とされる筈がない。

何が優しくて、何が厳しいのか? 表面だけを見ては、判断を間違える。

リフレ派政策で量的緩和を行い、円安誘導し、輸出型の製造業は「為替」による利益を上げ、株高や不動産価格は上昇したものの、ファンダメンタルズ(産業構造)は何も変わっていない。

欧米諸国は量的緩和の出口を探り、金利を上げ、安全資産と言われた「円」との金利差が生まれた。そこに偶然にもウクライナ危機が発生し、原油価格を始めとする様々な資源高が追い打ちを掛け、あっという間に、1ドル=140台後半に突入した。

資源が無い日本にとって、購買力が強い「円高」の方がいい。議論の余地はない。

1980年代、1990年代は、海外のホテルに泊まると部屋にあるテレビは日本製だったが、2000年以降、サムソン、LGといった韓国製に取って代わられた。

日本は「安い国」「二流国」に成り下がった。

facebookで、日本は「何かあったらどうする」病と揶揄する人を見掛けたが、言い得て妙である。ゴルフで言えば、バーディを取りに行くのではなく、ボギーを叩かないようにプレーする。

一方、シリコンバレーでは、失敗をしていないことはイコール、新しいことに挑戦していないと見なされる。

映画の話と日経の記事は脈絡の無い話に思われるかもしれないが、既存の枠組みに拘泥してはいけない、ということだ。大昔は地球は回っていないことになっていた。

学生たちと一緒に行った3年ぶりのシリコンバレー、そして、今回のヨーロッパ出張を通じて、これからの人生を考えた。

そして、伊藤羊一さんを見習って、年齢は忘れることにした。

あの日。

人生は短いよ。人生100年時代とか言うけど。若い日々は、あっと言う間に通り過ぎる。

子供の頃にお世話になった叔父さんや叔母さんたちが旅立ってしまう年齢になったせいか、子供の頃や自分が若かった頃のことを思い出す。

父は珍しく、急いでいた。制限速度を超えているのは、小学生の僕にも分かった。長い坂道を父のクルマで病院に向かっていた。小学校4年生か5年生の頃だったと思う。あれが人生で初めての入院だった。

地元の総合病院で働いていた父は、とても仕事が忙しかったようで、一緒に遊んでもらった記憶は無い。時々、どこどこに連れて行くという約束をしては、いつも前日になって、仕事が入ってしまい、連れていけなくなった・・・と言っていた。母は、子どもたちを遊びに連れて行ってあげたいという気持ちは分かるけと、行けなくなるとガッカリさせるだけなので、本当に行けることが確実になるまで、何も約束しない方がいいでしょう、と父に言ってた。

コロナ禍の中、息を引き取った叔父は、僕が高校生の時、大雪が降った日、バンドの練習で楽器を運ぶためにクルマを出してくれた。僕の父親(彼にとっては義理の兄)に対する手前もあっただろうけど、本当に他人に優しい、素晴らしい人だった。残念ながら、告別式には参列できなかった。

思い出せば、長男は幼少の頃から気難しく、神経質だった。数学が得意で、Garage Band で作曲を始めた彼の姿を見て、一昨年のクリスマスに、僕は彼にMacBook を買ってあげた。妻に似て、金銭感覚がシビアで、最初は「どうして、そんな高額なものを買ってきてしまったんだ・・・」と涙を流しそうにしていたが、音楽ユニットを結成し、今ではFinal Cut Pro等を使いこなし、昨年の夏には、FMラジオにも出演した。

この両親からどうしてこういう天真爛漫な人間が生まれて来たのか?と思うほど、次男は底抜けに明るく、社交性に優れており、誰とでもすぐに友達になれる。アフタースクールのキャンプでバスに乗る時も、隣が知らない子だろうがまったく気にせず、帰って来る頃には仲良しになっている。長男のような理系の脳ではないと思うが、兄の様子を見様見真似で、Garage Band で作曲をしたりしている。週末は、友達の家に行ったり、彼らを我が家に呼んだりと、学年の違う子どもたちとも楽しく遊んでいる。

彼らがいなかったら、去年の紅白をみるまで、きっとヨアソビは知らなかったし、ヨルシカもね。

田坂広志さんがご自身のブログか何かで若さの貴重さに気づくのは、残念ながら、若さを失った時だということを仰っていた。その時は、理屈としては理解していたが、今になって、哀しいほど、その意味を実感する。

そりゃいろいろあるけど、生きていることは、それだけで素晴らしい。そう思える人生を送れていることに、感謝しかない。

人生は短いね。

10年後の自分。

それほど期待していたわけではないけど、急遽決めた一泊二日の「箱根」旅行は楽しかった。

貸別荘なら食事も部屋で食べるし、他のお客さんと一緒になることもないし、この時期でも大丈夫だろうしね。

ここ数週間、色々と書きたいことはあったけど、年明け1月の紀ノ国屋とサミットでのInfarm ローンチの準備で忙殺されており、ブログを書くことよりも優先すべき仕事がたくさんあった。

彫刻の森美術館で見たピカソは圧巻だった。僕は巨匠の絵を理解できるような才能は持ち合わせていないが、それでも、ゲルニカを思わせる絵のタペストリーの前に立った時は、その作品のエネルギーに圧倒された。

「絵は前もって考えつくされ、決定されるものではない、むしろ描かれていく間、たえず心の変動に従う。絵は作者の欲求がそこに表そうとしたことよりも、ずっと多くのことを表現する。作者はしばしば自分で予期しなかった結果に驚かされる。線が対象を生まれさせ、色がフォルムを暗示し、フォルムが主題を決定する」。

年が明け、3月の誕生日が来ると、僕は58歳になる。還暦カウントダウンだ。

35歳になった時、20歳からそれまで生きてきた時間と同じ時間が訪れると、僕は50歳になるという現実に気づいた時、後頭部をハンマーで殴られたような衝撃を受けたが、その50歳はとうの昔に通り過ぎ、あと2年3ヶ月で60歳だ。

ここ数年、大学生や20代の若者たちを見ると、何とも言えない哀愁というか、認めざるを得ない衰えに、切ない気持ちになっていたが、ピカソの絵を見て、元気が出た!

ピカソ風に言えば、その時々の自分が選んできたことが「自分が予期しなかった結果」をもたらし、新たな「選択肢」を生まれさせ、行動が役割りを暗示し、役割りが人生の主題(目的)を決定する。

肉体は58歳になっても、精神的には、28歳の頃とあまり変わらない気もする。

柔道のワンマッチは、たくさんの方が見たと思う。僕は別に柔道のファンというわけではないけど、たまたま、その数日前だったかに「丸山城志郎」選手の特集番組を見て、66kg級は、たいへんなことになっていることを知った。

その日のニュース番組では、勝負に勝った阿部一二三選手を称える報道だけだった。そりゃ勝者がいれば、敗者がいるわけで、勝者を称えるだけでいいのか? どちらが勝っても金メダルと言われていたわけで・・・。

たしかに、阿部一二三選手の方が妹さんも一緒にオリンピック代表に選出されるなど、メディアにとっては、これ以上ないストーリーかもしれないけど、僕は丸山選手の今後の方が興味がある。

地元の進学校を受験するも落ちて、二次募集で入った高校を中退し、翌年、リベンジしたまでは良かったけど、落ちこぼれとなり、三流大学にしか行けず。興味があるのは英語と西洋文化しかなく、でも、留学をさせてもらえるわけもなく、生活していくために仕方なく入った会社は一年3ヶ月で退職。28歳で起業するも鳴かず飛ばずの日々が9年。そんな僕を見かねたのか、神様が拾ってくれて、何とかネットバブルの最終列車に飛び乗った。

外野が軽々しく言っていいことじゃないと思うけど、丸山選手には是非、リベンジして欲しいと思う。

リベンジと言えば、ビートレンドの上場は嬉しかった。僕はドリームビジョンを通じて、ほんの少しばかり、ビートレンドに投資させてもらっているけど、株主という意味だけじゃなく、ビットバレーと言われたネットバブルの狂乱を共に生き、その後、幾多の試練を乗り越え、苦節20年が実って、12月17日にめでたく上場。まだまだ人間が出来ていない僕は、他人の成功を嫉妬もするが、ビートレンドの上場というか、井上さんの苦労が報われたことは、自分のことのように嬉しかった。

ところで、10年後の自分は68歳。どうしているんだろうね? 日本にいるんだろうか?

僕がしてきた苦労なんて苦労のうちに入らなけど、辛いことがあっても、生きていることは素晴らしいし、そう思える日々を送れていることは幸せなことだ。

皆さん、良いお年をお迎え下さい!

無題。

前回の投稿から2ヶ月以上が過ぎた・・・。その間、世の中も僕にも、様々な出来事があった。首相も変わった。

僕がこうしてブログに書くことで何かが変わるわけでもないし、その存在が元に戻るわけでもないけど、自分自身の気持ちを整理するために、このブログを書いている。

とある理由で、彼女には何度かお会いしたことがある。正確に言えば、言葉を交わしたわけではないが、同じ目的で、同じ空間に居合わせたことが何度かあった。

彼女は、テレビや映画で見るよりも、とても華奢で繊細でクールな感じがした。スクリーン越しに見るよりも、とてもキレイで、そして「孤高」な雰囲気があった。

二人の分身を残してまで、なぜ、そうせざるを得なかったのか? ご本人にしか分からないだろう。残された方のことを思うと、言葉が無い。

僕の人生は、57年と半年が過ぎた。体力の衰えを痛感するが、取り組んでいる仕事はおもしろい。そりゃ、ここには書けないトラブルやクリティカルな問題もある。でも、周囲の方々の協力のお陰で、きっと乗り越えていけるだろう。

傷心の日々を送っていた頃に読んでいたドラッカーの著作には「人間は1年で出来ることを過大評価し、5年あれば出来ることを過小評価する」と書いてある。事実、5年前の僕には、今の自分が取り組んでいることなど、想像すらできなかった。

また、百年コンサルティングの鈴木貴博氏は、今起きていることの萌芽や原因は、5年前には出現している、と述べている。つまり、今の自分が取り組んでいることの本質を見極めることができれば、5年後の自分の姿を想像することができるし、それに向けて、布石を打って行くこともできるということだ。

彼女のことだけを書いてこのエントリーを終わらせるのでは心が落ち着かず、自分のことを考えた。

両親からもらった命をどのように実らせるか? 改めて考えたい。

まだまだ人生は続く。

昭和の日々。Good-by our lovely house。

僕が初めて東京の地を踏んだのは、ヨーロッパ出張から帰国する父を迎えに羽田空港に行った時だった。朧気ながら羽田空港に行ったことは憶えているが、この写真を撮ったことは記憶にない。小学校4年生の頃だったと思うので、50年近く前になる。

当時の写真としては、かなり解像度が高く、構図も様になっている。父が愛用していたNikonの一眼レフで撮ってくれたのだろう。写真は父の趣味だった。カバー写真の手前にいるのが、2つ違いの次男。色違いでお揃いのポロシャツを着ており、上京するに際して、きっと母親が新調してくれたのだろう。そう言えば、いつも弟は紺色(濃い色)で、僕は淡い色だった気がする。

上の写真で母に抱かれているのが三男。まだ、幼稚園に行く前。左端が僕。右端が次男だ。

実は、このエントリーは、福島県郡山市にある実家に「最後のお別れ」に行く新幹線の中で書いている。

もうひとつの「19(COVID-19)」による世界的混乱で、もう話題に上ることさえなくなってしまったが、昨年の「台風19号」は、日本全国に大きな爪痕を残した。僕たち3人兄弟が暮らした実家もその例外ではない。水没してしまい、修繕して住み続けるには、保険で降りた金額の約2倍の費用が掛かることが分かり、兄弟3人で熟慮した結果、今の母が住み続けるのは無理だと判断した。

その家は、僕が中学1年生の秋、産みの両親が建てた家だ。150坪の敷地に、建坪46坪の家は、田舎とはいえ、大きな家だ。父の自慢だった庭は、四季折々の花が咲き、家族全員にとって、思い出がいっぱい詰まっている。この先、帰省しても、あの家に寝泊まりすることはないかと思うと、哀しみが込み上げて来ないと言ったら、嘘になる。

でも、人生は常に前に進んでいくしかない。そして、こうして感傷に浸っていられる僕たちは、この上なく幸せだ。そんな感慨も何もなく、未だに避難所での生活を余儀なくされている方々もいらっしゃるわけで、幸運に感謝しなければバチがあたる。

ところで、最近、若い人たちを見ると、無条件に羨ましくなる。特に若い女性の美しさには、心を奪われる。失ってしまったもの、二度と戻らない、あの頃の日々がいかに輝いていて、いかに Priceless な価値があったか。違う生き方や、もっとやれたことがあったんじゃないか? なんて未熟だったんだ・・・と思うこともあるが、スガシカオの歌(Progress)のように、その時その時、自分に出来る最善の選択と意思決定をしてきた結果が今の自分なわけで、それを受け入れようと思う。

実家の仏壇を廃棄するにあたりお坊さんにお経を唱えてもらい、その後、墓参りに行った後、小さな弁護士事務所を経営する次男の事務所で、水没した実家から引き上げてきた「家族のアルバム」を見ている。そこには、昭和の高度経済成長と共に、紛れもなく、Priceless な幸せな時間が綴られている。

時代は昭和から平成を通り過ぎ、令和になった。僕が子供の頃、2つ前の「明治」は、祖父母の時代だった。言ってみれば、令和になって生まれた子供たちにとっては、僕はそういう世代の人になるのだろう。

でも、人生まだまだやれることはたくさんあるし、やりたいことは山ほどある。

Infarmの仕事は、僕の人生を大きく変えそうな気がするし、武蔵野大学アントレプレナーシップ学部の創設は、ドリームビジョンでは実現できなかった「終わっていない宿題」を実現できる、またとないチャンスだ。

感謝しかない。

持って生まれた才能や能力には個人差があるとしても、時間だけは平等に与えられている。月並みだが、残された時間を大切にしたい。

人生は短い。人生はすべて必然。人生には勇気と自信が必要だ。

以下は、家族の写真。

今の実家ではなく、その前に住んでいた家での写真。僕(左)も次男も、まだ未就学児。
自転車を買ってもらい、喜ぶ僕と次男。
上の写真と同じ頃に撮った写真だと思う。
兄弟3人の写真。僕は小1か小2。後ろの洗濯物はオシメじゃないかと思う。昭和感が満載で恥ずかしいが載せておこう。
真ん中にいるのが父方の祖父。右端が父。
母方の叔父叔母、従兄弟、従姉妹たちとの旅行。磐梯山辺りだと思う。僕は写っていない。
僕(左)は小学校5年生ぐらいだろうか。裏磐梯のある場所。滝が見える橋の上。父が撮ってくれた写真だと思う。
僕は中学生になっている。母はこの3年後、45歳で他界した。

話は変わるが、僕がサンブリッジグローバルベンチャーズという会社を経営していた頃、当時、ベンチャーナウという、スタートアップに特化したオンラインメディアを運営していた竹内泰史さんという方がいる。彼とは、Innovation Weekend というピッチイベントを立ち上げたのだが、日本からスタートアップを数社、シリコンバレーに連れていき、現地の起業家と一緒にInnovation Weekend のワークショップを行ったことがある。

竹内さんにとっては、その時が「初海外」で、なんとパスポートも持っていなかった。その竹内さんは、初海外=初シリコンバレーに魅せられて、その後、僕が知らないうちに、安チケットを買っては、足繁く、シリコンバレーに通うようになった。そして、その数年後、なんと家族でシリコンバレーに移住してしまったのだ。英語も話せないくせにw!

そんな意思決定をする竹内さんが凄い人なのは勿論だが、竹内さんの無謀な提案に、二つ返事でOKしたというから、奥さんのひとみさんは、もっと凄い人だw。

実は、そのひとみさんから、幼少期の写真をfacebookに載せる、何とかチャレンジとかいうのを振られていた。どうにも抵抗感があり、躊躇していたのだが、良い機会だと思って、このエントリーを書いた次第。

ひとみさん、これで宿題は提出しましたよねw?

Progress Part-2. 同調圧力ノムコウ。

それが英語だったからなのか、それとも他の言語でも同じ結果になったのかは分からない。僕は中学1年生で初めて「英語の授業」を受けた時、「世の中に、こんなにおもしろいものがあったのか!」という衝撃を受けた。今までの人生で、あの時の衝撃というか感動を超える出来事には出会ったことがない。

強いて言えば、大学生の頃、初めてNew York を訪問した時のことは今も鮮明に憶えている。地下鉄の車両に乗っているのが、白人だけでも、黒人だけでも、もちろん、東洋人だけのわけはなく、とにかく人種の坩堝だったことに衝撃を受けた。

インフィニティ国際学院の第一期生、長野県出身の「フランシス聖(以下、フランシス)」は、カナダ人の父親と日本人の母親を持つ、日本でいうところの「ハーフ」だ。でも、海外の僕の知り合いは、そういう彼・彼女たちを「ダブル」と呼んだりする。

フランシスは日本の公立小学校に通っていたが、型に嵌められる教育カリキュラムに馴染めず、私立に転校する。理解のある先生に恵まれ、一時はモチベーションが高まるものの、担任の先生が変わり、不登校になる。そして、父親と一緒にカナダに移住する。

小学校を卒業し、入学した中学校は、すべての授業が「フランス語」で行われる学校だった。きっとケベック州等、東海岸の学校だったのだろう。最初はまったく授業についていけなかったが、徐々にフランス語を習得。様々な国籍や移民の子どもたちがいるその学校は、まさに日本とは「別世界」で、学校生活は楽しくて仕方がなかったそうだ。でも、ある時、とても仲が良かった友人が家族の都合でカナダを離れ、ヨルダンに帰ることになる。号泣した彼女だったが、それがきっかけでフランスに3ヶ月、留学。カナダとは違った世界を知る。そして、日本に帰国した。

僕が中学生の時、交換留学制度の説明があった。僕は是非、行ってみたいと思ったが、当時の担任の先生は「高校生や大学生になってからでも遅くない。中学で行くのは止めた方がいい」と言った。交換留学制度があることを説明しておきながら、矛盾した話だ。あの時、交換留学に行っていたら、どう変わったかは別として、僕の人生は大きく変わっていたことは間違いない。

英語という言語に触れて以来、僕はバイリンガルになることが夢であり目標だった。留学をしたり、海外で仕事をしたいと思っていた。その夢は未だに実現できていない。

でも、一度も海外に住んだことはないけど、海外で英語で講演をしたり、パネルディスカッションに呼ばれるようになった。こう見えて?、結構、努力している。

そんなこともあり、僕は、フランシスのように、生まれながらにして「自分の中」に「異文化」を持つ人に対する憧れがある。

話は変わるが、洋楽一辺倒だった僕は、子供たちの影響で邦楽を聴くようになるまで、殆ど、J-POPは聴かなかった。そんなこともあり、SMAPが歌った「夜空ノムコウ」は、スガシカオが歌詞を書いたことさえ知らなかった。

実際に聴いてみると、才能溢れる、たくさんのアーティストがいて、僕は邦楽が好きになった。もっと言うと「日本語の歌詞」が・・・。

英語の歌詞にも心の琴線に触れるものがあるけど、ネイティブスピーカーじゃない僕には、当たり前だけど、僕が日本語の歌詞を感じるようには、悔しいけど、理解できない。

でも、フランシスのような子には、分かるんだろうな…。

僕が見ているこの景色は、彼女にはどんなふうに見えるのだろう? 彼女のような人にしか見えない何かがあるはずだ。相手を型に嵌めることしか出来ないつまらない大人には、想像さえできないようなね。

そんな努力しても手に入らないものを開花させてあげないなんて、どうかしてる。それは嫉妬? それとも、同じもの以外は認められない単一民族の性なのか。

フラン、夜空ノムコウには明日が待っているよ! 大丈夫、頑張れ!!

追伸:東京芸大出身の「川村結花」が書いた曲に、ある音楽愛好家が「現代最高の吟遊詩人」と評した「スガシカオ」が詩を書き、キムタクがリードボーカルでSMAPが歌う。嫉妬を超えて、憧れるよw。神様はズルいね!

人生は短いんだ。好きなことをやれ。

僕たち兄弟は早くに産みの母を亡くした。享年45歳。「肺がん」だった。僕が15歳、次男が14歳、三男が9歳の時である。

僕と次男は産みの母のことをよく憶えているが、三男は朧気な記憶しかないそうだ。最初は父の再婚に頑なに反対していた三男だったが、担任の先生との面談の後、納得して帰ってきた。我が弟ながら、健気な奴だと思った。

僕は中学生の頃、夕食が終わった後も食堂(居間とは別の部屋だった)に残り、後片付けをしている母親とよく話し込んでいた。何の話をしていたかは記憶に無い。クラシカルというか、浮かれたことが嫌いだった母は、下世話な話はしなかったし、ドリフターズの「8時だョ全員集合」は嫌悪していた。一方、正統派の俳優や女優の話はよくしていた。女優の香川京子さんの話をしていたことを憶えている。

ところで、昨日(5/6)の日経新聞の「私の履歴書」に、女優の岸恵子さん第六話が掲載されていた。若い頃の写真が載っているが、いかにも聡明な顔立ちをされている。彼女は学級委員をしており、勉強もよくできたそうだが、数学は苦手で、答案用紙の半分を「白紙」で提出したりしたらしい。

そんな彼女を自宅に呼びつけた担任だった数学の先生は、20分ほど、こっ酷く説教をした後、咳き込みながら「根性を通せ。君には多くの才能がある。好きなことをやれ。人生は短いんだ。苦手なものはやらなくていい」と言って、彼女を玄関先まで送ってくれたらしい。岸恵子さんが社会に出られた後、心からお礼を言いたいと思った時、その先生は既にこの世の人ではなかったという。「胸」の病気を患い、あまりにも早く旅立ってしまったそうだ。

新型コロナウイルスは、我々の生活を一変させた。来る日も来る日もテレビでは新型コロナウイルス関連のニュースが報道され、人々は「自粛モード」になり、子どもたちは学校にさえ行くことができずにいる。ネット上には、政府の対応に対する不平不満や苦情など、様々な声が飛び交っており、人々がどれだけストレスを抱えているかが分かる。それだけならまだしも、休業要請をされた業種の方々は、経済的にも追い詰められている。僕がわざわざブログに書くまでもなく、このままの状態が続けば、先に自粛をした人たち、政府の要請に協力した人たちから、経済的破綻に追い込まれるのは明らかだ。

では、どうすれば良いのだろうか?

今から20年以上前、BCG(ボストンコンサルティンググループ)から転じてネットイヤーグループの創業に携わり、その後、ご自身でコンサルティング会社を立ち上げられた鈴木貴博氏が、この先の日本経済の行方をダイヤモンド・オンラインに寄稿されている。また、続編をnoteに書かれているので、興味のある方はお読みになっていただければと思うが、このままダラダラと自粛モードが続くと、仮に「アメリカ経済が3か月、壊滅的な打撃を受けるとしたら、日本経済は同じ打撃を半年分受ける可能性がある」と鈴木氏は予言(警告)している。

実は、このエントリーを書こうと思った動機は、僕自身を含めて、ネット上に様々な投稿をされている人々の、その「目的」は何なのだろうか? ということを考えるためだった。

自粛に追い込まれた方々の「なんとかしてくれ!」という叫びは理解できる。しかし、僕がそういう方々との接点が少ないせいか、あるいは、そういう業種の方々はオンラインでの活動に積極的ではないのかもしれないが、彼らの投稿を見かけることはあまりない。一方、今のところは大丈夫な人たちの方が、様々な意見や情報源をネット上に投稿されているように思う。

では、その目的な何なのだろうか?

僕自身のことを考えてみると、この状況をどうにかしたいと思いつつ、自分(だけ)では、どうにもすることができず、その鬱憤や怒りをどこかにぶつけたい、ということかもしれないし、直接は届かないとしても、賛同者を増やし、世論として政権の判断に影響をもたらしたい、ということかもしれない。

僕は現政権の対応を絶賛するつもりは無いが、かと言って、扱き下ろすつもりもない。しかし、このままの状態が続けば、日本社会は崩壊してしまうだろう。先行きが見えないこの状況に対して、見えない相手に対する怒りをぶつけたいのかもしれない。それがエスカレートすると、我々人間は、特定の相手に怒りの対象を求めてしまうのかもしれない。自粛要請に応じないパチンコ店に対する抗議をする人と、パチンコをしたい人たちとのバトルのように・・・。

ところで、ストレスというものとは少し異なるような気がするが、ここ数日、情緒が安定しない。年明けからフルスピードで走って来たと思ったら、4月以降は新型コロナウイルスの影響で、フルスピードでもなく、かと言ってアイドリング状態でもなく、中途半端な回転数を維持しながら仕事に向き合っている。それは、自分自身の情緒を絶妙な感覚でバランスさせなければならず、容易なことではないのだろう。

今の僕の仕事は、ざくっと8割以上、海外の人たちとのものなのだが、昨年までは、ほぼ毎月のように海外出張し、あるいは、先方が来日し、リアルに相手と会話をしていたが、ここ数ヶ月は、完全リモートになっている。海外とは、時差もあるし、祝日も異なる。商習慣も違うし、言うまでもなく、前提となる価値観や文化も異なる。日本人同士でさえ、ちょっとした言葉のニュアンスや勘違いから誤解が生じたり、上手く物事が伝わらないことがある。海外との仕事で尚且つリモートであれば、ピタッとギアが噛み合わないことがあっても不思議ではない。でも、そういうことがあると、人間なので、心も軋む。精神的にもっとタフな人間だったらいいな・・・と思うこともある。

ところで、話を岸恵子さんに戻すと、高校時代の担任の先生は、彼女を一人の人間として見て、彼女の才能に目を向け、そして、愛情をもって接していたことが、ご本人の文章から伝わってくる。

相手と異なる見解を持ったり、反論することはあっていいが、いわゆる、Disる行為は、対立以外の何も生まない。長期戦を余儀なくされる、このウイルスとの戦いにおいても、可能な限り、相手にも自分にも優しくありたいと思う。

岸恵子さんの「私の履歴書」を読んで、ちょっと軋んでいた心が温かくなった。

このエントリーのタイトルと内容がしっくり来ないが、他にこれはと思うタイトルが思い浮かばず、岸恵子さんの「私の履歴書」第六話で紹介されていた、恩師の方の言葉に「勇気」を頂いたので、それをタイトルにした。

ところで、上の写真は、年初に次男が書いた絵馬。当時、小学2年生。今、紹介するのは皮肉かもしれないし、もっと早くに紹介するべきだったかもしれない。平和とは程遠い状況かもしれないが、お互いに助け合いながら生きていけるように。