直筆の手紙と歩きスマホ。

小田急線が地下に潜ったせいで、下北沢は、僕が住んでいた頃とは異なる街になった。

Photo from Adobe Stock

10数年ぶりに羽根木公園に行き、梅の花を見たあと、すっかりキレイになった世田谷代田駅前に行ってみた。学生時代、駅から徒歩30秒のところに、1年ちょっとだけ住んでいた。大家のお茶屋さんは建て替えたようだったが、なんと、その奥にある木造のアパートは、そのまま残っていた。お風呂も付いていないだろうに、どうやって住んでいるのだろう?

羽根木公園(世田谷区)の梅の花 Photo by myself.

細い路地を抜け、下北沢まで行き、コインパーキングにクルマを駐めた。対面には、学生時代から続いている「都夏」という居酒屋がある。年末に久しぶりに行った時、片岡さんと二人で写真を撮った。お互いの顔に時間の経過が見て取れる。

都夏の片岡さん Dec. 16th (Fri), 2022

弟と二人で住んでいた賃貸マンションは、外装がリニュアルされ、キレイになっていたが、 あれから40年近く経った今も、そこに建っていた。3階まで上る階段の下に、父親に内緒で買ったバイクを置いていたことを思い出す。

大学生の頃、一度だけ、父親に手紙を書いたことがある。生きる意味というか、人生の目的が分からなくなっていた。

全国的にも有名な総合病院で経営の仕事をしていた父は常に多忙にしており、忘れた頃に返事が来た。何が書いてあったかは憶えていないが、その手紙は今も取ってあったと思う。

父とは、ことごとくぶつかった。中学2年生か3年生の頃から高校時代に掛けては、険悪だった。夕飯の途中で家を出て、友達の家に行ったこともある。

いつの時代も、親と子供では、生きてきた社会環境が違うし、テクノロジーも異なる。直筆の手紙を書いていた時代と何でもiPhoneで済ませる今では、考え方も行動も違うのは当たり前だ。

但し、親としては、こういう人間になって欲しいとか、こういうことはして欲しくないとか、程度の差こそあれ、そう思うのは当然だろう。でも、子供にとっては、父親の価値観を押し付けられているということでしかなく、自分の価値観に合わないことは、それが社会の常識とは異なるとしても止めようとはしない。

話をすれば、いつも口論になるくらいなら、自分の子供とは思わず、甥っ子くらいに思った方が賢明なのだろう。親子であっても距離が必要なことは分かっている。但し、理性が感情についていくかは別問題だ。

最近、産みの両親のことを思い出す。

父は、僕の欠点を指摘することはあっても、褒めることは無かった。正確に言えば、人生で一度だけ、褒められたことがある。大袈裟でもなんでもなく、父に褒められたのは、その一回だけだった。自分自身が父親になった今は分かるが、僕に対する愛情と心配が強過ぎるが故のことだったのだろう。

その父が亡くなってから、早いもので35年になる。

父は、産みの母が亡くなった後、母が付けていた日記を読み、彼女がいかに辛い思いをしていたか、自分に対してどんな思いを抱いていたのか、彼女にとっては幸せな結婚生活ではなかったことを知り、愕然としていた。そのせいか、今の母(再婚した女性)と結婚した後の父は、別人のようになった。

家族は心の支えであり、時に難しい存在だ。最も理解し合いたい関係でありながら、最も上手く行かない。問題は僕にあるのだろう。

どうやら僕は、父の遺伝子を受け継いでいるようだ。彼のせいにしては、申し訳ないが・・・。

下北沢と西荻窪。

学生時代の僕は、弟と一緒に下北沢に住んでいた。

弟は、弁護士を目指して司法試験の勉強をしていたが、父が他界し、何年に渡るか分からない、さらに言えば、何年挑戦しても合格する保証のない司法試験への挑戦を断念し、実家の福島県郡山市に帰ることになった。そして、僕は仕方なく、下北沢を離れた。その数年後、弟は念願の司法試験に合格した。

弟と二人で住み始めた頃の下北沢は、休日の午前中、トレーナーで買い物に行っても大丈夫だったが、いつしか人気の街になり、週末はHanakoを片手にしたカップルや女子で溢れるようになった。今にして思うと、日本社会がバブル経済に向かう時期だった。毎年のように家賃が高くなっていき、ひとりで払うのは無理があった。

後ろ髪を引かれながら下北沢を諦め、1987年の夏、汗だくになりながら引っ越ししたのは、代々木八幡にあった風呂なしのアパートだった。窓の外は小田急線。窓を開けると、電車の中の人が見えた。救いは、アパートの斜向いに銭湯があったことだ。

さすがに、そのアパートに住み続けるのは耐えらず、僕は井の頭線の東松原から徒歩6-7分、小田急線の梅ヶ丘からも徒歩8分程度のところに移り住んだ。いわゆるプレハブの安アパートだったが、築浅で日当たりがよく、まあまあ快適だった。下北沢に戻りたかったが、安月給の僕には無理だった。

2年ぐらい住んだだろうか? 僕は井の頭線の久我山に引っ越した。都心からはだいぶ遠くなったが、急行なら渋谷から15分。さらに3駅乗れば、吉祥寺。僕は久我山が気に入り、6−7年、住んでいた。

妻は東京生まれの東京育ちだが、方向音痴なのと、生まれ育った東急沿線とは雰囲気が異なり、久我山は好きではなさそうだった。

当時の僕は、株式会社クリードエクセキュートという、ちっぽけな会社を経営していたが、ある時、主力事業(という程の規模ではなかったが)だったDTP(Desktop Publishin)のビジネスからスパッと撤退した。1億5,000万円あった売上が、翌年には1,800万円に激減。僕たち夫婦は経済的に困窮した。

僕は、人生の「何かを変える必要がある」気がしていた。

大前研一氏は、人生を変えるためには、3つの方法しかないと言っている。それは、1. 付き合う人を変える。2. 時間の使い方を変える。そして、3. 住む場所を変える。だった。

他力本願ではなく、自分の意思で変えられることは何か? と考えた僕は、妻の土地勘のある東急線のエリアに引っ越しをすることにした。

妻は、どうせまた途中でやっぱり「東急沿線は止めた」となるだろうと思っていたらしいが、引っ越した先は、目蒲線(現目黒線)と大井町線が交差する「大岡山」という場所だった。既に他界してしまったが、妻の叔母が住んでいた2階建ての戸建ての1階部分に移り住んだ(叔母は代々木上原に引っ越した)。小さな庭も付いていた。

大岡山は、東京でも有数の高級住宅街で、近所には映画監督の篠田正浩氏と女優の岩下志麻さん夫妻の豪邸があった。

高級住宅街の一角の小さな戸建ての家は、住心地は良かったが、その頃の僕たちは、人生で最も貧乏な時代だった。拙著「挫折のすすめ」にも書いたが、3つではなく、4つ100円で売っていた名もないメーカーの納豆しか買えなかった。

詳細は割愛するが、その後、幸運にもネットバブルの最終列車に飛び乗ることができた僕は、ビットバレーの起業家のひとりとしてメディアにも取り上げられるようになり、創業メンバーのひとりとして立ち上げたウェブクルーは2004年9月21日、東証マザーズに上場した。社長(共同創業者)として立ち上げたインタースコープは、ネットリサーチ業界の御三家の一角として数えられるようになり、2007年2月、Yahoo! Japan にM&Aで売却した。

それから8年後の2015年。スーパーマーケットやレストランの店内で野菜を栽培するテクノロジーの開発に取り組んでいた、ベルリン発のInfarm というスタートアップと知り合った。僕が経営していたサンブリッジ グローバルベンチャーズという会社で主催していたInnovation Weekend というピッチイベントを、初めてベルリンで開催した時だった。

当時のInfarmは、プロトタイプのInStore Farm が一台あるだけだったが、3人の創業者と会い、彼らであれば、この壮大なビジョンを具現化できるだろうと思い、事業計画等は一切検討せず、投資をした。

リクルート創業者の江副さんの著書「かもめが翔んだ日」には、痛く心を揺さぶられた。

インタースコープを経営していた頃だった。僕にとっての初めての著作「自分でできるネットリサーチ」の原稿を書かなければいけなかったのだが、そんなことはお構いなしに、渋谷マークシティのスターバックスで、人目を憚らず、泣きながら「かもめが翔んだ日」を読んでいた。

「元リク」のある方から「平石さんは『自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ』を実践されていますよね」と言われたことがある。

その時は、そんなもんかな・・・という程度にしか思わなかったが、改めて振り返ってみると、まんざらそうでもないか、と思う。ネットベンチャーの後、教育関連の事業を行おうとしたり(それは上手く行かなかった)、その後はスタートアップに投資する側になり、極小規模ながらファンドを組成し、今度は、アグリテックといえば聞こえは良いが、野菜を栽培し、スーパーマーケットで販売する事業の日本法人を設立したりと、たしかに、自ら新しい機会を創り出し、それに取り組んで来た。

快晴の土曜日。JR中央線「西荻窪駅」構内に入っている「紀ノ国屋」に行った。店内で「収穫作業」をしてくれているスタッフの陣中見舞いのためだ。因みに、彼女の入社日は、僕の誕生日である。

西荻窪は閑静な住宅街でありながらサブカルチャー的な雰囲気を併せ持っており、どこか下北沢に似た雰囲気がある。ユニークな飲食店もたくさんある。

土曜日はいつもそうなのだが、自宅から西荻窪に向かう道は渋滞が激しい。

Google Map の推薦を信用し、環七から梅ヶ丘へ向かう道を入り、梅ヶ丘駅前を右折。北沢警察署の前を通り過ぎ、突き当りを左折した。角にあったガソリンスタンドはファミリーマートに姿を変え、僕が住んでいたアパートは無かったが、未熟だった20代の頃の自分を思い出した。

最近の僕は、若かった自分を思い出しては哀しい気持ちになる。ノスタルジーで片付けてしまうのはどうにもしっくりこない。その感情の源泉は何なのだろう?

ここには書いていないことも含めて、辛いことはたくさんあったが、それでも、僕の人生は幸運に恵まれている。20代の頃の自分はあまりにも未熟で危なっかしく、よくまあこうしてやって来れたなあと思う。

そんな人生もいつかは終りが来る。生きていることは、それだけで素晴らしいし、そう思える人生を送れているのは、とても幸せなことだ。そんな幸せな人生が砂時計のように残り少なくなっていくのは、どうにもやり切れない。

懐かしい住宅街の道を走りながら、自分の気持ちに気がついた。