「目黒川の桜」。

3月最終日のゴルフは、「44+45=89」でベストスコア・タイ。前半と後半それぞれ1ホールずつ大叩き(9打、8打)があった以外は、バーディ(1つ)、パー、ボギーというゴルフだった。ロングホールで「2オン2パット」のバーディが取れたことは、ちょっと嬉しい出来事だった。

大叩きの2ホールは、いずれも「欲張った」結果で、自分のレベルを考えて手堅いゴルフをしていれば、85~86というスコアが出た可能性があったと思う。

因みに、ティーショットをラフに外したことが2~3ホールあったが、そこは無理せず、フェアウエイに出すだけのショットをし、結果としては、いずれもボギーで収まっている。ビジネスにおいても、同じようなことが言えるような気がする。やはり、精神的に未熟な自分との戦いということだろう。

ところで、昨日は「代々木公園」に花見に出掛けた。

ゴルフの帰り道に、僕らの結婚式の際に立会人をお願いした元H2Oの赤塩正樹氏から久しぶりに電話があり、国際結婚をした元奥さん(最後に会ってから7年になる)との間にできたお嬢さん(ジュリア/とても可愛い)が日本に来ていて、代々木公園で花見をするから来ないか?ということだった。7年ぶりに会ったジュリアは、脚が長くてスタイル抜群のティーンエイジャーになっていた。

ところで、昨日は代々木公園に行く前に、五反田の赤ちゃん本舗に買い物に行ったのだが、その帰りに「目黒川沿い」の桜を観に言った。とても大勢の人で賑わっていた。

「目黒川沿いの桜」は、僕にとっては特別な想い出がある。僕らが中目黒に住んでいた頃、義理の母親と一緒に桜の花を観に行って写真を取ったことがある。

彼女は幼少の頃に大病をして、どちらの脚だったかは覚えていないが、片方の脚が短く、身体障害者だった。そんなこともあり、僕は身体が不自由な人達のことに関心を持つようになったし、「健常者」という言葉を初めて知った。

義理の母はとても頭の良い人で、趣味で「短歌」を詠んでいた。何かの会で入賞したりもしていた。

そんな母は物事をストレートに言う人で、相手の感情を考えないところがあったりもして、実は最初は彼女を受け入れることができなかった。そのことで、妻と喧嘩をしたこともあった。

それがいつ頃だったかは忘れたが、僕の中で変化があり、彼女を受け入れるようになっていった。僕のことを「自慢の娘婿」と思っていることが分かったことは、僕にとっては大きかった気がする。自分の知り合いに僕を紹介する時に、嬉しそうな顔をしていた。

母は、神社仏閣が好きで、不自由な身体にも関らず、日本全国の色々なところを訪ねており、その手のことに造形が深かった。

いつだったか両親が住んでいた久里浜(横須賀市)から車で出掛けた有名な神社だったかで、母をおぶってあげたことがあった。母とは、たった8年の付き合いだったが、あの時の想い出は僕の宝物でもある。

自分から心を開き、相手のことを受け入れることの大切さを、母から学んだ気がする。

「目黒川の桜」は、僕にとっては「母との想い出」そのものの特別な存在なのである。

人生を楽しむ。

先週の土曜日は、僕らが住んでいるマンションの理事長として最後の管理組合総会を務めた後、久しぶりに妻とふたりでランチに出掛けた。

土曜日は子供を保育園に預けているが、妻はボランティアがあり、普段はふたりでゆっくりと過ごす時間は取れないのだが、ここ3週間はボランティがお休みなので、たまにはふたりで食事に行こうということになった。

自宅から徒歩10分ほどのところにある一軒家を改造したようなアットホームなレストランで、ワインを飲みながら、本当に久しぶりにゆっくりと昼食を食べた。

僕らが初めての客と分かったのだろう。お店のオーナーと思しき女性が、とても丁寧に接客してくれた。

妻が2杯目のワインを頼もうとすると、チーズを出してくれたりと、かなり手厚いサービスをしてくれた。そのサービスについつい、もう1杯、ワインを頼んでしまった。

最後はコーヒーを飲んで、お店を後にした。

窓越しに見る恵比寿の街並は何の変哲も無い景色だが、こうして、ゆったりとした時間を過ごせることに感謝をしなければと思った。

錦鯉(にしきごい)。

僕が子供の頃に住んでいた家には、小さいながらも「池」があった。

父は、その池で「錦鯉」を飼っていた。サラリーマンだった父にとって「錦鯉」を飼うというのは、それなりにお金のかかることだったのではないかと思う。

僕が生まれ育った福島県郡山市というのは、県のちょうど真ん中に位置しているが、その郡山市から南へ20キロぐらい行ったところに「鏡石」という町があり、父はそこまで「錦鯉」を買いに行っていた。子供(小学生)の僕には、その頃の父の想いは伺い知れぬことだったが、父にとってはささやかな趣味だったのではないかと思う。

趣味という意味では、父は「車(自動車)」が好きだったようである。

今となっては極々ありふれた車だが、当時(1970年代)のサラリーマンそれも地方都市の賃金水準で、中古とはいえ「フォルクスワーゲン」を買うのは、それなりのお金が必要だったのではないかと思う。そのフォルクスワーゲンを買う時、カタログを楽しそうに眺めていた父の姿を今もおぼろげながら覚えている。僕が車好きなのは、父譲りなのかもしれない。

また、僕の父は「完璧主義」で「ワンマン」な人でもあった。僕ら兄弟にとっては、とても怖い存在だった。

しかし、その父が、母が亡くなってからは、別人のように「温和」になったのを覚えている。僕が15才の時だった。

父はある時、ある会社からのオファー(ヘッドハント)を受けたことがあったらしい。でも、その勤務地は、県外であり、年老いた両親(僕にとっては祖父母)を今さら見知らぬ土地に連れて行くわけにはいかない(一緒に住んでいた)と思ったのか、その誘いは断念したという。ある時は、地元の「選挙」に出ないかという話しもあったらしいが、それも、家庭のことを考えて止めたと、親戚のおじさんから聞いた。

手前味噌ではあるが、父はとても優秀な人だったが、父をよく知る人から聞いた話しでは、様々な事情により、自分でやりたいことは封印してきた人だったらしい。

その父は、55才にして病に倒れたが、ある時、僕たち3人兄弟を病室のベッドの足元に立たせて、「いいか。俺がお前達に説教をできるのはこれが最後かもしれないので、耳の穴をかっぽじってよおく聞け」と言いながら、最後の力を振り絞って3人それぞれに言葉をくれたことがあった。

他のふたり(弟達)に何と言ったかは覚えていないが、僕が言われたことは今でもよく覚えている。

「郁生、俺が生きていれば、お前が将来、結婚する時には、マンションの頭金ぐらいは出してやれるし、何か事業をやりたいという時には、資本金ぐらいは出してやることができる。でも、これからはそういう援助は一切無いと思って生きて行け。それはどういう意味か分かるか? お前の友達が『1万円』使うところを、お前は『5千円』しか使えないぞ。もし、お前が友達と同じ『1万円』使いたいなら、友達の『2倍』稼ぐ必要があるぞ」。

父が言ってくれたことの「額面」どおりの意味は理解できたが、その言葉の「本質」を理解できたのは、僕の友人達が「結婚」するようになってからだった。父の言葉どおり、僕の友人達の多くは結婚と同時に「親がかり」でマンションを買い、住んでいた。

そんな父にも関らず、特に大学生の頃の僕は、ろくに勉強もせず、遊び呆けていた。

理由は自分でもよく分からないが、今日は父のこと、それも「錦鯉」のことを思い出した。

今度は僕が「父親」の端くれとして、子供との時間を大切にしたいと思う。

六本木ヒルズ

昨日は久しぶりに、悠生を連れて五反田のTOCに入っている赤ちゃん本舗に買い物に出掛けた。店内は大勢のお客さんで賑わっていた。

赤ちゃん本舗を出て、代官山のピーコックで夕飯用の買い物をし、その後、久しぶりに六本木ヒルズに行ってみた。

実は、同じマンションに住んでいる人が六本木ヒルズのイルミネーションをデザインしている会社に勤めており、彼女がデザインしたという「青と白のイルミネーション」を観に行った。

悠生の機嫌が悪くならないか心配だったが、次の週末はとんでもない渋滞になっているだろうからと思い、遠回りをして帰ることにした。現地に到着すると、思っていた以上に素敵なイルミネーションだった。

こうして、親子3人で年末の夕方を過ごせることに感謝したい。

J-POP

20代の頃は「洋楽一辺倒」で邦楽は殆ど聴かなかったが、30代になってからは、少しずつ邦楽を聴くようになった。

学生の頃は、ブラックコンテンポラリーが好きで、レイパーカーJr.やLL Cool J、EWFあたりをよく聴いていた。社会人になってからも、その傾向は変わらず、ベイビーフェイスがプロデュースするアーティスト等がお気に入りだった。あとは、アシッドジャズが好きで、Brand New Heavy’s やミシャ・パリスなんかを聴いていた。

それが結婚して暫くしてからだろうか。急速に、洋楽を聴かなくなっていった。

結婚するまでの僕は、家にいる時はテレビは殆どつけず、FMラジオを流していて、新しい楽曲の情報源にしていたのが、僕の妻は「テレビッ子」で、彼女のために仕方なく、FMラジオの代わりにテレビをつけるようになった。

それで少しずつ、洋楽の最新事情から疎くなり、そのうち、殆ど洋楽は聴かなくなってしまった。CDは400~500枚ぐらいはあると思うが、それらの大半は結婚する前に買ったものである。

洋楽を聴かなくなったことと直接の関係があるわけではないが、ここ数年は「邦楽」いわゆる「J-POP」と言われる曲を聴くようになった。

それは、妻の影響も少しはあると思うが、最も大きな影響は、古くからの友人である佐藤 裕氏のように思う。

彼は、自分の会社を経営し始めて、かれこれ10年近くになるが、ウェブサイト構築や映像製作、最近は、ウェブアプリケーションの開発等の仕事をしている。

その彼とは、ここ5~6年、定期的にゴルフに行っているが、彼の車で行くことが多く(2年前まで僕は車を持っていなかった)、車中でよくかかっていたのが「J-POP」だった。

彼は職業柄、流行りの曲には極めて詳しい。

それまでの僕は、J-POPを聴くなんていうのは極めて「ミーハー」でカッコ悪いことだと考えていたが、そういうステレオタイプな考え方こそ、頑固でカッコ悪く、自分の可能性を狭めているような気がしてきて、自分から、いわゆる「流行りもの」の邦楽を聴くようになった。

話しは変わるが、先程、初めて、iTunes Music Store で買い物をした。

購入した曲は、「BoA: Winter Love」「平原綾香: Jupiter」「村治佳織:アルハンブラ宮殿の想い出」の3曲である。

僕のPCは「MacBook Pro」で、このエントリーも、iTunes でそれらの曲をかけながら書いている。

便利な世の中になったことを実感すると共に、iTunes のインターフェイス(GUI)がメチャクチャカッコ良く、やはり、マックは違うな!!!と思った。

僕は、やはり、効率(ウィンドウズ)よりも、創造性(マッキントッシュ)的な方が好きだ。

そして、そういう生き方をしていきたい。

追伸:先週の金曜日、裕と久しぶりに食事をしたのだが、その時に彼から「(友人達の)中には平石のことを『ドンキホーテ』のように思っている人もいると思うよ。なんでわざわざ3度も起業するわけ?ってさ。でも、起業家なんでしょ!!!(笑)」と言われた。好きで苦労をしているわけではないが、それ(不器用な生き方)しかできないし、それが僕の本質なんだろう。ここまできたら、それを極めるしか・・・ない。久しぶりに裕と会って、勇気をもらった。

窓の外のケヤキ

インタースコープの創業と共に住み始めた中目黒の家を出て、今の家に越して来てから1年半になる。

中目黒の家と今の家は徒歩10分もない距離なので、住んでいる地域の環境はそれほど変わらない。

でも、窓の外の景色は大きく変わった。

中目黒の家の時は、窓のすぐ目の前に中学校があり、ベランダに出ると、教室の窓から顔を出している生徒と目が合うこともしばしばで、プライバシーの点では決して褒められたものではなかった。でも、僕らは、しがないその賃貸マンション暮らしを楽しんでいた。

今の家の窓の外には、大きなケヤキの木が立っている。樹齢はどのぐらい経つのだろうか?けっこう立派な木である。ここ数日の気温の変化により、紅葉が進み、季節感が漂っている。

そのケヤキの木以外にも、たくさんの木々が植えられており、都会のマンション暮らしにも係らず、四季の変化を楽しむことができる。4月にはサクラの木が見事な花を咲かせている。

今まで、このブログでは必ず何らかの形でビジネスや起業のことに絡めて僕なりのメッセージを織り込んできたが、これからは、何気ないプライベートなことも書いていこうと思う。

教え子? の国際結婚!!!

僕の周囲には何故か、国際結婚のカップルが多い。僕らの結婚式の立会人夫妻も国際結婚だだった。

今日の主役、旧姓:本間さんも、イギリス出身でオーストラリア育ちのアンドゥリューと「国際結婚」をした。結婚式&披露宴の場所は、新宿からタクシーで10分ほどのところにある小笠原伯爵邸。初めて行ったが、とてもステキなところだった。

国際結婚ということもありゲストの半分は外国人で、尚かつ、ゲストの日本人の大半も英語が話せる人のようで、とてもエキゾチックな披露宴だった。

僕は非常に涙腺が弱い人間で、こういう時には必ず泣いてしまうのだが、本間さんの性格を考えると、きっと「カラッと」した楽しい披露宴で、最後の挨拶でも本人はもちろん、僕も泣かずに済むだろうと思っていたが、期待は裏切られることなく、とても楽しく過ごすことができた。

こういう席に招かれると、そのふたりがどれだけ周囲に祝福されているか?がわかるが、今日は本当にみんなに祝福されているということが、その雰囲気から伝わってきた。

彼女は、僕がインタースコープを創業した2000年の5月から7月の3ヶ月間、僕のアシスタントとして、持ち前の語学力を活かし(面接の時の英語での自己紹介はお世辞にも褒められたものではなかったが・・・笑)、海外のクライアントの仕事を担当してくれた。その年の8月からスウェーデンに留学することになっており、インタースコープでのインターンは短い期間だったが、彼女が日本に帰ってきた後も時々食事に行ったりと、連絡が途絶えることはなかった。

今日(2006年4月22日)の披露宴でとても印象に残ったのは、新郎新婦が「インパクト(影響)」という言葉を頻繁に口にしていたことだ。

披露宴に呼んだゲストは、色々な意味で彼女達の人生に「インパクト(影響)」を与えた人ということらしい。僕が彼女の人生にどのような「インパクト(影響)」を与えたかはわからないが、今日のゲストとして招かれたことを、とても嬉しく思う。

インタースコープでインターンとして働いていた彼・彼女達が、そろそろ20代の後半に差し掛かっていることを考えると、これからしばらくは、彼らの結婚披露宴に招かれることがありそうで楽しみである!!!