昭和の日々。Good-by our lovely house。

僕が初めて東京の地を踏んだのは、ヨーロッパ出張から帰国する父を迎えに羽田空港に行った時だった。朧気ながら羽田空港に行ったことは憶えているが、この写真を撮ったことは記憶にない。小学校4年生の頃だったと思うので、50年近く前になる。

当時の写真としては、かなり解像度が高く、構図も様になっている。父が愛用していたNikonの一眼レフで撮ってくれたのだろう。写真は父の趣味だった。カバー写真の手前にいるのが、2つ違いの次男。色違いでお揃いのポロシャツを着ており、上京するに際して、きっと母親が新調してくれたのだろう。そう言えば、いつも弟は紺色(濃い色)で、僕は淡い色だった気がする。

上の写真で母に抱かれているのが三男。まだ、幼稚園に行く前。左端が僕。右端が次男だ。

実は、このエントリーは、福島県郡山市にある実家に「最後のお別れ」に行く新幹線の中で書いている。

もうひとつの「19(COVID-19)」による世界的混乱で、もう話題に上ることさえなくなってしまったが、昨年の「台風19号」は、日本全国に大きな爪痕を残した。僕たち3人兄弟が暮らした実家もその例外ではない。水没してしまい、修繕して住み続けるには、保険で降りた金額の約2倍の費用が掛かることが分かり、兄弟3人で熟慮した結果、今の母が住み続けるのは無理だと判断した。

その家は、僕が中学1年生の秋、産みの両親が建てた家だ。150坪の敷地に、建坪46坪の家は、田舎とはいえ、大きな家だ。父の自慢だった庭は、四季折々の花が咲き、家族全員にとって、思い出がいっぱい詰まっている。この先、帰省しても、あの家に寝泊まりすることはないかと思うと、哀しみが込み上げて来ないと言ったら、嘘になる。

でも、人生は常に前に進んでいくしかない。そして、こうして感傷に浸っていられる僕たちは、この上なく幸せだ。そんな感慨も何もなく、未だに避難所での生活を余儀なくされている方々もいらっしゃるわけで、幸運に感謝しなければバチがあたる。

ところで、最近、若い人たちを見ると、無条件に羨ましくなる。特に若い女性の美しさには、心を奪われる。失ってしまったもの、二度と戻らない、あの頃の日々がいかに輝いていて、いかに Priceless な価値があったか。違う生き方や、もっとやれたことがあったんじゃないか? なんて未熟だったんだ・・・と思うこともあるが、スガシカオの歌(Progress)のように、その時その時、自分に出来る最善の選択と意思決定をしてきた結果が今の自分なわけで、それを受け入れようと思う。

実家の仏壇を廃棄するにあたりお坊さんにお経を唱えてもらい、その後、墓参りに行った後、小さな弁護士事務所を経営する次男の事務所で、水没した実家から引き上げてきた「家族のアルバム」を見ている。そこには、昭和の高度経済成長と共に、紛れもなく、Priceless な幸せな時間が綴られている。

時代は昭和から平成を通り過ぎ、令和になった。僕が子供の頃、2つ前の「明治」は、祖父母の時代だった。言ってみれば、令和になって生まれた子供たちにとっては、僕はそういう世代の人になるのだろう。

でも、人生まだまだやれることはたくさんあるし、やりたいことは山ほどある。

Infarmの仕事は、僕の人生を大きく変えそうな気がするし、武蔵野大学アントレプレナーシップ学部の創設は、ドリームビジョンでは実現できなかった「終わっていない宿題」を実現できる、またとないチャンスだ。

感謝しかない。

持って生まれた才能や能力には個人差があるとしても、時間だけは平等に与えられている。月並みだが、残された時間を大切にしたい。

人生は短い。人生はすべて必然。人生には勇気と自信が必要だ。

以下は、家族の写真。

今の実家ではなく、その前に住んでいた家での写真。僕(左)も次男も、まだ未就学児。
自転車を買ってもらい、喜ぶ僕と次男。
上の写真と同じ頃に撮った写真だと思う。
兄弟3人の写真。僕は小1か小2。後ろの洗濯物はオシメじゃないかと思う。昭和感が満載で恥ずかしいが載せておこう。
真ん中にいるのが父方の祖父。右端が父。
母方の叔父叔母、従兄弟、従姉妹たちとの旅行。磐梯山辺りだと思う。僕は写っていない。
僕(左)は小学校5年生ぐらいだろうか。裏磐梯のある場所。滝が見える橋の上。父が撮ってくれた写真だと思う。
僕は中学生になっている。母はこの3年後、45歳で他界した。

話は変わるが、僕がサンブリッジグローバルベンチャーズという会社を経営していた頃、当時、ベンチャーナウという、スタートアップに特化したオンラインメディアを運営していた竹内泰史さんという方がいる。彼とは、Innovation Weekend というピッチイベントを立ち上げたのだが、日本からスタートアップを数社、シリコンバレーに連れていき、現地の起業家と一緒にInnovation Weekend のワークショップを行ったことがある。

竹内さんにとっては、その時が「初海外」で、なんとパスポートも持っていなかった。その竹内さんは、初海外=初シリコンバレーに魅せられて、その後、僕が知らないうちに、安チケットを買っては、足繁く、シリコンバレーに通うようになった。そして、その数年後、なんと家族でシリコンバレーに移住してしまったのだ。英語も話せないくせにw!

そんな意思決定をする竹内さんが凄い人なのは勿論だが、竹内さんの無謀な提案に、二つ返事でOKしたというから、奥さんのひとみさんは、もっと凄い人だw。

実は、そのひとみさんから、幼少期の写真をfacebookに載せる、何とかチャレンジとかいうのを振られていた。どうにも抵抗感があり、躊躇していたのだが、良い機会だと思って、このエントリーを書いた次第。

ひとみさん、これで宿題は提出しましたよねw?

譲れない想い。

「人は変われる」。2021年4月開設予定の武蔵野大学アントレプレナーシップ学部の学部長就任予定の伊藤羊一さんにとっての「譲れない想い」だ。

2020年6月21日(日)。Zoom で行われた武蔵野大学オンライン・オープンキャンパス。来年4月の開設を目指す我々アントレプレナーシップ学部にとって、初めての「オフィシャル」な行事が今日のオンライン模擬授業だった。その中で伊藤さんが、「リーダーシップと意思決定」というテーマで語ったご自身の枠で、「譲れない想い」として発したのが「人は変われる」という一言だった。それは、ご自身の経験から培われた彼自身の哲学と言ってもいいだろう。

では、僕にとっての「譲れない想い」は何だろう?

残念ながら、伊藤さんのようにポジティブなものとは言えないかもしれないが、僕にとっての「譲れない想い」。それは「2つ」ある。

1つ目は中学一年の時に受けた「人生で初めての『英語』の授業」に遡る。「世の中に、こんなにおもしろいものがあったのか!?」。あの時の衝撃を超える出会いは、未だ僕の人生には存在しない。その時から僕は「いつかは海外(英語圏)に住んでみたい」と思うようになった。残念ながら、まだ実現できていない。

2つ目も「中学一年生」の時。「最初の中間テスト」だった。僕が通っていた中学校は「50点満点」で、5教科すべてで満点を取ると「250点」なのだが、最初の中間テストでの僕の成績は「200点」。学年約230人中、17番だった。

「平石さ、これ以上、英語を勉強しても、あと5点しか伸びないよね? でも、数学を勉強したら、あと25点伸びるよね?」。

そうじゃないんだよ。僕は英語も数学も理科も社会も国語すべて満遍なく勉強した結果、数学だけが「25点(100点満点なら50点)」だったんだよ。

ドラッカーを引き合いに出すまでもなく、苦手なものを人並みにしてみたところで、何の競争力もない。今の僕なら、その担任の先生を完膚なきまでに「論破」するだろう。

「個性を認めない」日本の教育。ドン・キホーテちっくかもしれないが、さらに言えば「個性を認めない日本社会」に対する「挑戦」が、僕にとっての「譲れない想い」だ。

だから僕は「Status Quo(現状維持)」を良しとする(固執する)「既得権益」が嫌いだ。そのことを言語化できたのがいつだったか? 正直、憶えていないが、そう遠い昔ではない。

尚、誤解のないように付け加えておくが、そういう立場にいても、機能しなくなった現状を打破し、組織的にイノベーションを求め、そして、個々人の個性を尊重してくれる方もいる。武蔵野大学の西本学長は、その一人だ。でなければ、教員は全員、現役の起業家、投資家、新規事業開発者等の「実務家」という、前代未聞なアントレプレナーシップ学部を開設するなどという、自ら波風を立てるようなことはしないだろう。初めてお会いした時、その温厚な風貌と雰囲気に秘めた熱い想いが、テーブル越しに伝わってきた。

話をオンライン模擬授業に戻すと、武蔵野大学アントレプレナーシップ学部の創設メンバーは、音楽で言えば、最高の「バンド」だと思う。個性豊かで極めて多様性に富み、生い立ちも学歴も職歴も何もかも異なるメンバーによるセッションは、授業をしているこっちが楽しくってしょうがない!今日のオンライン模擬授業で、そのことを実感した。

僕が行った模擬授業は、欲張り過ぎて、フォーカスに欠けるものになってしまったが(チャンスがあれば是非、リベンジしたい!)、他の人たちの授業を聴きながら、参加者(常時150-180人ぐらいは参加してくれていた)の方々からのチャットの内容を見ていて、僕たちの挑戦は確実に社会から求められている!そう確信した。

すべては、伊藤さんのリーダーシップと人選、そして、事務局の皆さんの献身的な仕事の賜物である。

1つ目の「譲れない想い」は、自分自身の起業や国内外のスタートアップへの投資を通じて、いつか、実現できたらハッピーだけど、2つ目の「譲れない想い」は、期せずして一緒に仕事をすることになった多彩なメンバーとのジャム・セッションを通じてなら、具現化できる気がする。

伊藤さんは53歳。僕は57歳(こうして書くのも嫌だけどw)。人生、50歳を過ぎても、50代後半からでも遅くはない。そのことを証明したい。

そして、「個性を認める日本社会」を実現させたい。

そのためには、まず、自分自身が、異なる価値観、様々な立場の人たちの考え方を受け入れる必要がある。FREE, FLAT, FUN. 伊藤さんのスローガンはいいね!

時々、心が折れそうになる時もあるけど、僕は、Be Bold or italic, never regular. な生き方を貫いて行かないと!