人生の采配(続編)。

人生の采配(続編)。

それが親から授かった性格なのか? それとも、育ってきた環境がそうさせたのか? あるいは、その両方なのか? は分からないが、僕は「他人の評価」を気にすると同時に、「他人から嫌われるのが嫌な人間」だ。「衝突を避けたい人間」と言ってもいいかもしれない。

しかし、落合博満氏がご自身の著書で述べているように、僕に限らず、殆どの人間は「こんな判断をしたら、周りから何と言われるだろう?」「こうやったら人にどう思われるのか?」と考えてしまうのだろう。

また、SNSがこれだけ支持されていることが証明しているとおり、人間には「承認欲求」があるもの事実である。

前編でも書いたが、人間社会は自然科学ではないし、人生の時間を逆戻りさせることはできないので、何が原因だったのか? を検証することはできないが、僕が今のような性格になった理由には心当たりがある。

僕は3人兄弟の長男で、2歳年下の弟がいる。僕たちは、父方の祖父母と一緒に暮らしていたのだが、明治生まれの祖父はとても頑固な人で、兄弟喧嘩においては「年長者が悪い」という考えの人だった。

次男はとても賢い人間(結果として弁護士になった)で、ある時から、形成が危うくなると必ず、「嘘泣き」をするようになった。そうすれば、その喧嘩においては、彼が悪かったとしても、祖父から「ゲンコツ」をもらうのは、僕になることが分かっていたからだ。

僕は、子供ながらに、それはあまりにも酷い・・・と無実の罪を嘆いていた。

小学校高学年の時の担任の先生は、僕が「掃除をサボった(勿論、冤罪である!)」と言って、僕を断罪した。その時だけなら、まだ許せるが、終業式の日か何かだったと思うが、学年全体で同じ時間に掃除をしていた時、隣のクラスの担任の先生に「平石は掃除をサボっていたでしょう?」と訊いたことがあった。それも、一度や二度ではなく、毎回である。

今なら、完膚なきまでに、その担任を論破してやるが、小学生には、それは無理な相談だった。

また、父親は「(他人の子供のために)わざわざ憎まれ口を叩いてくれる人はいない。社会に出れば、尚のこと、そんな人はいない」と言って、僕のやること為すことすべてに、ダメ出しをした。

ひょっとしたら、そんな生い立ちが「人から嫌われたくない」「自分を認めて欲しい」という性格を増強したのかもしれない(そんなこともあり、僕はふたりの子供を極力、褒めるようにしている)。

しかし、仮にそうだったとしても、だからと言って、他人の評価をベースに物事を判断するというのは、自分の人生を「他人に帰属させる」ようなものだ。どう考えても、馬鹿げている。

こうして続編を書きながら思ったが、他人の目や評価を気にするのは、結局のところ、「自分の仕事は何で、自分は誰に対して、どんな責任を負っているのか?」を自覚していないことが原因のような気がする。

ところで、落合博満氏は、自分に対しても、他人に対しても厳しい人だと思う。と同時に、他人に対する「深い愛情」を感じる。

僕もそういう人間になれるよう、精進したい。

ところで、写真は2017年5月、ベルリンのホテルの部屋に置いてあったフォーチュンクッキー に入っていたもの。新生ドリームビジョンの「タグライン」として採用した。弱い自分に負けないように。