人生の采配(愛情と覚悟)。

不覚にもというか、またしてもというか、ギックリ腰をやってしまった。2010年4月からお世話になっている法政大学MBAの中間発表初日、台風の影響で関東地方に大雨を降らす予報が出ていた「7/28(土)」の朝である。

僕は雨に濡れて、生理的に不快感を覚えること(特に靴下が濡れること)や、洋服が汚れることが物凄く嫌いだ。

それで、いつものスニーカーと白いGパンではなく、ドクターマーチンの革靴とグレーのGパンで行こうと思ったのだが、スリムカットのせいで脹脛(ふくらはぎ)の辺りが暑く、いつもの白いGパンに履き替えようと思い、急いでグレーのGパンを脱ごうとした。いつもは腰に注意して身支度をしているのだが、電車の時間が迫っており、急いで履き替えようとしたところ、右の臀部の上辺りにピキッという衝撃が走った・・・。

「直接の原因」は、急いで身支度をしたことだ。しかし、根本的な原因は、僕の「覚悟の無さ」にあったと思っている。

一時間に10ミリ以上の雨が降れば、どんな格好をしても濡れないわけはないし、生理的に不愉快な想いをせずにすむことは無い。であれば、覚悟を決めて、出掛ければ良かったのである。尚且つ、身支度をする前に降っていた「大雨」は、自宅を出た時には止んでいた・・・。

ところで、少々しつこいかもしれないが、落合氏の「采配」を読んで感じたことの続きを「続編その2:愛情と覚悟」として、自分自身のために言語化しておきたい。

「オレ流」采配の落合博満氏の本質は、「選手」に対する「深い愛情」だと感じた。

落合氏は「一人の選手のためにチームを動かすことで、チームの空気を変えようと試みたことがある」そうだ。一人の選手とは、ヤクルトスワローズで活躍し、1993年の日本シリーズではMVPを獲得、1998年には17勝して最多勝のタイトルと沢村賞を獲得した「川崎憲次郎」選手(当時)のことである。

その川崎投手は2001年、フリーエージェントで中日ドラゴンズに移籍してきたが、その年に右上腕部を痛めて、一軍登録ができずに終わったそうだ。そして、その後も2年、3年と一軍のマウンドから遠ざかったという。

落合氏は、熟慮を重ねた結果、2004年1月2日、川崎投手に電話を掛け、「開幕戦に先発するぞ」と言ったらしい。その「采配」を落合氏は、「投げられるかどうかわからない投手を開幕戦に先発起用するのだ。失敗すれば、単なる1敗では済まないというリスクは覚悟した」と著書で述べている。

では何故、そこまでのリスクを負って、川崎投手に大切な先発投手を任せたのだろう?

「どうしても開幕戦には投げられそうにないと感じたら、2、3日中には言ってくれ」と伝えていたらしいが、川崎投手が開幕戦に先発することは、本人、落合氏と森コーチ、捕手の谷繁元信選手の4人だけの秘密にしていたという。

2004年4月2日の開幕戦のナゴヤドームのロッカールームでは、誰が先発するのか?で持ち切りになっていたらしい。そこに、スーツにネクタイ姿の川崎投手が現れ、「今日は頑張ります」と挨拶をしたそうだ。

ロッカールームでは「本当かよ」という声が飛び交っていたらしいが、選手たちに「川崎さんを何とか勝たせよう」というムードが生まれる。しかし、川崎投手は5点を失い、2回で降板。それでも、チームはコツコツと得点を重ねて、最後は8対6で逆転し、広島に勝利。川崎投手の「負けを消した」だけでなく、落合新監督に「開幕戦勝利」までプレゼントした。

「川崎のために全員が動くことで、チームというのはどういうものなのかを実感してもらえたら、大きなリスクを覚悟した私の『最初の采配』は成功だったのではないかと思った」と、落合氏は著書で述べている。

尚、川崎投手は結局、活躍することはできず、そのシーズン限りで引退した。

また、阪急ブレーブス(現オリックス・バッファローズ)のエースとして活躍し、通算284勝をマークした「山田久志」投手(当時)に関しては、こんなことを書いている。

山田投手は、1975年から1986年まで「12年連続(日本記録)」で開幕投手を務めたそうだ。しかし、1987年シーズンのオープン戦で調子を上げられずにいると、上田利治監督(当時)は佐藤義則投手(当時)に開幕投手を任せたという。記録が途絶えた山田投手は、このシーズンは7勝に終わり、入団2年目から17年続けていた2桁勝利も逃し、翌1988年には4勝10敗となり、現役を引退した。

現役時代の落合氏は「開幕投手を任されなかったことが、成績が急速に衰えた一番の原因だとは言えない。しかし、まったく関係がないわけでもないだろう。チームの大黒柱となり、顕著な成績を残してきたベテランは、豊富な経験に加えて四番やエースといったポジションを精神面での張りにして仕事をしている部分がある。開幕投手という役割もそのひとつだ。ならば、本人が『もう代わりましょうか』と言ってくるまで、山田さんに任せていてもいいのではないかと感じた」そうだ。

「監督は一人の選手を特別扱いしてはならないが、その選手の置かれた状況に配慮してやることは必要だと考えている」とも述べている。

また、金本知憲選手(現阪神タイガース監督)の連続試合フルイニング出場という世界記録や日本プロ野球史上初の通算300セーブを達成した岩瀬仁紀投手のことに触れ、「世代交代、配置転換はタイミングがすべて」として、自身の考え方を説明している。

金本選手本人が「スタメンで出場しなくても構わない」と真弓監督(当時)に伝え、1492試合で連続試合フルイニング出場という世界記録にピリオドが打たれたことを引き合いに出し、「本人が納得ずくならば『まだできたのに』という未練を残さずに済む」と言っている。興味のある方は是非、落合氏の著書を読んでみていただきたい。

落合氏の著書「采配」には、プロ野球は「選手が財産」という言葉が随所に散りばめられている。

落合氏の厳しさは、プロ野球という「厳しい世界」に身を置く選手のことを思うが故だということが、著書を通じて伝わってきた。

インタースコープ時代、初期のドリームビジョン時代、そして、サンブリッジ グローバルベンチャーズ時代、僕はどれだけ「社員」のことを考えて仕事をしていただろうか? と考えさせられた。

勿論、考えてはいたが、そこに、落合博満氏のような「深い洞察と想い」があったのか? ということだ。

「大きな花」を咲かせるには「愛情と時間(成長を待ってあげる)」。そして、最後は自分が責任を取る「覚悟」が必要ということだ。

落合博満氏の著書「采配」から学んだことを、これからの人生に活かしたい。こうしてブログに書くのは簡単だが、実践するのは難しい(ことは知っているつもりだが・・・)。

写真は、小1の次男が小学校で育ててきた朝顔。夏休みということで先日、我が家に持ってきた。

人生の采配(続編)。

それが親から授かった性格なのか? それとも、育ってきた環境がそうさせたのか? あるいは、その両方なのか? は分からないが、僕は「他人の評価」を気にすると同時に、「他人から嫌われるのが嫌な人間」だ。「衝突を避けたい人間」と言ってもいいかもしれない。

しかし、落合博満氏がご自身の著書で述べているように、僕に限らず、殆どの人間は「こんな判断をしたら、周りから何と言われるだろう?」「こうやったら人にどう思われるのか?」と考えてしまうのだろう。

また、SNSがこれだけ支持されていることが証明しているとおり、人間には「承認欲求」があるもの事実である。

前編でも書いたが、人間社会は自然科学ではないし、人生の時間を逆戻りさせることはできないので、何が原因だったのか? を検証することはできないが、僕が今のような性格になった理由には心当たりがある。

僕は3人兄弟の長男で、2歳年下の弟がいる。僕たちは、父方の祖父母と一緒に暮らしていたのだが、明治生まれの祖父はとても頑固な人で、兄弟喧嘩においては「年長者が悪い」という考えの人だった。

次男はとても賢い人間(結果として弁護士になった)で、ある時から、形成が危うくなると必ず、「嘘泣き」をするようになった。そうすれば、その喧嘩においては、彼が悪かったとしても、祖父から「ゲンコツ」をもらうのは、僕になることが分かっていたからだ。

僕は、子供ながらに、それはあまりにも酷い・・・と無実の罪を嘆いていた。

小学校高学年の時の担任の先生は、僕が「掃除をサボった(勿論、冤罪である!)」と言って、僕を断罪した。その時だけなら、まだ許せるが、終業式の日か何かだったと思うが、学年全体で同じ時間に掃除をしていた時、隣のクラスの担任の先生に「平石は掃除をサボっていたでしょう?」と訊いたことがあった。それも、一度や二度ではなく、毎回である。

今なら、完膚なきまでに、その担任を論破してやるが、小学生には、それは無理な相談だった。

また、父親は「(他人の子供のために)わざわざ憎まれ口を叩いてくれる人はいない。社会に出れば、尚のこと、そんな人はいない」と言って、僕のやること為すことすべてに、ダメ出しをした。

ひょっとしたら、そんな生い立ちが「人から嫌われたくない」「自分を認めて欲しい」という性格を増強したのかもしれない(そんなこともあり、僕はふたりの子供を極力、褒めるようにしている)。

しかし、仮にそうだったとしても、だからと言って、他人の評価をベースに物事を判断するというのは、自分の人生を「他人に帰属させる」ようなものだ。どう考えても、馬鹿げている。

こうして続編を書きながら思ったが、他人の目や評価を気にするのは、結局のところ、「自分の仕事は何で、自分は誰に対して、どんな責任を負っているのか?」を自覚していないことが原因のような気がする。

ところで、落合博満氏は、自分に対しても、他人に対しても厳しい人だと思う。と同時に、他人に対する「深い愛情」を感じる。

僕もそういう人間になれるよう、精進したい。

ところで、写真は2017年5月、ベルリンのホテルの部屋に置いてあったフォーチュンクッキー に入っていたもの。新生ドリームビジョンの「タグライン」として採用した。弱い自分に負けないように。

人生の采配。

あの記事は、出版社としての広告だったのだろう。でも、買うに値する本だった。

「落合博満」氏の現役時代も中日ドラゴンズの監督時代も、特に、彼のファンだったわけではないが、その独特な語り口やポーカーフェイスには、常に心を捉えられていた。

野球ファンの方なら、2007年の日本シリーズでの、あの「采配」は憶えているだろう。その時の舞台裏や監督としての決断、そしてその判断基準が、落合氏の著書「采配」に淡々と綴られている。

一見、不遜に見える発言や態度から「オレ流」などと形容されているが、実は落合氏の考え方は、極めてオーソドックスであり、彼が「超一流」に上り詰めることができたのは、その才能や努力は勿論のこと、固定観念を排除し、状況を冷静に観察・分析すると共に、愚直なまでに「当たり前」のことを貫く「強靭な精神力」にあったのだろう。著書を拝読し、そう思った。

ところで、友達になっていたわけでもないし、会った記憶も無いが、僕のfacebookでの投稿に、いつも「いいね!」を押してくれる方がいる。先日もその方のアイコンを発見し、気になったのでプロフィールを拝見すると、海外在住のようだった。これも縁だと思い、思い切って僕から連絡をすると、フレンドリーな返事が返ってきた。

その方とのやり取りから、2つのことを思い出した。

1つは、かれこれ25年の付き合いになる、元アップル米国本社Vice President 兼日本法人の代表取締役(日本人で唯一、スティーブ・ジョブズが主催する会議のメンバーだった)で、現在はリアルディアという、ご自身の会社を経営している前刀禎明さんから何度か言われた「揺るぎない信念を持て」ということ。もう1つは、インタースコープ(2000年3月に創業し、2007年2月にYahoo! JAPAN に売却)共同創業者山川義介さんから同社を一緒に経営していた頃、やはり何度か言われたことのある「平石さんの『哲学』は何なんですか?」ということだ。

人間社会は自然科学ではないので再現性は無いし、唯一絶対の解も無いので、人ぞれぞれの考え方があると思うが、落合氏が2009年のワールド・ベースボール・クラッシック(WBC)の監督就任要請を断った時、ドラゴンズの選手も参加要請を断ったことも手伝ってか、かなり批判されたそうだ(詳しくは、落合氏の著書「采配」を参照されたし)。

落合氏は、WBC監督就任要請を辞退した理由を、ご自身の著書でこう説明している。

「そもそも私は、中日ドラゴンズという球団と契約している身分だ。その契約書には『チームを優勝させるために全力を尽くす』という主旨の一文がある。WBCが開催される3月は、ペナントレースの開幕を控えてオープン戦をこなしている時期だ。そんな大切な時に、私は『契約している仕事』を勝手に放り出すわけにはいかない」。

「現役監督に日本代表の指揮を任せたいのなら、日本野球機構と12球団のオーナーが一堂に介して議論すべきだろう。そこで私に監督を任せようと決まり、球団オーナーを通じて要請されれば、私には断る理由がない。契約をした側からの要請なのだからノーという選択肢はないのだ」。

落合氏は、常に「自分の仕事」に忠実ということだ。

では、今の僕の「仕事」は何で?「誰」に対する「責任」を負っているのだろうか?

前職サンブリッジ グローバルベンチャーズは、僕も共同創業者であり、僅かながらも株式を所有していたが、その会社の生い立ち、資本構成を考えれば、僕の「仕事」や「責任」は明確であり、議論の余地は無かった。つまり、株主として、僕を社長として雇ったアレン・マイナーと従業員に対する責任を果たすことが「僕の仕事」だった。

アレンは少々気まぐれで、一緒に仕事をしていくには大変なところがあるのは事実だが、その一方、とても寛容な人間であり、サンブリッジ グローバルベンチャーズの社長を退任し、ドリームビジョンを再始動したいと打ち明けた僕に対して、「であれば、SunBridge Startups LLPとSunBridge Global Fundは、平石さんがドリームビジョンとして引き継げばいいんじゃないですか? 特にファンドの方は、平石さんがおカネを集めてきたわけだし・・・」と言ってくれた。

そのありがたい言葉を頂戴し、サンブリッジ グローバルベンチャーズの出資持分の一部をドリームビジョンで買い取り、LLPは総務・財務担当組合員として、Global Fund はGP(General Partner)として、ドリームビジョンが運営していくことにした。ちょうど一年前のことである。

LLPの組合員(出資者)は、僕を含めたサンブリッジ関係者。Global Fund の出資者は、サンブリッジ関係者を除くと、その殆どが、僕の友人・知人の起業家の方々だ。

LLPやファンドの運営者としての責任は当然、出資者に対してリターンを返すことだが、ファンド出資者の中には、僕が運営するファンドを通じて、国内外のスタートアップの情報を得たいという方もいる。一方、出資先のスタートアップ(半分は海外のスタートアップ)に対しては、彼らの事業成長のためのサポートをすることが僕の仕事である。

では、ドリームビジョン代表取締役社長としての「僕の責任」と「仕事」は何か?

資本構成は、僕が7割強の株主であり、サンブリッジ グローバルベンチャーズでのアレンの立場にある。尚且つ、経営者も自分だ。非常勤の役員やパートタイムスタッフ、シリコンバレーにはベンチャーパートナーもいるが、サンブリッジグローバルベンチャーズ時代のようにフルタイムの社員がいるわけではない。ましてや、従業員が100名規模になっていたインタースコープの頃とは大違いである。一言で言えば、自由な立場にある。

そもそも、僕がサンブリッジ グローバルベンチャーズの代表取締役社長を退任し、ドリームビジョンを再始動させようと思ったのは、「終わっていない宿題」を終わらせたいと思ったからだ。そのことは、サンブリッジ グローバルベンチャーズの退任挨拶を兼ねたエントリーに書いたとおりである。

その「終わっていない宿題」を実現するべく、この一年、一生懸命に頑張ってきたのは事実である。

しかし、自分が「誰に責任を負い、今やるべき仕事は何なのか?」を明確に意識していただろうか?

ドラッカーの言葉を持ち出すまでもなく、「宿題」に集中するには「やらないこと」を決める必要がある。そうでないと、好奇心に任せて、面白いことに心を奪われて、今の自分がやるべきことが疎かになり兼ねない。

もうひとつ、落合氏の本から学んだことがある。

「『人や組織を動かす以上に、実は自分自身を動かすことが難しい』ということだ。それは『こうやったら人にどう思われるか』と考えてしまうからである。だからこそ、『今の自分には何が必要なのか』を基本にして、勇気を持って行動に移すべきだろう」ということだ。

そのことについては、このエントリーの続編として、近いうちに書こうと思う。

ところで、写真は、閑静な住宅街の一角にある「米屋」兼「おにぎり屋」だ。近所にコンビニがあるにも関わらず、繁盛している。自ら精米したコメで、自らの手で「おにぎり」を握り、お客さんに売っている。80歳は超えていると思われるお祖母さんが元気に店に立っている。

「自分の仕事」を明確に認識し、愚直に実践している人は強いし、年を取っても元気ということだろう。見習いたい。