人間は誰でも「ポジショントーク!」。

謹賀新年 2018! 遅ればせながら、明けましておめでとうございます! 皆さんは、どのように2018年を始められただろうか?

僕たち家族は、長男が「中学受験」で、年末年始は、次男(今年4月から小学生!)と僕は、僕の実家(福島県郡山市)に帰省し、スキーをしたり、弟家族や親戚と食事をし、団欒したり・・・。一方、長男と妻は、東京で受験勉強一色の年末年始を過ごした。

地方都市出身の僕は中学受験など経験しておらず、初めて経験中だが、小学生にとっては、相当なプレッシャーなのは間違いない。世の中では、小学受験は「親の受験」、中学受験は「家族の受験」、大学受験は「本人の受験」と言うらしいが、なるほど・・・、こういうことか・・・と実感させられている。

今日のテーマの「ポジショントーク」だが、今朝、ヨーロッパ在住のある方とチャットをしていた際、その方から「人はいろいろ考え方もポジションも違うものですね。ところでニュートラルというのは本当にあり得ると思いますか? 日本では一般的にとても重視されるところですが・・・」というコメント(質問)を頂いた。

「エリン・マイヤーの Culture Map」という書籍を紹介されたのだが、彼女の主張は「すべては『相対的』」だそうだ。

たしかに、J.Walter Thompson という欧米では「大企業」の日本法人で「約7ヶ月」ほど働いたものの、組織の「重層構造」に嫌気がさし、28歳でその会社を辞めて起業し、現在に至っているわけで、「日本の大企業」はおろか、ましてや、地方都市の「中小企業」など知らないわけで、あまりに「偏った人生」を送ってきているのは疑いの余地がない・・・。

そんな僕が彼に「ニュートラルな意見」を求めたところ、上記のコメントが返ってきた、ということだ。

18歳まで地方都市で育ったとはいえ、今この瞬間、地方都市で暮らす人たちの現実が理解できるはずもなく、ましてや彼らの感情を共有出来ると言ったら、それは偽善だろう・・・。口を開けば「イノベーション」だの「起業」だの言っている人間に、そのような世界から遠く離れた日常に生きる人たちの現実と気持ちが理解できるはずがない。

ところで、今日のエントリーは、10何年ぶりで買い替えたオーディオで「Lisa Ono」の「Canto Para Nana」を聴きながら書いている。少し前までは、長男を塾に送り出す「お弁当」を作りながら、彼女の曲を聴いていた・・・。

幸いにして今の僕は、自由に自分のスケジュールを調整できる状況にあり、今月は極力、アポイントを入れないようにしている。妻が仕事の日に、次男が発熱等した場合、すぐに対応できるようにするためだ。

僕の価値観や人生観が変わったのか? それとも、単に歳を取ったからなのか? 本人にもよく分からないが、僕がお弁当を作ることで、直接的には、世の中に何かを生み出しているわけではないにも関わらず、以前なら感じたはずのストレスを感じることもなく、むしろ、幸せな気持ちを感じている自分が新鮮だった。

学校から帰ってきた長男は、いつものように無表情で、お弁当を作ってあげたことに「ありがとう」の一言もないが、まあ、それでも、直接的に、誰かの役に立っていることに、人生のリアリティを感じるのかもしれない。

仕事のことを書いた方が職業上のメリットはあるのかもしれないが、僕が書きたいと思うことは、こういう他愛もないことなんだな・・・。

話は変わるが、僕たち兄弟の生みの母は「45歳」で、父親は「55歳」で帰らぬ人となった。亡くなった母の年齢もすごく意識していたが、僕は今年3月で、父が亡くなった年齢になる・・・。

この先、どのぐらいの時間を神様が僕の人生に与えて下さるのかは分からないが、自分の価値観に照らし合わせて「価値のあること」を生み出したいのと、子供たちの成長を一日でも長く、この目で見ていたいと思う。

僕のブログを読んで下さっている皆さんにとっても、2018年が充実した一年になりますように。