「堀江さんの本」を読んで考えたこと。

このエントリーは、11/4に途中まで書いたままだったため、もう随分と前の話題になってしまったが、楽天イーグルスの日本シリーズ制覇の模様をテレビ観戦さえできなかったのは残念だった。

球団創設から9年での快挙は、素晴らしいの一言に尽きる。

「田中将大」という選手は、形容する言葉が見つからない。

無責任なファンの勝手な思いだが、メジャーリーグでダルビッシュと投げ合う勇姿を見てみたい。

ところで先日、自宅に帰る途中、ある公園の前を通った際、長男とよく遊んだ頃のことを思い出した。

僕たちの長男は現在小2で、その公園でよく遊んだのは彼がまだ未就学の頃、今から3~4年前のことだ。

しかし、その公園の前を通った時に僕の頭に思い浮かんだのは、次男の顔だった。

でも、次男はまだ1歳9ヶ月。公園に連れて行ってくれと僕にせがむ年齢にはなっていない。

あと半年から一年すると、また、あの頃のような日々が訪れるのかもしれない。

彼のためにも体力増強に努めよう!

実は、その公園の前を通ったのは、親戚の見舞いに帰省した翌日からの大阪出張からの帰りだった。

さすがにヘトヘトになっており、前向きな気持ちが保てず、ネガティブな思考に陥りがちになっていたが、長男と遊んだことを思い出し、少し気持ちが和らいだ。

また、長男が「溶連菌」に感染した疑いがあるということで、その翌日は会社を早めに出て、彼を掛かりつけの医者に連れて行き、数ヶ月ぶりに、平日の夜、家族と夕食を共にした。

ただ単に何の変哲もない平日の夕食を家族と共にしただけだったが、僕の心は弾力性を取り戻した。

そして僕は、そのことに驚いた。

28歳で起業して以来、特に、インタースコープというベンチャー企業を創業してからの数年間は、僕の人生の「95%」は「仕事」だった。

50歳になった今、体力も含めて色々な理由があるが、何を大切に思い、何に喜びを感じるかが変わって来ていると実感した。

そのことを素直に受け入れようと思う。

ところで、今月上旬、堀江さんの著書「ゼロ」~ 何もない自分に小さなイチを足していく ~ が届いた。

堀江さんの本が出ることは、cakes というアプリの読者向け先行リリースで最初の章を読んで知っていたが、実際の本を手にすると、アプリにはない「存在感」があった。

堀江さんとは、イベントでの立ち話を含めて、4~5回ほどしか会ったことがないが、2002年の秋、食事をご一緒したことがある。

とにかく、強烈なエネルギーと存在感があった。

そして、頭脳明晰なのは勿論、超が付くほど合理的で感情を挟まない人だということが伝わってきて、食事をしながら怖い思いをしていたのを憶えている。

その時の堀江さんは、まだ、オン・ザ・エッヂだったが、その後、社名をライブドアに変え、一躍、時代の寵児となっていった。

当時の堀江さんは、熱烈な支持層を持っていた一方、半ば強引なやり方やアクの強さ故か、特に、ネットベンチャー業界では、彼を敬遠する声も多かった。

僕は会食をした時の印象から、とんでもなく凄い人だと思っていたが、彼と実際に仕事をした人たちからのネガティブな声も聞いていた。

そんなことから、僕は、堀江さんの話題になった時は、どちらともつかない態度をとっていた。

それは、堀江さんを支持することで、堀江さんが持っているリスクやイメージが自分にも影響することを気にしてのことで、今にして振り返ると、すべては自分自身に対する「自信の無さ」でしかなかったと思う。

自分自身、そして自分の判断に自信と責任を持てるなら、誰に何と言われようと気にする必要はないはずだ。

これからは、そういう人間になれるように努力し、僕たちの子どもたちも、そういう人間に育つよう、僕自身が実践していこうと思う。

堀江さんの本を読んで心に響いたのは、以下の3つ。

1つは、刑務所の中で担当していた単純な仕事に対しても「どんな仕事にも創意工夫の余地がある」といい、どうすれば、決められた時間ないに、より多くの仕事ができるか?を考えて仕事をしていた、という話。

2つ目は、「自由というのは結局、自分の『心』が決める」ということ。

刑務所の中にいても、堀江さんは「自分が何かに制約されている」とは考えなかったそうだ。紙とボールペンでメルマガの原稿を書き、読者からの質問にも答え、出所後の仕事のことも考えており、囚われの身でありながら、彼の「精神」は「自由」だったという。

凄い精神力の持ち主だと思う。

3つ目は、貴重な「30代」を訴訟と服役に費やしてしまった(費やさざるを得なかった)ということだ。

その記述を読み僕は「はっ」とさせられた。

僕(たち?)にとっては、数年間の出来事のような気がしていたが、考えてみると、たしかに、これから!という油の乗り切った30代という貴重な時間を、そのような時間として過ごさなければならなかったという事実には、言葉が無かった。

おカネは失っても、一生懸命に頑張れば取り戻せるかもしれないが、一度「失ってしまった時間」は何をどうしても「取り戻すことはできない」・・・。

人生には「易きに流されて今を過ごす暇」はないのである。

ところで、11/21(木)から、出張で「ロンドン」に来ている。

ロンドンは2012年6月以来、2度目だが、僕がよく行くサンフランシスコにはない、ソリッドというか硬派な雰囲気がある。

特に友人がいるわけでもなく、前回の出張はとにかくタイトなスケジュールで、街中をぶらつくということもできず、まだまだ街の雰囲気を味わえていないが、Tokyo, New York に次いで、好きになりそうな感じがする。

このような貴重な時間を与えられていることに感謝し、より多くを吸収し、日本に帰りたい。

追伸:今回の主張に出る朝、小2の長男に「どのぐらい行っているの?」と訊かれ、「来週の木曜日までだよ」と答えると、「じゃあ、ちょうど1週間だね。でも、どうして、(家族で)旅行に行くときは、そのぐらい(長く)行けないの?」という言葉が返ってきた。

「そうだね。次にみんなで旅行に行くときは、1周間ぐらい行けるようにしようね」と答えた。

長男の言うとおりである。必ず、実現する。