今日は48歳の誕生日。4度目の年男。

今日は48歳の誕生日。4度目の年男。

期せずして、忘れられない年(歳)になった。

35歳になった時、「20歳から35歳までの時間がもう一度くると、僕は50歳になる・・・」と気がつき、「人生は短い」と思うようになった。

あれから13年。長かったか短かったかは別として、起伏に富んだ13年だったのは間違いなく、且つ、とても「充実」した時間だった。

40代の最後の2年間を大切に過ごそうと思う。

ところで、昨日の親善試合で「カズ」がゴールを決めた!!

凄いのひと言だ。フランスWCに行けなかったのは残念だが、それを補って余りある値千金のゴールである。

因みに、僕は30代の頃、アイルトン・セナ、伊達公子、そしてカズが「3大ヒーロー(ヒーローという単語は女性にも使えるらしい)」だった。

生まれてきた我が子の顔をみて「コーナーを攻める人生じゃなさそうだな・・・」と思い翻意したが、子供に「セナ」という名前をつけようと本気で考えていたほど好きだったし、30代後半で現役復帰し、今も世界レベルで戦っている伊達公子にはとても勇気づけられている。

そして、カズは「東北」に「エール」を贈ってくれた。賞賛しても賞賛しきれない。

一方、原発の問題は日に日に深刻さを増している。

ついに、自殺者まで出してしまった。言葉が見つからない。

「おち」さんがご自身のブログで警鐘を鳴らしていたように、中途半端な知識で原発問題に関する制度的、技術的コメントは控えるが、福島県出身の僕でさえ、こういう事態になるまで、出身県に原発があることさえ忘れており、しかし、福島原発で発電された電力で何一つ不自由のない快適な生活を送っていたのは紛れも無い事実であり、その意味をよくよく考える必要がある。

火力発電に頼ることは化石燃料に頼ることとイコールとなりCO2排出の問題があるし、合理的に考えれば経済問題ということになるかもしれないが、もはや、そのような次元では済まないだろう。

ところで、3月27日の朝日新聞の「天声人語」に、考えさせられるエピソードが紹介されていた。

僕を含めた「すべての日本人」が「試されている」のだと思う。

【祝】起業20周年!【火中(渦中)の栗を拾う】

20年前の今日(1991年3月27日)、人生で初めての会社を設立した。

当時の僕は27歳、J.Walter Thompson という外資の広告代理店に勤務していた。

30歳ぐらいまでは、会社は放置しておくはずだったが、人生で初めて会社を創ったことが嬉しくて名刺をつくり、諸先輩型に挨拶に行ったところ、「じゃあ、こういう仕事があるからやってみるか?」と幼気な青年を勾引す悪いオジさまとオバさまがたくさんいて、「だったら、やってみるか?」と思い、会社を辞めた。

資本金100万円。オフィスは先輩の会社に間借り。事業計画もなく、僕ひとりでのスタートだった。

あと3週間も待てば「ボーナス(たぶん100万円ぐらいは出た)」がもらえたが、「そんなお金をもらってどうする!」と、3週間の時間を優先した(今なら間違いなく、ボーナスを貰ってから辞めただろう/笑)。

最初に取った仕事は「20万円」だった・・・。

あれから20年。当たり前だけど、色んなことがあった。

考えてみると、僕の人生は「面倒な事件」に巻き込まれたり、こんなこと、出来るのかよ?という「難題」に取り組む連続だったように思う。

まあ、要するに「マゾ」なわけだ・・・。

ところで、僕の中には「勝ち馬に乗りたい自分」と「困難から逃げたくない自分」が常に存在しているが、それが世の中を変えるぐらいのインパクトがある圧倒的な勝ち馬か、自分の実力では到底成し遂げられない難題の場合を除き、安易な選択をすることを善しとしないところがある。

ただ、今までの場合、その対象が何であれ、結局は「自分のため」だったのも事実。

ところで、起業20周年の今年は、あることで「火中(渦中)の栗を拾う」的な意思決定をした。

ひとつは、大変なのは間違いないが、僕が本気で取り組めば必ず何とかなる問題。

但し、ふたつ目の方は、相当な「重量級」であり、「長期戦」になるのは必至である。

始めてしまったら、途中で逃げ出すことはできない。

でも、まあ、こうしてブログに書いているわけで、その場から立ち去る選択肢はないということだ。

話は変わるが、僕がインタースコープの経営をしていた頃、一言一句は忘れてしまったが、クライアントだった外資系企業のマネジャーから「平石さんは、自分のことよりも他人(部下)のことを優先するようになれば、必ず、素晴らしい経営者になれると思います」という趣旨の話をされたことがある。

彼女は実際、とても他人に献身的な人であり、僕のような人間は自己中心的に見えたのだろう。

僕は投資家に対しては誠心誠意やってきたと自信をもって言えるが、それは僕自身が資金調達をしてきたことの責任感であり、彼らに損をさせたくないし、期待に応えたいという想いがあったからだ。

でも、今にして考えると、社員の人達に対しては、心配りが足りなかったと思う。

僕はすべては自己責任だと思っているが、数多ある選択肢の中からインタースコープという会社を選んでくれた人達に対して、もっとやるべきこと、やれたことはあった・・・。

もうそういうことは繰り返したくと思っているが、見方を変えれば、自分が「後悔」したくないという意味では、これも「自分のため」とも言える。

つまりは「自他ともに望むこと(求め、求められること)」でないと上手く行かないということだ。

さて、21周年を目指して、毎日を、気負わず、頑張ろう。

追記:因みに「火中(渦中)の栗を拾う」という諺は、英語では「Pull somebody’s chestnuts out of the fire.」という。つまり、自分の栗ではなく「他人の栗」なのだが、それを「自分の栗」と思えるかどうかが勝負の分かれ目である。

初めての「大学院」と「修了式」。

今日は、法政大学専門職大学院イノベーション・マネジメント研究科(通称イノマネ)の「修了式」があった。

兼任講師の僕には出席の義務はないが、この一年間、かなりのエネルギーと時間を注いだ社会人学生の方々の「晴れ姿」を一目見たいと思い、参加させていただいた。

本来であれば、武道館で学部生と院生との合同の卒業式、修了式があり、その後は、市ヶ谷の私学会館で祝賀会があるはずだったが、未曾有の震災の影響で中止となり、イノマネの校舎で行われた。

イノマネは7年前に開校された新しい大学院で、設立後数年は「定員」に達せず、とても苦労をしたと聞いている。

その苦労を乗り越え、今年は見事に「定員」以上(休学から復学した方々も含まれる)の学生の方々が「修了証書」を胸に卒業(修了)されていった。

修了生の中には、中国、韓国、モンゴル、南米、中東からの留学生も多数含まれており、国際色豊かな修了式だった。

さて、その「イノマネ」だが、今日の修了生の方々の挨拶やこの一年の学生の方々との接触を通じて、彼・彼女達には法政大学大学院ではなく、「イノマネ」という「Identity」が生まれていることを、改めて実感した。

慶応大学湘南藤沢キャンパス(通称SFC)の学生&出身者は、慶応ではなく、SFCというIdentityを持っており、尚かつ、起業する人が多いが、イノマネも文字通り、Innovation Manegement を実践して欲しい。

大学院を出ているわけでもない僕が大学院の修了式に出席させていただき、尚かつ、兼任講師(外部講師)として祝辞まで述べさせていただいたことを、とても光栄に思う。

僕自身の「生き方」を以てレクチャーとするべく、今までのトラックレコードに甘んじることなく、新しいトラックレコードを創っていくことで「日本の復興」に貢献したい。

「東北」に生まれたことの意味。

大震災から今日で11日目。

東京は少しずつ平静を取り戻したように見えるが、被災地では、むしろ、より一層、困難な状況になっているのだろう。

ところで、今回の「東北地方」を襲った未曾有の災害は、日本社会に何を考えさせるのだろう?

僕は正直、自分が生まれ育った福島県に対する郷土愛が強かったわけではないが、さすがに、今回の災害で(特に原発の問題で)、福島県に対して考えざるを得なくなった。

僕が生まれた1963年は、日本社会が戦後の復興期を脱し、翌年には東京オリンピックが開催され、高度経済成長に突き進んでいった時代である。

1970年代には2度のオイルショックに見舞われたものの、日本社会はそれを乗り越え、更なる経済成長を遂げていった。

当時の僕は、そんなことを考えもしなかったが、今になって振り返ってみると、そういう時代に生きてきたということだ。

ひと言で言えば「経済成長がすべて」であり、田舎よりも「都会」がカッコ良く、東北は「田舎の代名詞」であり、僕はそのことが嫌いだったし、コンプレックスを持っていた。

幸か不幸か、東京に親戚がいたり、中学浪人時代に知り合った友人が東京の高校に進学したこともあり、高校時代は長期の休みの度に、東京に遊びに来ていた。

田中康夫氏の「何となくクリスタル」が流行った高校時代には、六本木のスクエアビルに出入りしたりしていた。

そんなこともあり、高校生の頃から将来は東京に、それも世田谷か目黒あたりに住みたいなどと、バカげたことを考えていた。

あれから30年。数年前から東京では「LOHAS」がカッコ良くなり、まだまだ少数派だとは思うが、農業に憧れを持つ若者も増えてきた。

要するに「田舎」が「贅沢」な時代になったのだ。

そんな中、今回の「原発」事件で、福島県のみならず茨城県も、ひょっとしたら周辺の県も含めて、「農業」は「壊滅的ダメージ」を受けることになる。

福島県には「裏磐梯」という風光明媚な観光地があり、夏季はドライブやキャンプ、冬はスキーやスノボにと、首都圏からたくさんの人々が訪れている。

個人的には「五色沼」と呼ばれる、沼面が文字通り「五色」に変わる美しい湿地帯がお気に入りである。

ところで、僕の父は栃木県の出身だが、福島県を心から愛していた。

桜の季節になると父のことを思い出す。

父が亡くなってから来月で24年。

僕は今月末で48歳。父がいない人生が半分になる。

今年は、父のことを思い出しながら「お花見」に出掛けよう。

どんな時も「希望」を捨ててはいけない。

未曾有の大震災から一週間。

戦後最大の危機に直面した日本は今、間違いなく「歴史の転換期」にある。

悲惨な現実をこの目で見ていない僕には、トイレットペーパーが買えなかろうが、お米が買えなかろうが、未だに「現実感」がなく、それこそ「狐につままれた」ような気がしている。

ただ、出身地でもある福島県の原発問題で、実家の弟や東京に住む末弟と連絡を取り合う日々が続いており、何一つ被災していないにも関わらず、心身ともに疲労感が増してきているのも事実。

東京に住む僕でさえ、こんな調子なわけだから、被災地に住む人達はどんなに大変なことか・・・。

この一週間は色々なことを考えさせられたし、自分の器が試されているのだろうとも思った。

そんな中、福島県産の牛乳(原乳)と茨城県産のほうれん草に、食品衛生法の基準値を上回る放射線量が検出されたという、ショッキングなニュースが出た。

上記の牛乳を日本人の平均的な「一年間の摂取量」を飲んだとしても「CTスキャン1回分」の被曝量に過ぎず、健康には影響ないというが、世界唯一の被爆国に住む日本人は「放射線」には極めて神経質であり、こうなると、福島県と茨城県の酪農と農業は壊滅的だろう。

それだけに留まらない。観光産業も打撃を受けるのは間違いない。

県民の多くは、その農業、酪農、観光業等で生計を立てているのである。

ところで、僕はこの一週間、様々なネット上の情報に目を通し、この現実をどう理解するべきか?を自分なりに考えていたが、ある意味で最もインパクトがあったのは「インスタントな正義感」と題された「おちまさと」さんのブログ。

是非、読んでみて欲しい。

「おちさん」とは「ドリームビジョン」の投資先である「イミオ」を介して知り合い、何度か話をしたことがあるが、ダテに様々なテレビ番組の企画やヒット商品の開発に携わってきているわけではなく、平易な言葉で語られてはいるが、物事の本質をついている。

「疑心暗鬼」。それが負のスパイラルを産む。おちさんは、ブログでそう指摘している。

また、「インスタントな正義感は人の命を奪う」可能性があるという事も肝に銘じた方がいい気がする、とも書いているが、僕も人の事は言えない。

「中途半端な知識で物事を語ってはいけない」ということだ。

(前略)

今回の敵は
今までの敵とは違う。

知らない人間は
無闇に語らない

ようにしないと
ならないのではないだろうか。

物資が届きにくい理由に
「放射線の恐怖」
を素人が勝手に煽っている
ことも一つにあるような気がする。

それが証拠に
もはや福島への宅配を
断る業者も現れているらしい。

(中略)

妻が昨日ポツリと言った
一言が耳から離れない。

「何で被災地では分け合ってるのに
東京では取りあってるんだろう」

東京は何をしてるんだろう。

(後略)

1963年3月30日。僕は福島県郡山市に生まれた。

小学生の頃に発生した「オイルショック」で「トイレットペーパー」がスーパーから無くなる経験もしたが、高度経済成長の恩恵に与り、高度な教育を受け、こうして知的職業に従事している僕たち世代には、日本をこの惨状から「復興」させる責任があると思うようになった。

ところで先程、テレビで「EXILE」の歌を聴いた。

一週間ぶりに、明るい前向きなメロディーと歌詞を聴き、久しぶりに心が高揚するのを感じた。

どんな時も「希望」を捨ててはいけない。

日本社会の「復興」に向けて。

未曾有の災害から今日で3日目。未だにこれが現実だとは信じられない。

イギリスのあるメディアでは「今までに20もの戦争を見てきたが、こんな惨事は見たことがない・・・」と伝えている。

月並みな言葉で申し訳なく思うが、お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りすると共に、被災された方々に心からのお見舞いを申し上げたい。

政治や行政に通じるある知人によると、日本を復興させるには10兆円にも上る資金が必要らしく、国際社会の援助無しには無理だろうとのこと。

幸いにして国連も「援助大国である日本を最大限に支援する」と表明してくれているらしい。

壊滅状態に陥った東北地方は少子高齢化の日本を象徴する地域であり、生涯に渡って築き上げた財産のすべてを失った高齢者の方々が、自力でこの惨状を克服するのは不可能だ。

僕に何ができるか?何かできたとして、どれだけのことができるか分からないが、高度経済成長の恩恵を享受し、高い教育を受けた僕たちの世代には大きな責任がある。

日本の復興に向けて、出来る限りのことをしていこうと思う。

ところで、僕の実家は「福島県(郡山市)」ということもあり、軽度ながら被災した。

何かの参考のために、記録の意味も含めて、今回の出来事を書き留めておくことにする。

3月11日(金)14:46、僕は恵比寿駅西口の交差点にいた。

募金を募って座っていた人が「地震だ!」と叫んだ直後、三井住友銀行から大勢の人が走って出てきた。

いったい何でこんな時に日本に来てしまったんだ?と思ったのだろう。僕の隣に駆け寄ってきた外国人は「Jesus ! Oh, my God !」と叫び、泣きそうな顔をしていた。

古いビルは今にも倒れそうで、みんな、建物から離れて車道の中央に避難した。

その時点では、まさか、こんな惨事になるとは予想せず、僕はあるアポイントで代官山まで歩いた。

階段を昇り先方のオフィスに着き、テレビを見ると、ハリウッド映画でも見ているかのような「津波」が、人やクルマを飲み込んでいく映像がライブで中継されていた。

俄には信じられない光景だった。

電話もSMSも通じず心配していたが、余震が収まったのを見計らって帰宅すると、妻も子供も帰宅していた。

代官山の後も曙橋でアポがあったが、「今日の打ち合わせは中止しましょう」というeメールが来た。

友人、知人の安否はTwitterとfacebookで確認でき、インターネットというテクノロジーの素晴らしさを改めて実感した(早速、妻と末弟夫婦にもTwitterのアカウントを取得させた)。

そろそろ寝ようかと思っていると、数時間の遅れで「着信」案内のSMSが届き、弟(次男)から電話があったことを知る。電話をすると、出張先の「京都」で足止めを食らっているとのこと。

翌日の新幹線で東京までは来たものの、僕たちの実家がある福島県郡山市まで、どうすれば帰れるか?調査を始めた。

東北自動車も東北新幹線も不通であり、一般道を通って行くか?クルマはどうするのか?上野で町工場を経営する叔父に電話をすると「4号線は大渋滞。明日まで様子を見た方が無難だ。途中でガソリンが無くなったら大変だぞ」とはやる気持ちを諭される。

東北本線(在来線)はどうか?ANAが福島空港まで臨時便を飛ばすらしい・・・等、様々なオプションを調査した結果、東武鉄道でまず日光に行き、会津若松に抜ければ、そこからタクシーで郡山まで行けるのでは?ということになった。

因みに、会津若松駅周辺のレンタカー営業所に電話が繋がったが、乗り捨ては拒否された。そもそも郡山の営業所と連絡がつかないとのことだった。

そんなことで翌朝(3/13)、弟を送って何年かぶりで浅草まで行き、初めて東武鉄道のホームに行った。弟を見送った後、次いでと思って駒形橋の袂まで行くと、スカイツリーが大きく見えた。

弟は約7時間(新幹線なら1時間20分)をかけて無事、郡山に到着した。

津波と「原発」で大変な状況になっている「いわき市」と較べれば、被災の程度は軽かった郡山だが(それでも住宅が半壊した親族もいた)、市民は軽いパニック状態に陥ってるらしく、スーパーは長蛇の列、食料品の店頭在庫は無くなりつつあるらしい(現時点では、もう無いだろう)。

そして、市中の「ガソリン」が底を付き、身動きができないとのこと。

さて、気がかりな「いわき市」だが、避難勧告を受けた親族が昨晩、郡山の実家に避難してきたそうだ。

海側には何人かの親族が住んでいるが、ひとり、連絡が取れない人がいた。末弟夫妻の家に集まり、あの手この手で連絡を取ろうと試みた結果、ようやく話ができた。

これから避難してくる人を含めて、計8人が僕たちの実家に集合することになったらしい。

こうして自力で動くことができ、尚かつ、身を寄せられる親族がいる人はいいが、そうでない人達が大勢いる。

いつ帰れるかも分からず、避難所で寝泊まりする方々のストレスは相当なはずだ。

ましてや、こうしてブログを書いていられる僕は言うに及ばずである。

ところで今朝、新しく始めた仕事でオフィスに行くと、人影はまばらだった。

関係者と最低限のMTGをし、昼過ぎには僕もオフィスを出た。

弟に頼まれた荷物を送ろうと思いコンビニ(宅配便)に寄ると、関東以北には送れないという。郵便局でも同様だった。

今回の地震は、太平洋側の東北地方すべてにまたがり、500kmにも渡ってプレートが破壊されているわけで、当然と言えば当然である。

尚かつ、気象庁によれば、これから3日以内に、マグニチュード7.0以上の規模の余震が「房総沖」で発生する確率が「70%」だという。

もし、本当にそのような地震が起き、東京が被災したら、いったいどうなるのか?

既に東北地方の半分が壊滅状態であり、首都圏への電力供給のかなりの割合を占めている福島原発が破損したのである。

僕には、どうやって復興するのか?その具体的な手順をまったくイメージできないが、相当な長期戦になるのは間違いない。

そんな中、ETICの宮城さんがベンチャー関連の経営者に向けて送ったというメールが届いた。

阪神淡路大震災および新潟中越地震の復興支援に携わった専門家や現場リーダー経験者やある財団と共に、「震災復興リーダー支援プロジェクト」を立ち上げるという。

僕も出来る限りの支援をしていきたい。

追記1:海外のメディアが報じる原発の建家爆発の映像。信じられないという表情で言葉を失っているアナウンサーの方が印象的だ。

追記2:何事も批判することは簡単だ。国民一人一人が自分に出来ることを全うすることでしか、この惨状から日本を復興させることはできない。

激震から一夜明けて。

弟が出張先の京都から郡山(福島県)に戻れず、先程、東京駅で拾う。

帰りにコンビニに寄ったら食料は補充されておらず、空っぽ。
お釣りが不足しているとのことで、クレジットカードで買い物。

取り敢えず、ちくわやかまぼこ、パウチされたマリネ等を買い込んで帰宅した。

原発のある浜通り(いわき)には親戚が住んでおり、心配である。

仙台、南相馬、釜石等の被災の激しさには言葉が無い。一日も早い復旧を祈りたい。

尚、東京電力の発表によると、東京は今夜18時~19時にかけて停電が懸念されるという。

節電に心がけよう。