「カダフィ大佐」と「菅首相」。

今月は、アメブロでブログを書き始めてからの最低更新回数を更新してしまった・・・。

それはさておき、今日は久しぶりにドリームゲートの仕事(エンジェルズゲート)があった。

元日銀総裁の福井さんが会長を務められているSEOU会でのプレゼンに臨む「4人」を争って、10数人の方がプレゼンテーションをされる。

僕の仕事はその審査員であり、ある意味で、10数人の方の起業家としての人生に影響を与えることになり、責任を負っている。

また、彼らのプレゼンを聴いていて、「日本は確実に変わる」という想いを強くした。

シュリンクする経済、破綻寸前の国家財政、世界で「たった1億人」にしか流通していない「日本語というマイノリティな言語」を「母国語とするハンディ」、機能不全に陥って久しい政治、そして、逆三角形のごとく少なくなっている若い人(R.O.I.が低い)が「勝ち抜けた高齢者(R.O.I.が極めて高い)」の方々を支えなければいけない構造的問題を直視し、最初から「世界」を見据えて起業している人が何人もいた。

僕たちネット第一世代では考えられないことである。

彼らの活躍を期待したい。

ところで、破綻寸前の国家財政に関して言及すると、1991年時点では、歳出総額「69.3兆円」に対し、税収が「60.1兆円」あり、単年度としては許せる範囲だった収支が悪化し始めたのは1992年度(平成4年度)からだが、その後、暫くは「税収」は「50~54兆円」で横ばいだったにも関わらず、歳出つまり「使うお金」が、その後の4年で「80兆円」ちかくまで増大し、6年後(1998年)以降は「80兆円」を突破し、坂道を転げ落ちるように今日に至っている。

平たく言えば「収入が増えないくせに、支出だけ増やしてきた」ということだ。

その行き着く先は、小学生でも分かるだろう。

問題は「使ったカネの恩恵に与った人がいる」ということであり、それ以外の人にとっては、買い物をしていない(役務を提供してもらっていない)にも関わらず、「請求書だけが送られてきている」という状況だということだ。

さて、リビアでは往生際の悪い「カダフィ大佐」が、まだ政権にシガミツイているらしいが、時間の問題だろう。

翻って、我が国はどうか?

菅内閣の支持率は、今日の日経朝刊によると「22%」、FNN調査では何と「18.7%」にまで下落したらしい。

「耳障りの良い」ことの幕の内弁当のようなマニフェストを掲げ、ポピュリズムここに極まれり、という感じの民主党は、言ってみれば、国民の望む(僕は望んでいなかったが)ことだけを「テンコ盛り」にした結果が、皮肉にも支持率の低下を招いているということだ。

所詮は「寄り合い所帯」の民主党は、政権を奪取した瞬間に目的を果たしてしまったわけであり、党内の求心力は失われ、政策よりも権力闘争と化してしまったのは、ある意味、当然の帰結とも言える。

まあ、そういう僕自身、民主党に1票を投じたわけで、高い代償を払ったということだが、あの時は、それ以外に選択肢が無く、仕方がなかったと思っている。

問題はこれからどうするか?だが、菅さんも小沢さんも鳩山さんもみんな退いていただき、「老害大国」の汚名を返上し、50代半ば以下の「若い世代」に実権を渡して欲しい。

小泉さんのように「歯切れが良く(しがらみがない)」尚かつ「後味も良い(権力に固執しない)」政治家を切望する。

鳩山さんのように「引退を撤回」するようなことなく・・・。

武力ではなく、民意によって、旧態依然とした政治体制は包囲されている。

中東とは違った形で、真の「民主化」を望みたい。

敗北感。でも、季節はまた巡ってくる!

昨年の4月から兼任講師としてお世話になってきた法政大学経営大学院イノベーション・マネジメント研究科のプロジェクト(事業プランの立案。一般的な大学院でいう修士論文に該当)最終発表会が昨日、終了した。

約60名の学生の内10名が、ボアゾナードタワーと呼ばれる高層ビルの最上階で行われる最終ラウンドに進める。

最優秀者には「奨学金(事実上の賞金)」として「50万円」が贈呈される。

その最終ラウンドに、小川・平石ゼミからは、残念ながら、ひとりもノミネート者を出すことができなかった。

今までに経験したことのない「敗北感」を味わった。

甲子園に行けなかった高校野球チームや、J1に昇格できなかったクラブの監督の気持ちが分かるような気がした。

でも、スポーツのように結果が明確な仕事は、好きだ。

来年度を同じチームで戦うことはできないが、良いメンバーに恵まれたと思う。とても楽しい一年間だった。

そう、小川先生のブログにあるとおり、「教授の評価」と「事業の成功」は必ずしも一致しない。

彼らのこれからの人生が充実したものになることを祈ると共に、今年の反省を来年度に活かしたい。

「季節はまた巡ってくる」。

失意の頃、マーケティングジャンクションの吉澤さんから教わった。

坂の上に雲はない?

東京は悪天候だった先週末を挟んだ数日、僕たち家族はここ数年、恒例化?しつつある、サイパンに出掛けていた。

昨年からは子供の保育園繋がりの友達3家族と一緒に行くことになり、今年も同じメンバーだった。

サイパンを選んでいる理由は「安い」「近い」「海がキレイ」「安全」の4つ。

お隣のグアムにも一度だけ行ったことがあるが、米軍の施設があり、経済が発展している反面、僕はテロのリスクを感じてしまう。

4つ目の「安全」というのは、そのリスクがサイパンにはない(だろう)という意味である(その分、寂れているのも事実)。

ハワイと較べて「半額以下」で、所要時間は「約1/3(3時間)」。

ゴージャスな気分には浸れないが、ビーチシュノーケルで「熱帯魚」が見れるスポットもある。

ところで、わざわざサイパンまで行っても、親達の会話は専ら「子育て」である。

その「子育て」の延長線上の話として、とても考えさせられたコラムが2つあった。

一つは、前参議院議員の田村耕太郎氏の「『一生現役』の時代が到来!」。
もうひとつは、河合薫氏の「企業の“オトナ買い”に振り回される若者の悲惨」。

田村氏のコラムの内容を簡単に説明すると、「国家財政上も人口動態面からも、われわれの優雅な引退を次世代が支えてくれることはない。引退したら自分を養えなくなる」ということだ。

ひと頃まで、今世紀は新興国中心の「人口爆発」が懸念されていたが、今や「人口破綻」が議論のテーマになっている。

「人類の人口急増は“労働集約型経済”の時代に起こった。今世界で広がっているのは知識集約型経済である。知識集約型経済への変化が人口急増に歯止めをかけ、人類が初めて経験する規模とスピードで人口減少社会をもたらすとみる」。

たしかに、そう思う。

「労働集約」型経済の時代には、子供は「6歳」にもなれば、農耕や家内制手工業の立派な「労働力」として「稼ぐ」存在だったが、「知識集約」型経済の時代になると、少なくとも20際過ぎまでは高度な教育を受け、尚かつ、その後はビジネススクールだのロースクールだの会計大学院等に進むケースも多く、膨大な教育費が発生する。

「労働集約」型経済の時代には、8人の子供を持つ(因みに、僕の父は6人兄弟で、内1人は幼少期に死亡。母は、7人兄弟で、内1人は幼少期に死亡)ことは大きな恵み(6歳から稼いでくれ、尚かつ、老後の面倒も看てくれた。実際、僕たち家族は、父方の両親と同居していた)だったが、それは遠い昔の話である。

これからは「農業」も、I.T.バイオ、ナノテク等を活用することになるだろうから、子供では何の仕事もできない「ハイテク産業」になる。

一方、次世代が老後の面倒を看てくれる人口構造にはないが、我々の「寿命」は「伸びる」。

日本は「GDPの2倍」の公的債務を抱えている。

「年金?」。バカなことを言うんじゃない・・・という時代になるだろう。

子供の養育費を払い終わった後、いったいどうやって食べていくのか?

では、子供達はどうだろう?

昨今の「就職難」はとても気になる話だ。

河合薫氏のコラムで初めて知ったが、最近は「一芸枠採用」なるものがあるらしい。

詳細は彼女のコラムを読んでいただければと思うが、どうやら「組織に馴染まない人材(尖った人材)」を採用しようという試みらしい。

でも、そんなものは「論じるに値しない」と思う。

何故なら、パナソニック等の国際的な企業を中心に、中国人等の「外国人学生の採用」を増やしているわけで、日本人の中で尖っただの丸いだのと言っていても始まらないだろう。

因みに、香港では、日本人学校ならぬ「日本人『補修校』」の設立が進められているという。

今までは「現地『駐在』員」として海外に赴任していたエリート社員の人達は、今後は「香港からドバイに赴任してくれ」というような具合になり、日本に帰れる保証はどこにもなくなる時代が来ようとしている。

つまり、現在の「駐在」先には「日本人学校」があるかもしれないが、次の赴任先でもある保証はどこにもなく、であれば、インターナショナルスクール(英語圏であれば現地校という選択肢もあるだろう)に入れることになる。

となると、日本の文化や漢字の習得等、「補修」をしてくれる学校が欲しい、ということのようだ。

そりゃそうである。

パナソニックやソニー、トヨタもそうだろうが、売上の過半を海外で稼いでいるわけで、日本の本社に大勢の社員を置く理由はどこにもない。はっ���り言って、不要である。

となると、言葉だけが一人歩きをしている「グローバル人材」なる概念が、本当にリアリティを持つ時代になると思う。

これは「不可逆的」である。

僕の友人でも、既に「7ヵ国」での「駐在?」を経験し、現在はモスクワで仕事をしている「グローバル人材」がいる。

彼以外でも、日本以外でも仕事をしていけるだろうという知り合いが、10人は下らない。

ところで、僕の妻は、今から「老後」の心配(生活費をどうするか?)をしているが、それでも子供の教育にかける想いは並々ならぬものがある。

それは、彼女に限った話ではなく、サイパン旅行の3家族とも同じである。

僕は、自分たちの子供が将来、どんな職業に就こうが構わないと思っているが、ひとつだけ大切にしたいと思っていることは、「本人の良さ」や「持って生まれた才能」を「発見」し、伸ばしてあげること。

そして、それが親の責任であり「教育」であると思っている。

事実、彼は2歳9ヶ月の時、自分からバイオリンを習いたいと言い出し(練習嫌いで上達は遅いが)、ひとりで遊んでいる時は必ずと言っていいほど「歌」を歌っている。おもちゃのピアノも楽しそうに弾いている。

でも、運動神経では、保育園繋がりの友達に逆立ちしても敵わない。

それでいいのである。彼には彼の良さがある。

「坂の上に雲はない」かもしれないが、子供達の将来に「投資」できる人間になりたいと思う。

「都営住宅」と「ミルトン・フリードマン」。

修士論文が本日提出(2/10)で、その指導で慌ただしいところに、投資先で対応しなければならないことが重なり、またしても、ブログの更新が滞ってしまった。

ところで、東京にお住まいの方以外には、どこのことか分からないと思うが、千駄ヶ谷小学校の交差点から外苑西通りに向かった千寿院交差点の近くに、老朽化が激しい都営住宅(おそらく)がある。

人が住めるのか?というぐらいのその都営住宅を目を凝らして見ると、何世帯かは住んでいるようである。

実際、敷地内には、新車で購入したと思しき「高級ステーションワゴン」が何台か停まっている。

そもそも、都営住宅(公営住宅)というのは、低所得者向けに「行政」が「福祉」目的で建設し、運営しているわけだが、その効果を考えた時、民間の賃貸住宅に住むための費用の「一部」を補填することと何が違うのだろうか?

管理費や立て替え費用、また、税収等を考えると、行政が住宅運営をすることは、理に適っているとは思えない。

ミルトン・フリードマンの名著「資本主義と自由」での議論そのものである。

例えば、外苑西通りという「一等地」の「土地の価格」を考えた時、その敷地を民間に売却することで、敷地面積によっては何十億円という資金が東京都に入ってくることになる。

加えて、民間のディベロッパーがマンションを建設することにより、「内需(建設、インテリア等)」が創出される。

お金持ちの中国人(外貨)が購入してくれるかもしれない。

さて、冒頭で「高級ステーションワゴン」の話をしたが、僕が推測するに、老朽化が激しいその都営住宅に住んでいる人は、経済的弱者ではないように思う。

日本の法律では、借家人の方の権利が手厚く保護されており、立ち退いてもらうことは容易ではない。

あの土地があのままで放置(遊休地と言っても過言ではない)されていることに、僕は大きな疑問を感じている。

「過去」は変えられる。

東京は一昨日あたりから寒さも和らぎ、この冬の峠は越えたようである。節分とはよく言ったものだ。

ところで数日前、伝説のホテル(まだ建ってはいない/笑)の鶴岡さん、前刀さん(現リアルディア、元アップル日本代表)と僕と3人で、とあることをテーマに食事をした。

「入れ替わり立ち替わり」という表現は会話に関しては使わなかったと思うが、この表現が相応しいほど、色々な話で盛り上がった。

その中でいくつか、印象深い話を紹介したい。

ひとつは「過去と闘っている人は、人生を損している」という話。

鶴岡さんがある人から聞いたそうだ。

三角形の頂点から真っすぐ下に降りたところ(底辺の中央)から、左側が「過去」、右側が「未来」。そして、それは「等距離」だという。

例えば「過去と闘っている人(悔やんだり、恨んだりしている人)」は、その度合いが強い程、底辺の中央から「左」に距離を持っており、つまりは、それと「等分の不安」を「未来」に対しても抱いていることになる。

その両点から真上に線を描くと、左右の斜線(二等辺)にぶつかるわけだが、その「高さ」までしか「持って生まれた能力」を発揮できていないらしい。

「過去」と闘っていない人は「未来」に対する不安がなく、もし「過去との闘い」が「ゼロ」だとすると、真上に描いた線は「三角形の頂点」を指す。

科学的根拠はなく(おそらく)、考え方の「例え」なわけだが、なるほど!と思わせるものがある。

そういう意味では、僕は「過去と闘っており」、持って生まれた能力を発揮できていないことになる。

「損な生き方」である。これはすぐに改めないといけない。

そうである。「過去(の失敗)」から得たものは多い。

2つ目の話は、仕事に関するもの。

マズローの5段階欲求説(実は6段階目があった)のように、仕事に対する姿勢や意味も「4段階」あるという(これも科学的根拠に基づく話ではないと思う)。

4thフェーズ:ライトワーク(Light Work:天命に導かれる仕事)
3rdフェーズ:ライフワーク(Lifework:一生の仕事)
2ndフェーズ:ライクワーク(Like Work 英語になっていない/笑:好きな仕事)
1stフェーズ:ライスワーク(Rice Work:生活のための仕事)

上に行くほど次元が高く、下の2つは「自分」のため、上の2つは「仕事に対する哲学」あるいは「原理原則」に則った仕事ということだ。

どちらの2つがより多くの人々の共感や支援を得られるかは、言うまでもない。

こちらも、説得力がある。

ところで、前刀さんと鶴岡さんに共通することは、その種類は微妙に異なるが、ふたりとも「超ポジティブな思考」の持ち主だということ。

そこが僕と大きく異なるところだ。

見習いたいと思うが、人間には「持って生まれたネイチャー」というものがあり、努力して変えられるものと変えられないものがある。

でも、共通するところもある。「チャレンジャー」だということだ。

「過去」から学び、チャレンジも「自分らしく」。

追伸:「Light」には「光で~を導く」という意味がある。

自分が受け取れるものは、自分の器以上にはならない。

今朝は久しぶりに子供を保育園に送り、帰り道にあるスタバに立ち寄った。

幸運にもお気に入りの席が空いており、そこに座ると、この前、来た時にも聴いたバーバラ・ストライザンドの曲が流れていた。

Shazamという、流れている曲を聴き取り、何という曲かを教えてくれるアプリで、彼女の曲だということを知った。

ところで、年間100冊という無謀な読書目標を立てたことは以前のエントリーで書いたが、1月に読めたのは「2冊」。

時間を捻出することが如何に大変かを痛感する。

現在読書中なのは「イノベーションへの解」。

とても勉強になる本である。

もっと早くに読んでいれば…とも思うが、仮にそうだったとしても、理解力が伴ったかどうかは分からない。

事実として、2年前、自宅にあったドラッカーの本を読もうと思った時、途中までとはいえ、まさか以前に読んだことがあったとは考えてもみなかった。

読んだどころか、ご丁寧に「マーカー」までひいてあった。

スポーツで技術を磨きたければ、まずは基礎体力をつける必要があるのと同じで、仕事や勉強においても、基本的な能力が無ければ、得るものは少ないということだ。

実務を経験した後ではバカバカしくて勉強できないものもあるが、実務を経験していないと、その本質(意味)を理解できないこともある。

「リカレントな教育(学習)」が必要な所以である。

特に、職業人としての寿命の方が、今の自分が所属している組織や産業のそれよりも長くなった今日においては…。

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