指導者の責任:サッカー日本代表の本田選手は変わったのか?

土曜日はサッカーを諦めて24時前には就寝したが、日曜日の朝も疲れが残っていた。

日曜日は午後から友人夫妻が遊びに来ることになっており、それまでに少しでも体力を回復させようと、子供と遊びつつも断片的に仮眠をした。

そんなことで、書きかけのエントリーをアップできず、今日のエントリーはその「続き」である。

「準備不足では試合に勝てない」という話だが、20代の頃の僕は、一生懸命、仕事に打ち込んでいたし、危機感が無かったわけではない。

むしろ、危機感はあった。

平たく言えばバカだったということだが、どうすれば試合に勝てるのか?どんな準備をすればいいのか?それが分からなかった。

もっと言えば(事の本質は)、自分は「どの試合に出たらいいのか?」が分からなかった。

同じ環境で育っても、きちんと自分の「価値観」を「自覚」することができ、「自分を生かせる職業」に就いている人もいるわけで、周囲や他人に責任を転嫁してはいけないが、僕の場合、それが出来なかったということだ。

それは、それまでの僕が、自分の「良さ」を活かして何かを達成する(達成感や充実感を得ること)という「成功体験」を積んで来れなかったことが原因だったと思う。

勿論、単発というか、瞬間的な成功体験は経験してきていたが、永続的というか、これでやっていけば大丈夫だと思えるレベルにまで至っていなかった。

以前にも書いたことがあるが、僕は「教育」というものは、「相手の人生」を考えて施すものだと思っている。

同じサッカー選手でも、その人の「価値観」や「性格」によって、向くポジションと向かないポジションがあるという(たしかにそう思う)。

まずは、自分で自分のことを考えることが前提だが、「指導者の責任」は、本人が気づいていない自分に気づかせてあげることや、本人が自分の道を自信を持って進んでいけるよう助言をしてあげることだと思う。

サッカー日本代表の本田選手は変わったのか?

興味のある方は是非、このコラムを読んでみて欲しい。

「面接と面談」の違い:「準備不足」では試合に勝てない。

昨日は朝からビッシリ修論指導。

前日の深夜、誘惑を断ち切れず、イチローと糸井重里の対談番組を見てしまい、睡眠不足の頭と身体にはヘビーな一日だった。

ところで、今月は、イノマネの2年制の方々の来年度の主査(事業化プランおよび修士論文の指導教員)決定のための面談が行われているが、そのことについて、小川先生のブログに興味深いことが書いてあった。

詳しくは、小川先生のブログを読んでいただければと思うが、何事も「準備」が大切ということである。

因みに、僕は学生の方から面談を申し込まれた際は必ず、学生名簿にあるプロフィールを読み、面談相手のバックグラウンドや人となりを理解してから会うようにしている。

アポの前に、その会社の基本情報をチェックしておくのと同じことで、何事も「予習」をした方が得るものが多いということだ。

でも、そういう僕も、20代の頃は、その手のことに「疎い」人間だった。

その理由は色々あるが、「自分に自信が持てなかった」ことが大きかった・・・(次のエントリーに続く)。

何かを諦める。

今月は頑張ってブログを書こうと思っていたが時間が取れず、前回のエントリーから一週間が空いてしまった。

正確に言うと、時間が無くはなかったが、物事の優先順位を考えた時、他のことを優先せざるを得なかった。

ところで、facebook と twitter に書き込んだが、僕も何度か取材をして頂いたことのあるVentureNow主催のVentureNow Live 4 に来ており、会場でこのエントリーを書いている。

先程まで、元価格コム社長のアキタさんとビデオジャーナリストの神田さんのトークセッションがあったが、アキタさんの話は相変わらず飾りっ気がなく面白かった。

話は変わるが、昨日は行きつけの美容室で髪の毛を切った。

通い始めて今年で20年になる「アクア(僕が通い始めた頃は、オペラとという名前だった)」は、ひと頃の「カリスマ美容師」ブームの火付け役だった綾小路さんが立ち上げた美容室だが、彼とは僕が最初の会社を立ち上げた28歳の頃、たまたま、ある雑誌の取材で知り合った。

ここ数年は、綾小路さんは店に出る日数が限られており、最近は、彼のアシスタントだった角(すみ)さんという方に切ってもらうことが多い。

その角さん、初めて会った時は、まだ21~22歳だったが、今やアクアの主要メンバーのひとりである。

最近は(今年は4度目の年男ということもあり、特に)年齢を意識することが多くなったが、他人の年齢を考えると、時間の経過をより一層、実感する。

綾小路さんが担当していた幼稚園児は大学生になり、ビットバレーで盛り上がっていた2000年生まれの子供は今年で11歳、小学校5年生になる。

持って生まれた才能や能力には差があっても、時間だけは、すべての人に「平等」に与えられている。

何かを形にするには、最低でも4~5年はかかる。

それは、運も含めて色々な要素が上手く噛み合っての話であり、実際には10年はかかるだろう。

あれもやりたい、これもオモシロイと思っても、自分はひとりしかいない。

Jリーガー兼プロ野球選手という人はいないわけで、何かを選ぶということは、何かを諦めるということだ。

「3度目の年男(インタースコープを立ち上げた)」の時も、同じことを考えたことを思い出す。

あれからほぼ12年。「人生は短い」。

iPhoneからの投稿

「コンテクスト」を共有できるプラットフォーム。

予定よりも一週間遅れて「企業家とは何か(J.A.シュンペーター、清成忠男訳)」を読了。

評判どおり、シュンペーターの文章は回りくどく読み難い本だったが、得るものは多かった。

「いまこそ、ケインズとシュンペーターに学べ」と併せて、後日、書評を書きたいと思う。

さて、今年3冊目の本は、クリステンセンの「イノベーションへの解」。

読みかけのままの「イノベーションのジレンマ」を読もうと思ったら、山川さんから「こっち(解)を読んだ方がいいです」と勧められた。

まだ30ページほどしか読んでいないが、とても示唆に富んだ内容で、読了した時に何を得られているのか?が今から楽しみな著作だ。

話は変わるが、1997年の発足当時から登録をしている「surveyml(当時は Internet Survey Watch と言っていた)」という「メーリングリスト(ソーシャルメディア全盛の今となっては古典的な香りが漂う)」で、とても示唆に富んだポストがあった。

投稿主は、高広伯彦氏。

その内容は、自分の考えが「自分の考えているとおり正確に相手に伝わることはない」ということ。

一説によると、自分の考えや想いを言葉にした瞬間、伝えたいことの「70%」しか伝わらず(受け手の理解力にもよる)、それを受け取った相手がまた別の人間に伝えるとさらに「70%」となり、階層を2つ経ると、自分が伝えたいことの「49%(半分弱)」しか伝わらないらしい。

つまり、講演等で自分の伝えたいことを伝えようと思うなら、言葉の定義を明確にし、解釈が人によって幅がある題材や表現はできるだけ避け、メッセージをシンプルにする必要がある。

僕のブログにしても、僕が言いたいことが100%伝わることはなく、僕を直接知っているか?また、その付き合いが深いか浅いかで、僕のブログの「コンテクスト(文脈)」や「行間」に対する理解が大きく異なるのは間違いない。

それを踏まえて書く必要があるということだ。

また、この話題に絡むことで、もうひとつ、高広さんはシャープな指摘をされていた。

Twitter や facebook 等のいわゆるソーシャルメディアでの情報発信&受信が多くなってきた現在は、情報の発信力が増幅され、広範な意見交換が可能となっているというポジティブな面がある一方、自分が発信したテーマに関する共通の知識・理解のない人に、自分の意図することとは異なる「解釈」がされ、不必要な誤解や軋轢を生むというリスクも存在する。

高広さんが言うように、オープン過ぎるソーシャルメディアは、時として「コンテクストレス」な状況を生み出すということだ。

僕がどちらかというとTwitter よりも facebookを好む理由のひとつでもある。

また、未だにこうしてブログを書いているのは、字数制限もなく、自分の伝えたいことが伝えられるからという理由が大きい。

さらに言えば、コンテクスト(共通する知識・理解と関係性)を共有できる人達とのプラットフォームが欲しいと思っている。

インターネットリサーチ研究会が機能したのは、黎明期のインターネットリサーチを普及させたいという「インタレスト(問題意識と目的)」と「コンテクスト(共通する知識・理解と関係性)」を持っていたからだと思う。

そういう意味では、どうすれば「イノベーション(革新)」を起こせるか?「イノベーティブな組織であり続ける」にはどうすれば良いか?という共通の「インタレスト(問題意識と目的)」と「コンテクスト(共通する知識・理解と関係性)」を、研究者という立場ではなく、実際に「ビジネス」を立ち上げようとしている(&既にしている)人達と共有できるプラットフォームが創れたらと思う。

マズローは、実は「(自分が属する)コミュニティ発展欲求」という「6段階目の欲求」の存在に気がついていたらしい。

The PIECs(The Platform of Innovation and Entrepreneur’s Community)

こんな感じのプラットフォームを創りたい・・・。

そういう意味では、法政大学経営大学院イノベーション・マネジメント研究科での仕事は、そこへ繋がる「コンテクスト」を持っているような気がしている。

追伸:昨年の今頃の僕は、Twitter の魅力に取り憑かれていたようだ・・・。何事も性急な判断は危険であるw。

「若者」は本当に「公務員」になりたいのか?

昨日のエントリーで、僕にとっての成功は「プライベート」なことが中心であり、仕事はそのための「手段」に過ぎなかったと書いたが、では、おカネになれば何でも良かったのか?というと、勿論、そうではない。

もし、そうだったのであれば、わざわざ起業する必要もなく、また、これほど苦労せずに済んでいるはずである。

僕が目指していたのは、下のグラフで言えば「左上」であり、自分なりに一度は成し遂げたし、一度は成し遂げるプロセスに参加した。

さらに言えば、プライベートを含めて左上のような「���き方」に拘ってきた。

つまりは、極めて「難易度が高く、成功確率は低い」選択をしてきたということだ。

妻に言わせれば「(自分の能力を顧みず)なんでわざわざ好き好んで困難な道を選んでいるのか?」ということであり、誰のせいでもなく、自分自身の「選択(責任)」である。

シリアルアントレプレナー  「3度目の起業」と「初めての子育て」
※出典:「企業家とは何か(J.A.シュンペーター、清成忠男訳:東洋経済新報社)」より。

さて、前置きが長くなったが、今日のエントリーは、年初のエントリーで書いた「数字」に関するもの。

実は、その「数字」に関するエントリーについて、かれこれ10数年来の友人から、「平石さんの数字を挙げての論を読みたいとは思いません。それなら大前研一を読みます」というメールを頂戴した。

因みに、その彼は、僕のブログを初回から一度も欠かさず、すべて読んでくれているという。

彼の言いたいことは、僕の「持ち味」や「良さ」は、数字や理論にあるわけではなく、別のところにある、ということだった。

たしかに、そうなのだろう。

ところで、彼とは2~3往復ほどメールのやり取りをしたが、今度は「数字」に関するお題を頂戴した。

彼はそのメールで、ある「調査結果」を紹介し、それについて僕のコメントを求めてきた(質問設計者がどこかは分からないが、調査実施機関がマクロミルというのが何とも因縁深い)。

その調査では、職業に関する「選択肢」がいくつか並んでおり、一見するとたしかに「公務員(19.8%)」が最もスコアが高く、「若者(新成人)」は公務員を志望しているように見えなくもない。

でも、他の選択肢を見て欲しい。

「会社員(技術系)」「会社員(事務系)」「会社員(サービス系)」
「会社員(労務系)」「会社員(その他)」

「会社員」を合計すると、「35.4%」となる。

つまり、「会社員(35.4%)」v.s.「公務員(20.0%)」というのが正確な「数字」の見方である。

僕は、調査設計者の「意図」を感じた。それは、僕の勘ぐり過ぎだろうか?

因みに、調査の世界では「分析3年。(質問)設計8年」という格言がある。

また、文中にある「具体的にどのような不安を感じているのか」という、不安の「中身」に関する質問の回答として紹介されているのは、「先輩たちの就職難を見ているから」「ニュースで雇用の悪化が伝えられているから」等、不安を感じる「理由」に関するものとなっており、質問に対する答えになっていない。

ところで、ある人から「某省庁」が「求人」で苦労をしているという話を聞いた。

この話は彼からだけでなく、マスコミも含めて、よく聞く話だが、「東大卒=国家公務員(官僚)」という「構図が崩壊」し、給料の良い外資系の投資銀行やコンサルティング会社等に、彼らエリートを奪われているということだ。

「数字」は「説得力」を持つ。

だから、世論を「ミスリード」するリスクがあるし、数字を述べる際には、その「責任」を「自覚」する必要がある。

彼の意見に真摯に耳を傾けて、自分自身の良さを大切にしたいと思う。

僕にとっての「成功と失敗」。

「丸山茂樹」選手は惜しかった。一日で36ホールは、年齢的にハンディがあったと思う。

でも、大きな自信になっただろうし、これからの活躍に期待したい!

ところで、センター試験ウィークエンドとなった週末。僕は土曜日の昼過ぎから、担当させていただいている学生の方々の修士論文の指導があった。提出日まで一ヶ月を切り、緊張感が漂い出した。

皆さんが納得のいく論文を書けるよう、出来る限りの対応をしたいと思っている。

ところで、その前日の金曜日は、クレア法律事務所主催の勉強会と新春賀詞交換会に出掛けた。

勉強会のテーマはインド。僕はインドに興味があるわけではないが、ドリームゲートのアドバイザリーボードでご一緒させていただいている古田さん(クレア法律事務所の代表弁護士)からのお誘いということもあり、その後の賀詞交換会を楽しみに参加させていただいた。

賀詞交換会では、何人かの旧知の知り合いに会ったり、初めての方と知り合ったりと有意義な時間だった。

ところで、その賀詞交換会の席で、ご本人がどれだけ意識されていたかは別として、ドリームゲートの松谷さんから頂戴した「インタースコープとかはどうでもよく、平石郁生としての『成功と失敗』は何なんですか?」というひと言はインパクトがあった。

どんな文脈だったかは省略させていただくが、彼のひと言を踏まえて、今までの人生において、僕個人としての「成功」や「失敗」は何だったのか?この週末はずっと、そのことを考えていた。

僕にとっての「成功」は、

・「尊敬できる両親」のもとに生まれたこと(当然だが、僕の努力ではない)。
・「結婚」できたこと(幸いにして現在も続いている)。
・「子供」に恵まれたこと(幸いにして元気に育っている)。
・「家」を買えたこと。
・日本人は勿論、外国人も含めて「素晴らしい友人」に恵まれたこと。
・「色々な国々」へ行けたこと。ニューヨークへは約20回。その他ではタヒチ、オーストラリア、ロシア、中国、タイ、ベトナム、カナダ、トリニダード・トバゴ等(欧州にはまだ行っていない!)。
・ベンチャー企業の「創業」を経験できたこと。

などなど。

では「失敗」は何だったか?というと、

・「勉強しなかった(できなかった)」こと。

自分自身の性格はさておき(それさえも勉強していれば変えられていた可能性が高い)、今までの人生でのすべての「失敗の原因」は、上記に尽きると思う。

こうして振り返ってみると、他人(社会)がどう評価・判断するかは別として、僕にとっての成功(内的成功)の殆どは「プライベート」なことであり、ビジネスに関することがメインではない、ということ。

松谷さんのひと言で、そのことを理解することができた。彼には、心より感謝したい。

では、僕にとっての「失敗」である「勉強」だが、「しなかった」にカッコ書きで「できなかった」と付け加えたことには理由がある。

僕は中学に入って初めて「英語」の授業を受けた時、「世の中にこんなにおもしろいものがあったのか!!」というほどの衝撃を受けた。

あれから30年以上が経っているので、さすがにその時の感情は風化してしまったが、20代の頃までは、その感覚を忘れることはなかった。

実際、中学時代は英語の成績は良かった。以前にもこの話は書いたことがあるが、3年生になるまでは、予習も復習もせず、単語はすべて一発で憶えられたし、発音も褒められた。

その一方、「数学」は大の苦手だった。

僕が通っていた中学は50点満点だったが、英語は「45点以上」は取れていたし、他の科目も45点前後だったが、数学だけは「25~30点」だった。

しかし(受験に合格するという目的に対しては、正しい指導である)、中学一年生の時の担任の先生には、「英語と数学のどっちが伸びシロがあるか?」と指導された。

これも以前に書いたことだが、高校に入ると「古文」と「漢文」が嫌いになった。

「古文」の先生は「偏差値」教育の申し子のような方で、成績が悪い生徒に対しては、とことん追試を課した。

僕は勉強する気になれず、悪い点数を取り続け、先生が諦めるまで待った。

そうこうしているうちに、好きだった英語も勉強する意欲が無くなり、すべての勉強ができなくなった・・・。

今でもその傾向があるが、当時は今以上に「ゼロか100か」の人間だった。

精神的に弱かったという意味では「僕の責任」であり、責任転嫁はできないが、「生徒の良さ(才能)」を引き出すという意味では、当時の教育(今もそうかもしれないが)は、間違っていたと思う。

子供を持った今、その思いはよりいっそう強くなった。

僕たちの子供と彼の友達たちを見ていると、誰ひとりとして同じ個性はなく、ひとりひとり、全然違う人間だということを身を以て実感させられる。

雑草のような子供もいれば、我が子のように繊細な子供もいるし、運動が得意な子もいれば、音楽や絵が得意な子もいる。

「工業製品」ではなく、「芸術作品」である。

さて、「勉強」に関しては、父が生前、

「いいか。世の中には、2種類の人間がいる。ひとりは、人の話や本から学べる人間。もうひとりは、自分で経験しないと学べない人間。もちろん、経験することに越したことはないが、すべてを経験していたのでは時間がいくらあっても足りない。ところで、お前はどっちの人間だ?」

と言っていた話も以前に書いたが、それともうひとつ、書いておきたいことがある。

「スペシャリスト(専門家)として能力を発揮するには、自分の専門分野だけでなく『教養』が必要である。しかし、恐ろしいのは、そのことに気づくのは、スペシャリストになってからだということだ」。

誰かのブログかTwitterでこの言葉を読んだ時は、「痛いひと言」だと思った。

本当に優秀な人は、幼少期あるいは学生になった頃から、受験うんぬんではなく、自分が持って生まれた才能を発揮して、充実した人生を送るには「勉強が大切」であることを知っているのだと思う。

さらに言えば、そのことを知っていて、尚かつ「努力」した人だけが、持って生まれた才能を発揮し、充実した人生を送れるのだろう。

過ぎたことは仕方ないが、ドラッカーを読むようになって「あの頃、もっと勉強をしておけば・・・」と思うことが多く(強く)なった。

さて、僕にとっての「成功」の話に戻ると、結婚して、地方出身の僕が都心に家を買い、子供を育てることができているのは(結婚はさておき)、それは取りも直さず、自分の実力以上に「仕事が上手くいった」からである。

ソフトバンクの孫さんのような方を除き、大多数の人間にとって、その中身は違っても、人生の目的は「充実した人生」を送ることであり、仕事はそのための「手段」だということ。

そして、その手段を通じて、結果として「世の中がより良くなれば」それに越したことはない。

父親が生前、「目的と手段を履き違えるな」と言っていたが、そういうことだったのかもしれない。

仕事に関して言うと、山川さんと一緒に創業したインタースコープは勿論だが、大谷さんとふたりで設立した「インターネットリサーチ研究会」での活動は、自社(インタースコープ)の利益だけでなく、インターネットリサーチ業界の発展に大きく貢献できた(と思う)という点で、僕にとっては「大きな成功(誇りに思っている)」だった。

プライベート(子供の教育と旅行とゴルフ?)を充実させるためにも、もう一度、「自分にとっての成功」を成し遂げられるよう、「勉強」に勤しもう。

松谷さんとの「3勝3敗1分」の勝負もまだまだ続けられるように!

「三度目の奇跡」と「強さの条件」。

先日のWBS(ワールドビジネスサテライト)では、番組の趣旨に合致していたのだろう、ほんの3~4秒、「差し障りのない」僕のコメントが紹介された。

今後は、いつ何時、誰に何を聞かれてもよいように、自分の考えを整理しておくように心がけたい。

ところで、一昨日から「企業家とは何か(J.A.シュンペーター、清成忠男 翻訳)」を読み始めた(これまた、山川さんの推薦)。

シュンペーターの文章は「回りくどく」て読み難いとは聞いていたが、そのとおりだった。

さて、その本であるが、88/190ページ(進捗率:46%)まできた。

今週中に読み終えたかったが、それは無理そうである。

ところで、今日のタイトルは、日経新聞1面の「連載」のタイトルである。

「三度目の奇跡」は元旦から11日まで。「強さの条件」は今日(1/14)が3日目。

「三度目の奇跡」は、構造改革を断行できずにいる日本社会へ警鐘を鳴らす「批判的」内容だが、「強さの条件」は、日本経済の「強さ」にスポットライトを当てている。読んでいて、勇気が湧いてくる内容である。

スマイルズの「自助論」のとおり、「天は自ら助くる者を助く」。