「父」の想い出。

摂氏31度。

今日の午前中は、とある用事があり、クルマで出掛けていたが、車載の温度計を見ると30度を超えていた。

窓の外には、ほぼ一年ぶりの、夏の風景があった。

ところで、今日は、僕が24歳の時、55歳で亡くなった「父親」のことを書いてみたい。

今の母(養母)のことは何度か書いた記憶があるが、実際はどうかは別として、産みの両親のことをブログに書いた記憶がない。

でも、ここ1~2年は、彼らのことを考えることが多く、僕の思考のかなりのシェアを占めている。

僕の父は昭和6年生まれ。もし、生きていれば「79歳」。いったいどんな老人になっていただろう?

父は、地元(福島県郡山市)の総合両院の事務長をしていた。

理事長に仕えて病院経営の現場を取り仕切っていたわけだが、実母が亡くなる前は、完璧主義者というか鉄人のような人で、感情の起伏も見せず、弱音を吐くことなど勿論なく、子供たちから見ると、付け入る隙がない人だった。

その父は、母が亡くなった後、別人のようになった。

人懐っこくなったというか、人間っぽくなったというか、俗っぽくなったというか、とにかく、人間が丸くなった。

その変化は、当時15歳だった僕にも、はっきりと分かるほどだった。

父を変えさせたのは、物理的に配偶者を亡くしたということよりも、自分の妻がどういう想いで結婚生活を送っていたか?母の日記を読んで、そのことを知ったことが大きかったのだと思う。

子供だった僕から見る両親は、夫婦というよりも、大人の男性と女性が一緒にいる、つまり、感情で結びついているのではなく、理性で結びついている、という感じだった。

今の母(養母)と結婚してからの父は、以前とはまったく異なる人間になった。

肩の力が抜けて、いい意味で、普通の人間として人生を送っているように見えたし、母との生活も楽しんでいるように思えた。

ある時、母(養母)から、父のことについて、ある質問をされたことがある。

どうやら父はその頃、仕事で大変な時期にあったようで、仕事で疲れて帰ってきても、母は自分を癒してくれない・・・ということを言っていたらしい。

母がそのことを「どう思う?」と僕に訊いていたわけだが、僕は「それは親父の甘えだよな」と答えた。

今だったら、決してそうは答えなかっただろう。

でも、そうやって、自分の夫との間のことを僕に訊いてきた(話をしてきた)ことは、血の繋がりを超えた、親子の会話だった。

ところで、自分で言うのは何だが、僕はドリームビジョンで失敗をしたことにより、変わったと思う。

まだまだエエカッコしいだが、エゴがだいぶ薄れてきた。

話は変わるが、妻が言うには、僕たちの子供は、容姿と体質は妻に、性格は僕に似ているという。

たしかに、僕もそう思う。

ということは、彼も苦労の多い人生を送るのかもしれない。

大人になった彼の相談に乗れるまで、生きていたいと思う。