「羊」でいる代償は「退屈」。「狼」でいる代償は「孤独」。

日本は一年の節目が2度ある。

ひとつはお正月。もうひとつは4月。

そして、3月末から4月中旬にかけて、日本列島を「桜前線」が北上する。

別れの季節でもあり、出会いの季節でもある。

今朝、桜の名所のひとつ、千鳥が渕に立つ「武道館」の前を通ったら、東洋大学の卒業式の看板が出ていた。

彼・彼女達は、どんな気持ちで4月1日を迎えるのだろう?

ところで、ライブレボリューションの増永さんが、ご自身のブログで、某経済紙の社説にクレーム?をつけていた(3月18日付け某経済紙の社説のことと推察)。

彼はブログだけでなく、Twitterでも同様な趣旨の発言をしており、彼の主張は以前から目にしていたが、日本社会の「年度末」にあたり、僕なりの考えを書いておこうと思う。

増永さんの主張は、以下のふたつに要約される。

「年功序列(の賃金制度)は是」。
「人材の流動化ではなく、業態転換がし易い仕組みを考えるべき」。

最初の「年功序列」の「是非」については、まず「言葉の定義」を明確にする必要がある。

これが違っていると、議論は噛み合ない。

日本には「年季が入る」という言葉がある。

何事も「一流」になるには「修行」を積む必要があり、ある程度の「年月」が必要ということだ。

Yahoo! 辞書を引くと「長い間、修練を積んで確かな腕をしている」と書いてある。

つまり「年功」とは「年季が入った」ことであり、「年功序列」は何ら問題はない。

問題なのは「加齢」序列であり、入社後の「時間の経過」序列である。

僕はちょうと1週間後、またひとつ歳をとるが、そのことと僕の能力の向上は同義ではない。

また「年功?」序列とセットで語られる「終身雇用」であるが、これは、働く側に「安心感」を提供することを目的としたものであり、「来月の給料を心配せずに、とにかく仕事に励んでくれ」というものだろう。

これも、それ自体は悪くない。

僕だって、いつクビになるか分からない状態では安心して働けないし、それでも平然としていられるほど図太くはない。

問題は周知のとおり、「能力の向上カーブ」と「給与の支払いカーブ」のギャップにある。

またまた僕の好きなゴルフの例えで申し訳ないが、100を切ったり、90を切ったりするあたりまでは「努力」に比例して伸びていくが、それ以上のレベル(70台)に行くためには相当な努力が必要であり、「投下努力(練習時間)」に対する「技術向上(スコア向上)」の「効率」は極端に悪くなる(と思う)。

要するに「能力は頭打ち、アウトプットも頭打ち(場合によっては下降気味)でも、給与は伸びて行く」という仕組みに問題がある。

こんなこと、僕がわざわざ書かなくても、みんな分かっている(笑)。

つまりは「既得権」を「手放したくない」という人達がいるということである(まあ、みんなそうと言えばそうだ)。

さらに言えば、これもみんな分かっていることだ。

では、どうすればいいか?である。

僕は「解雇規制」を緩和すべきだと思う。

僕はここ一年ぐらいで、今まではあまり接点が無かった大企業の中高年の方々とお会いする機会が出てきたが、そこで実感したのは、元来は優秀なのにも関わらず、社内に「仕事」がないのか?あるいは上司に嫌われたのか?は別として「窓際の憂鬱」を余儀なくされているうちに、失礼を承知の上で申し上げると、もう手遅れと言ってもいい状態になってしまっている人(恐らく少なくない数の方々)がいるということである。

そうなってしまった理由は色々あると思うが、今までの日本社会は、過去の延長線上で何とか「パイ」の拡大ができており、社員を「労働生産性の低いまま」にしておく余力があったことと、若い働き盛りの有能な従業員を囲い込んでおくために、10~20年満期の「約束手形」を発行してきたということだろう。

そして、「企業年金」というポータブルではない仕組みも、人材の流動性を阻んでいるひとつだろう。

これは、産業構造がドラスティックな変化をせず、線形な成長が見込める時には、極めて有効に機能した「雇用戦略」だったのだろう(僕はその恩恵に被ったことがないので皮膚感覚はない)。

しかし、そのシステムは完全に制度疲労を起こしており、騙し騙しいくのも、もう限界である。

そこで、次の「人材の流動化ではなく、業態転換がし易い仕組みを考えるべき」という命題が必要になる。

ここで議論になると思われるのは、「企業が新しい分野に進出する祭に、既存の従業員で取り組むことができるか?」という点である。

ソフトバンクが、ソフトウエアの流通業からネットビジネスへの投資業にシフトし、自らもブロードバンド事業を始めて、気がつくと「携帯電話」事業者になっている。

ソフトバンクの場合、M&Aでの事業拡大や事業転換を行ってきているので、この問いの事例としては適さないと思うが、そのダイナミックな変化を既存の人間だけでドライブできるだろうか?

もちろん、ある程度は対応可能だと思うが、但し、非常に「優秀な人達」であれば、という条件がつく。

大多数の人々にとって「変化は痛み」を伴うし、ある程度の「年季」を経て、ようやく、それなりの仕事ができるようになってから、まったく畑違いのことに挑もう(挑める)という人は、そうそういないのではないだろうか?

そう考えた時、僕は「そのゲームに必要な人材を社外から連れて来る」必要があると思う。

そこで「人材の流動性」が必要になるわけだが、日本では「様々な要因」で、それが阻害されている、というのが社会的なコンセンサスだろう。

僕も、そう思っている。

しかし、この場合は「逆もまた信なり」とはいかない。

つまり、人材が流動化しさえすれば、今の日本社会の閉塞感は解決するか?というと、そうは思えない。

それ以外に、教育の問題、税制の問題、行政の問題等、様々な問題がある(この話をすると、ただでさえ長いエントリーがさらに長くなるので今日は割愛)。

ここが悩ましく、難しいところである。

さて、話を「解雇規制」に戻すと、僕は今までに何度か、経営者として「解雇」をしたことがあり、日本の法律がいかに「労働者」保護を前提としているかを身を以て学んだ。

「法律」というものは常に「事実の後追い」なので、ドラッガーの言う「既に起こった未来」を反映してはいないし、そうなることはない。

産業史を専攻したわけではないので詳しいことは知らないが、以前は「経営者=資本家」であり、明確に「労使」という構造があったと思うが、今の経営者(ここでいう経営者は、大企業なり一部上場企業の経営者)は、一部の創業経営者を除けば「サラリーマン経営者」であり、今や純粋な意味での「労使対立」はない。

また「知識労働者」の社会になると価値の源泉となる「資本」は彼らの頭の中にありポータブルとなり、「資本家=知識労働者」という構図である。

その上で、どうやって「優秀な人材」を「自社に繋ぎ止めておけるか?」が、経営者の仕事である。

そして、現代社会のように「産業の盛衰」サイクルが短い時代においては、「労働力」という観点において社会が「フレキシブル」であることが「競争優位」の条件のひとつだと思う。

また、「社会的価値(効用)」を生み出すことが「企業の存在意義」であり、僕はそれを達成するために「雇用」があると思っているので、雇用を守ることや生み出すことが、企業なり経営者の使命だとは思わない。

「雇用」を生み出すのは「産業」であり、その「産業を創る」のが「起業家や事業家」である。

そういう意味では、結果として、起業家・事業家・経営者は人々を雇用する。

そして、起業家・事業家・経営者は労働者から「選ばれる対象」であり、僕は両者はフェアな関係だと思う。

但し、経営者は「どんな『未来』を実現しようとしているのか?」を明確にし、その船に乗ることが、自分の人生にとって「有益(幸せ)」かどうかを判断できるようにする責任を負っている。

そして、ここで言う「未来」の定義は「創造したい社会的価値(効用)」であり、それによって「どんな社会を実現したいのか?」が人々が自分が働く場所を選択する物差しになるし、そのアウトプットを最大化することが、その企業で働く人々が「物心共」に満たされることに繋がるはずである。

また、パイの拡大が困難な状況で「解雇規制」が厳しく、社会慣行としての「終身雇用」が残ると当然、若者の「椅子」は少なくなる。

加えて、失業リスクの低い人(正規雇用の人)が「失業保険」に入ることができ、失業リスクの高い(非正規雇用の人)は失業保険に入れない(セイフティネットがない)ことも、大きな問題のひとつではないかと思う。

この辺は、城繁幸氏の著作に詳しいので、興味のある方は、そちらを読まれたい。

最後に、そもそも、起業したことも、会社の経営もしたことのない人間が、「雇用」というテーマで、どれだけ示唆に富んだ論説ができるのか?という疑問も残る。

以上が、増永さんがクレームをつけていた某経済紙の社説に対する僕の感想と考えである。

もうひとつ、これは「制度」と「価値観」の問題になるが、日本社会というのは、アスリートやミュージシャン等が「サクセス」をすることは応援するにも関わらず、いわゆる通常のビジネスの世界での「成功者」を出そうとはしていないように思う。

僕の言葉で言わせてもらえば、日本社会というのは「ナローバンド」を善しとし、「ブロードバンド」な生き方を善しとしない傾向があるように思う。

つまり、「はみ出るなよ・・・」という暗黙の価値観が横たわっているように感じるということである。

ところで、とある「歳の離れた友人」が、「ホンダ技術研究所」で「エアバッグ開発者」をされていた「小林三郎(64歳)」氏から聞いた話を教えてくれた。

それが、今日のエントリーのタイトル、

「羊(ものまね)でいる代償は退屈、狼(クリエーター)でいる代償は孤独」

である。

上手いことを言う人だなと思った。

「孤独な狼」でいるには「勇気と自信」が必要だ。

また、同氏は「長期の研究を支えるには自分のコンセプトが不可欠。反対が多く、目標と方向を定めていないと、ぐらつく」とも言っていたらしい。

身につまされる話である。

そして、「あなたの人生(の目的)は何か?」とも。

「皆さん、ここがないんだよ。戦略的に生きてない。あなたの人生なんだから。年に2-3回考えてもいいじゃない、変わってもいいしね。そういうことを考えると自分が自立してくる」。

人生は人それぞれであり、「千差万別、多種多様」である。

「社会の物差し」ではなく、これからも「自分の価値観」に則った「成功」を目指す「生き方」をしていきたい。

そして、「主体性と多様性」に基づいた「生き方」を許容する「懐の深い」社会になることが、もう一度、日本が世界で輝くための「必須科目」だと思う。