でも、オリンピックでは「金メダル」を期待する。

今日は午前中にマンション管理組合の年次総会があった。

僕は自ら進んで二期ほど役員を務め、一期は理事長をしていたが、所有者には当然、様々な人がいて、彼らの意見をまとめ、時には毅然とした態度を取り管理組合を運営していくのは、骨の折れる仕事である。

ましてや「国」を治めるとなれば、想像を絶するエネルギーと知恵と戦略が求められるのは間違いない。

ところで、今日の日経新聞のスポーツ欄で、「浅田真央」選手が何故、ジャンプを失敗したのか?その原因について解説した記事があった。

僕は、極々普通の「浅田真央ファン」のひとりであり、フィギュアの世界に関する特別な知識を有しているわけではなく、今日の記事以外の情報ソースを持たないので、はたして、記事のとおりなのかどうかは分からないが、その記事を読んで、こういうことなのかもしれないな・・・と思ったことがある。

それは、日本という国は「平等」ということを意識するがあまり、「圧倒的な」ヒーローやヒロインを生み出すために飛び抜けて才能のある選手に「戦略的にリソースを注ぎ込む」、ということをしないのだろうということだ。

日本とは政治的背景や文化も異なるし、オリンピックに対する取り組み方も異なるだろうから一概に比較することはできないが、「キム・ヨナ」は、彼女にとって「初めてのオリンピック」の開催国であるカナダに練習の場所を移し、「カナダ人のコーチ」について万全の体制でバンクーバーを迎えたことと比較して、「日本とモスクワを行き来する生活」をしていた「浅田真央」は、明確に「体制面」での「ハンディ」があったと思う。

圧倒的なヒーローやヒロインを出さない代りに「落伍者も出さない」という「横並び」体質の日本では、自分で「経済的(おカネの)問題」を解決できる「プロスポーツ」の世界は別として、オリンピックという「アマチュア」スポーツの世界では、それが「最高峰」であっても、誰かひとりに「傾斜配分」をして「圧倒的スター」を育成するという、「エリート教育」はできないのかもしれない。

でも、オリンピックでは当然、「金メダル」を期待する。

あくまでも「印象」ではあるが、そのような「制度的矛盾」があるような気がした。

ところで、「国際スケート連盟」では、ジャンプの「採点方法」を見直すとか。

「それって、どういうこと?(なんで今なわけ?)」と思うところもあるが、「難易度の高いジャンプ」が得意な選手が有利に改定されるらしいので、4年後の「ソチ」での「浅田真央」選手に期待しよう。

真央ちゃんも「ソチに向けて頑張ります」と言っていたしね!!

追伸:「宮里藍」選手が「開幕2連勝」!!女子ゴルフも、アジアの時代である。日本の「女子アスリート」には「世界級」がたくさんいる。

「セナ v.s. プロスト」&「キム・ヨナ v.s. 浅田真央」

ここ数年、公私ともに密な付き合いのドリームゲートの松谷さんが出演するということで、年甲斐も無く?「朝まで生テレビ」を観ていたお陰で、土曜日は体力的にキツい一日だった。

それでも、渋谷でランチを食べた後、1年半ぶりぐらいに「子供の城」に行き、子供と一緒に遊んだ。

途中で、孫泰蔵さんのTwitterにあったNew York の写真を我が子に見せたところ、「どうして、New Yorkは夜なの?」という質問を受け、「地球儀を買ったら教えてあげるよ」と答えたところ、「地球儀が欲しい」となり、以前から買ってあげようと思っていた地球儀を急遽、買いに行くことになった。

その前に「入院中」だったクルマを取りに行き、妻が iPhoneで検索した「地球儀専門店」で、我が子にとっての「My First 地球儀」を買った。

店内で、地球の自転と太陽の位置関係を説明し、何故、New York が夜なのかを教えた。

ところで、先程まで、NHKで「フィギュアスケート特集」を見ていたが、女子も男子も「総合力」というか、「完成度」が問われる競技なんだということが、よく分かった。

でも、浅田真央ちゃんの「トリプルアクセル×3回」は「神の領域」であり、それに対する「加点」がもっとあって然るべきという想いもまた、強くなった。

そして僕は、F1の「セナ v.s. プロスト」の時代を思い出した。

中嶋悟が「僕が言うのは不遜かもしれないけど、プロストの走りはイメージできる。でも、セナの走りはまったくイメージできない」と言っていたが、ポールポジションとファステストラップの獲得数では断トツのトップだったセナに対して、優勝回数ではトップだった(戦歴が違うので一概には比較はできない)プロストという構図が、フィギュアの世界でも当てはまるのだろうと思った。

その「速さ」と「才能」においては、セナとプロストを論じる意味はないことは、誰でも知っていたことである。

しかし、F1であれば「タイム」だし、フィギュアであれば「スコア」を争う競技だということだ。

僕がテレビの映像を見ながらどんなに心を動かされようが、ブログで何を書こうか、それこそ、真央ちゃんの心境は想像すらできないが、4年後のソチでは「(目指すのは)金メダルしかないんですけど」と言っていた彼女が、バンクーバーでの雪辱を晴らすことを祈ろうと思う。

因みに、バンクーバーには2度ほど行ったことがある。とてもキレイで「おとぎ話」の中にでもいるような錯覚さえ覚える街である。

僕には、ちょっと刺激が足りないけど・・・。

追伸:浅田真央ちゃんが踊った「鐘」は、圧倒的存在感のある曲だ。その曲にのって踊る19歳の真央ちゃんの表情が、印象的だった。

浅田真央の「涙」。

今週は、初めて会う「ベンチャー企業の創業経営者」が「3人」もいた。

いずれも素晴らしい人達で、そういう素晴らしい出会いに恵まれていることを、とても幸せに思う。

ところで、真央ちゃんは残念だった。

でも、ある意味、実力どおり?だったとも言える。

キム・ヨナは、技術力も然ることながら、その「演技力」が素晴らしい。

ただ単に「跳んでいる」だけでなく、3回転中も「演技」をしている。

僕は残念ながらショートプログラムは観ることができなかったが、それを見ていた妻は「(キム・ヨナと浅田真央では)格段にレベルが違う」と言っていた。

要するに「完成度の勝負」なんだろうな、と思う。

ところで、そういう僕は「トリプル・アクセル」を「2回(SPを入れれば3回)」も「成功」させたことに対する「技術点(加点)」がもっと高くて然るべきと思う派だ

たしかに、キム・ヨナの、あの「妖艶な演技力」は、圧巻である。

でも、あの「得点差」には、疑問符が付いた・・・。

話は変わるが、僕は自宅のリビングで固唾をのんでテレビの前で観戦(応援)していたのだが、僕が最も「凄い」と思ったのは、浅田真央が流した「涙」だった。

それだけ、自分に対して「正直」であり、「厳しい人」だ。

「2回」もミスをした自分が許せなかったのだろう。

その「精神の強さ」が彼女の凄いところであり、これからも彼女を成長させていくと思う。

「技術力」が足りない人が「技術」を磨くことよりも、「演技力(そうは言っても、浅田真央ちゃんの演技力は平均と較べれば群を抜いている)」が足りない人が「演技」を磨くことの方が、比較論で言えばリアリティがあるだろう。

また、女性は20才前後を境に身体のバランスが異なり、技術を磨くことが難しい身体になる傾向があるように思う。

そういう意味では、真央ちゃんは、これから「女性」としてさらに成長し、「演技力」を磨き、今回の「雪辱」を晴らすことは十二分に可能である。

僕は生でオリンピックを観たことがないのだが、「2人の再決戦」を観に、4年後の「ソチ」に行きたくなった。

浅田真央の「4年後」に期待したい。

追伸1:世の中では「真央ちゃん」と呼ぶのが一般的だと思うが、僕がタイトルに「ちゃん」とつけなかったのは、彼女の「凛」とした姿勢を表現したかったから。もう立派な「大人の女性」である。

追伸2:4年後という意味では、16歳の日系アメリカ人は間違いなく、さらに頭角を現してくるだろう。そう考えると「3人の戦い」になるかもしれない。まさに「アジアの時代」である。

自分の「本能」を信じる。

今日は、某総合商社のある事業部門をMBOして起業したイケメン経営者と会った。

彼が言うには、総合商社の「事業部門」をMBOしたのは、彼のケースが「初モノ」らしい。

ミュージシャンか俳優かモデルかという雰囲気の内側に、物凄い「野心」と鋼(はがね)のような「精神力」を感じた。

僕の知り合いのネットベンチャーの創業者の中にも、彼のような「タフな精神力」の持ち主が何人かいる。

彼らに共通しているのは、ボラティリティが激しいというか、波瀾万丈の人生を歩んでいるということだ。

このまま彼が経営する会社が「順調」に成長するかどうかは分からないが、機会があったら投資したい人物である。仮に、機会はあっても、彼の役に立てるほどのおカネはないけどね(笑)。

尚、彼(が経営するベンチャー)のリスクは、彼の「意志」や「精神的タフネス」と「スピード感」に周囲(組織)がついて来れるか?だと思う。

ところで最近、「スティーブ・ジョブズの流儀 」という翻訳本が出たそうだ。

ジョブスの凄いところは、自分の「本能」を信じるところであり、アップルには「市場調査の予算」は「無い」らしい。

インターネットリサーチの会社を創業した僕が言うのは変な話かもしれないが、帰納法的に考えて「市場」を「分析」しても、イノベーションは起こらない。

必要なのは「直感(閃き)」と、それを「具体化」するロジックと「具現化」するための「執行力」。

「リサーチ」は「直感を検証する」ために行った方が有効である。

「凋落日本」と若手起業家の「成長戦略」。

今日の午後、とある用事で麻布十番に行った帰り、ぽかぽか陽気を楽しみながら、広尾まで約15分の道を歩いた。

麻布十番の商店街は「石畳」的な路面然り、昔ながらの面影が残っており(義理の母は子供の頃、麻布十番に住んでいたらしい)、東京にあって「人の温もり」が感じられ、僕の好きな街のひとつだ。

その麻布十番から麻布台に続く坂道を行くと「西町インターナショナルスクール」があり、その周辺は、外国人の姿がとても多い。

因みに、今はフランスと日本の往復なので住んでいないと思うが、カルロスゴーン日産CEOが住んでいた高級マンションも、そのあたりにある。

麻布台を抜けると「有栖川公園」。その横の坂道を下ると「麻布ナショナルスーパーマーケット」があり、広尾の商店街へと続く。

僕はその道のりを歩きながら「格差社会」という「言葉」の「本質」を考えた。

すれ違う人達の多くは「西洋人(白人という意味)」か「彼らと日本人のハーフの子供たち」で、また、その子たちを学校に迎えに行った帰りの「東洋人のナニー(本来の意味は異なるらしいが)」といった感じだ。

東京でも異様な光景である。そういう地域は他にはないだろう。

一方、固有名詞は挙げないが、「学校崩壊」しているような地域もあり、同じ東京と言っても、地域によって「デモグラフィクス(住民の属性)」が大きく異なる。

話は変わるが、仕事上で知り合い、今となっては掛け替えのない友人となったある人が、今週金曜日(日付的には土曜日)の「朝まで生テレビ」に出演することになった。

「議論」のテーマは「凋落日本と若手起業家の『成長戦略』」で、どんな議論をし、どんな提言をするべきか?について「プレ議論」をしたいということで、青山の某所で「計6時間」にも渡り、熱い議論をした。

それこそ様々なテーマについて議論をしたが、日本社会において「格差が固定」されてしまうこと、つまり、日本が「固定された格差社会」になってしまうことが大きな問題である、という話をした。

幸運にも事業で成功した親元に生まれたり、実力のある政治家の子供として生まれたり、「本人の努力ではない幸運(偶然)」により手にした「既得権益(シード権)」を持っている人達だけでなく、「予選ラウンド」を戦って勝ち上がっていくという「選択肢」が用意されている社会でなければ、若者が「未来に希望を持てなく」なり、社会は「衰退」するのは当然である。

一方、ビジネスに限らず、スポーツでも音楽でも、本人が頑張ってつかんだ「果実」により、そうでない人との間に生じる「プラスの格差」は正当化されるべきであり、この国の未来のためには、本人の努力で「ハンディ」を克服すべく「努力」をしようと思える社会を創る必要がある。

特に、GDPの「約2倍」にも上る「政府債務」に対して「何の責任もない」子供たちのために。

それが僕たち大人の責任である。

「希望」がなく、「重税」だけがあったとしたら・・・。

「最悪である」。

「この国には何でもある。無いのは『希望』だけである」。by 村上龍

株式会社とは?

今日の東京はとても暖かく、春のような陽気だった。

今週は今日のような日が続くそうだが、もう寒さの峠は越えたのだろうか?

ところで、民主党政権になって、公開会社法や企業の内部留保への課税など、企業経営に関する議論が活発になっているが、そもそも「株式会社」とはどういう存在なのだろう?

先程、Twitterでも書いたが、しばしば言われる「株主から経営を託される」という表現や立場は、プロ経営者やサラリーマン経営者の場合には当てはまるが、自ら起業する場合、つまり、自分のやりたいことを実現するための資金を株式を発行して調達する場合、それは託されるのとは違う。

その場合は、自分のビジョンや構想を買ってもらうということだ。

投資家(株主)は、その人物自身と構想のリアリティやリスクを評価して、買うか買わないかを決める。

また、起業家にとっては調達する金額が、投資家にとっては投資する金額が大きい場合、そのリスクを分散するために複数の株式を発行して、複数の投資家にお金を出してもらうわけだ。

株式を公開している会社であれば、経営者の能力や方針に疑問を感じれば、マーケットで売ればいい。

しかし、未公開の会社の場合、売ろうと思っても、そう簡単には売れない、つまり、流動性がなく、事業自体のリスク以外に「換金性」というリスクがあるということだ。

そういう意味で、同じ「企業」といっても、成熟した上場企業と未上場のベンチャー企業は、本質的に意味が異なる。

と同時に、そういうリスクを取って資金を投じる「投資家」は、起業家以上に「起業家的」である必要がある。

そういう意味で、成功した起業家がベンチャー投資家になるのは、理に適っている。

では、公開企業に関する法律や企業の内部留保に関する法律を立案するためには、誰の意見を聞き、誰との議論が必要だろうか?

労組が支持基盤の民主党政権は、経営者や経済学者の意見に耳を傾けるだろうか?

「政策論争」は「不毛」である。

良く晴れた土曜日、朝食を食べた後、僕は、法政大学経営大学院(MBA)イノベーションマネジメント研究科「プロジェクト発表会」なる催しに出掛けた。

実は4月から、このプロジェクトという「事業計画作成」の「指導担当(非常勤講師)」を拝命しており、その見学をさせていただいた。

家庭の事情があり、最後までいることは出来なかったが、学生の方の発表を聴いていて、その内容の善し悪しよりも、自分の「人生」を懸けてやろうとしていることか?それとも、単に自分の仕事のレベルアップをしたいということなのか?が、聴衆を惹き付けるか否か、この人だったら手伝いたいと思わせるかどうかを決めるということを、改めて実感した。

それは自分自身の今までの人生を振り返っても同様である。

ところで、先日、Twitterで鳩山首相にメッセージを送ったことは、このブログでも書いたと思うが、そのことに絡んで気づいたことがある。

それは「政策論争は不毛」かもしれない、ということである。

「不毛」とまで言ってしまうと、たしかに、言い過ぎだとは思うが、いずれにしても「合意形成」は困難だと思うということだ。

実は、鳩山首相に宛てた僕のメッセージに対して、弁護士であり大学で教鞭を執られている方(その方のTwitterを拝見したところ、どうやら、経済学者は嫌いらしい)から、僕の「最低賃金制度」は雇用創出にむしろマイナスだという趣旨の文面に対して、「最低賃金法が雇用を下支えしているという実証研究がある」というコメントを頂いたことがきっかけである。

僕は「その実証研究を是非、教えて欲しい」とコメントを返したが、そのことで気づいたのは、人間は誰しも「自分のポジション(思想、価値観、職業的立場等)」があり、ドラッガーの言う「7つの窓」のいずれかから世の中を見ており、同じ物事を見ても、人によって受け取り方も評価も異なる、ということだ。

またドラッガーは「医者は、自分の『専門科目』の病気を治すことが仕事であり、それによって身体の他の部分の問題を引き起こすことまでは考えない(分からない)」という例え話を引き合いに出し、「全体最適」と「部分最適」の話をしているが、「最低賃金制度」により、何らかの社会的効果が生まれるのは間違いないのだと思うが、そのことによる「弊害の有無」は別の話だということである。

つまり、先日の「鳩山首相の『行動基準』には共感できない」というエントリーで、世の中の問題の殆どは「思想」か「経済」に起因すると思うと書いたが、根源的なことは「思想」の問題を抜きには語れない、ということだ(考えてみると、過去にそういうエントリーを書いている)。

言うまでもなく、世の中には色々な人がいる。

僕のような「リスク愛好バイアス」が高い人もいれば、安定した生活が何よりも重要という人もいるし、事業が好きな人もいれ���、研究が好きな人もいる。営業が好きな人もいれば、ファイナンスが好きな人もいるし、興味のある産業や業種も人それぞれだ。

それぞれの立場から見れば、それぞれの「最適解(部分最適)」があるのは当然であり、それぞれの最適解が「相矛盾する」ことは少なくないだろう。

そうなると「自由で選択肢の多い」、より多くの立場の人を受け入れられる社会が良いということになる。

「そんな魔法のような話があるのか?」と思われるかもしれないが、では「他人に依存する社会」と「自助の精神で生きる社会」とでは、どちらが「フェア」で、どちらが「自由」で「選択肢」が多く、「頑張る意欲が湧く」社会だろうか?

・・・と、ここまで書いたところで、Twitterの「ドラッガーBOT(ロボット)」なる自動配信アプリから、こんな発言が送られて来た。

「今や社会活動、社会問題のすべてがあまりに複雑である。唯一の『正しい答え』があらゆる問題に通用するはずがない。答えは複数ある」。

おっしゃるとおりである。

僕は「柔軟性」に富み「多様な人々」を受け入れられる「自助の精神」に基づく社会が、理想的な社会だと思う。

しかし、今の民主党政権(というのが適切か?鳩山政権というのが適切か?)の発想はすべて、「税金」により「困っている人」を守る(保護する)、という「思想」に基づいていると受け取れる。

僕が鳩山首相に送ったメッセージで書いた「企業の内部留保への課税、最低賃金法、子供手当等」も、上記の思想に基づいていると考えられる。

「本当に困っている」人達であれば賛成する(やり方にもよる)が、そうでない場合もあるように思う。

例えば、農家に対する「所得補助」は「勤労の精神」や「創意工夫の精神」を助長するだろうか?それとも「JAL」のような「体質」を生み、それを「温存」するだろうか?

ましてや「兼業農家」なる取り組みが、「勤労の精神」や「創意工夫の精神」を生むだろうか?

農業の大切さと、それをどう育成、発展させるか?という問題とは別であり、日本の農業の「生産性」と「競争力」を向上させるやり方はたくさんある。

とにかく、今の日本に必要なことは「イノベーション(社会革新)」であり、いかにして「創意工夫」に満ち「効率的な社会」に「ReDesign(再設計)」するか?である。

ま、僕は「イノベーション・バイアス」かもしれないけど。

追伸:ライブレボリューションの増永さんに、「継続は力なり」で「鳩山首相」にTwitterし続けますと返事をしましたが、このエントリーのとおり、「不毛」だということに気づいたので、止めることにします。