「新しいコミュニティ」の形。

今日は、昨年まで通っていた保育園で一緒だった友達親子と僕たち家族で、神宮外苑にある公園に出掛けた。

その公園は「有料」で大人300円、子供100円だが、平坦な場所には人工芝が敷き詰められ様々な遊具が設置されており、はたまた大きな樹木とアスレチック施設がある小高い丘まであり、とても「Value for money」な場所で、いつも大勢の親子で賑わっている。

12時過ぎに到着し、14時を過ぎた頃だろうか。我が子が「次はどうする?」と何度も訊いてくるようになった。

彼は、そのまま帰るのが嫌で、友達に自分の家に遊びに来てもらうか?自分が友達の家に遊びに行きたいのである。

でも、子供ながらに自分からそう言い出すのは気が引けていたようで、僕が「どうしたい?」と訊くと、「お父さんはどうするのがいいと思う?」と聞き返してくる。

16時を過ぎ、日も陰って肌寒くなり、そろそろ公園を後にする時刻になると、さすがに自分から、どちらかの家に行き遊びたい、と言ってきた。

ということで、友達の家に行き、夕食をご馳走になり、そうこうしているうちに、彼はソファーで眠ってしまった。

ところで、とても幸せなことだと思っているが、以前の保育園で知り合った友達家族とは今も関係が続いており、毎週というと大袈裟だが、月に2~3回ぐらいは、みんなでどこかに集まって親子共々一緒に遊んでいる。

職場の縁でもなく、単純な地域の縁でもなく、ただ単に保育園が同じだったからというだけでもなく、そこには「共通の価値観」で繋がっている「緩い絆」が存在している。

まさしく、ドラッガーのいう「新しいコミュニティ」の形であり、マズローの「6段階目の欲求(コミュニケーション欲求)」である。

妻は「ご機嫌」で帰ってきた・・・。

今日は今週2度目の「保育園のお迎え当番」の日だった。

朝、母親と一緒に家を出る時に「17:45ね!!」と言っていた我が子は、僕が17:55に保育園に到着すると、喜んだ表情を見せた次の瞬間、「なんで、17:45じゃなかったの?」。

子供は、何でもよく憶えている。

僕は僕で17:45に間に合わせようと必死に家を出たのだが、彼は彼で「17:45」を心待ちにしていたのだ。

夕食は、久方ぶりに、目黒通りを環七方面に向かった、とある住宅街にある「お蕎麦屋さん」に食べに行った。

彼は、子供ながら、かなりの「蕎麦ツウ」である。

妻と僕とふたりでは何度か行ったことのあるお店で、昨年の夏、彼とも一度だけ行ったことがあったが、その後は行く度に「定休日(学習能力がない/泣)」で、今日は「営業日」だということを確認し、久しぶりに行ったのだった。

彼はそのお蕎麦屋さんを「ぺろぺろキャンディのお蕎麦屋さん」と呼ぶ。

以前に行った時に「ぺろぺろキャンディ」をもらったからだ。

お蕎麦を食べ終わり、会計の前にトイレに連れて行くと、「お店の人に(ぺろぺろキャンディを下さいって)言った?」と訊くので、「自分から言ったら変でしょう。お店の人が『どうぞ』って言ったらいいけどね」と言って出てくると、お店の人が「ぺろぺろキャンディ、あげてもいいですか?」と訊いてきた。

夏に「もらった時」(お店の人が彼にぺろぺろキャンディをあげようとした時)、僕が「甘いものはあげないようにしているんです・・・」と言ったことを憶えていたのだろうか?

我が子は「ありがとうございます」と言って、喜んでもらっていた。

ところで、今日は忙しい一日だった。

とは言っても、普通の会社勤めの人のそれとはちょっと違うんだけど・・・。

かれこれ、もう2週間になるが、喉というか気管支のあたりの調子が悪くなり、かかりつけのお医者さんに看てもらっているのだが、なかなかよくならず、今日は「息子さん」ではなく、僕の主治医?の「お父さん」の方に看てもらいに行った。

息子さん(ハーバード出身!)がイケテナイわけではなく、お父さんの「経験」には勝てないのだ。

ラッキーなことに、いつもは激混みの医院は今日はガラガラで、僕を含めて患者はふたりしかいなかった。

いつもは、ものの数分で終るのに、今日は「お父さん」が饒舌(性格的にはそもそも饒舌なんだけど/笑)で、僕の亡くなった両親のこと、僕の既往症のことなどを話し、「そうか。だったら、ターゲットはこの辺だな。だんだん絞り込めて来たね/笑」という感じで「問診」をしてくれて、「こんなにゆっくりしてて、次の患者さんを待たせていないだろうか・・・」と心配してしまうほどだったが、なんと、その時点では、患者は僕ひとりになっていたようだ。

さて、「お父さん」との充実した「会話」を済ませて居心地の良い「医院」を出た後は、月末の支払いで銀行へ。

こちらは、だいたい「想定の範囲内」の混み具合。iPhoneでTLを読んでいるうちに、すぐに僕の番が来た。

銀行の次は「整形外科」へ「リハビリ」に。これまた空いている。

どうやら、今月下旬になってから、小さな病院(医院)は、患者さんが少なくなっているようだ。

新型インフルエンザも一段落し、年末年始で体調を崩した人達も、通常モードに戻ったということだろうか?

さて、銀行を挟んでクリニックをハシゴした後は、加湿器のフィルターと加湿器をもう一台買うために渋谷のビックカメラへ。

実際、そこそこ待たされたんだけど、iPhoneでTLを読んでいるうちに、「お待たせして申し訳ありません」と言って、店員さんが梱包した加湿器を持ってきてくれた。

iPhoneというかTwitterのお陰で待ちくたびれ感はなかったのだけど、肉体的には「持病の腰」が痛くなり、嵩張り重たい加湿器を持って混んでいる山手線に乗るのは嫌だな・・・と思い、一瞬、タクシーで帰ろうか?と思ったが、たいした稼ぎもないくせに、それは贅沢!と思い直し、えっちらほっちら、電車で帰ってきた。

タクシー代をケチったついでに「昼飯代」もケチろうと思い、近所のスーパーでレトルトのカレーやハヤシライスを買い込み帰宅すると、「ご飯」がないことに気づく・・・。

仕方なく、近所にある「オーガニックなレストラン」に行き、1,000円のランチを食べる。タクシー代がお昼ご飯に化けたわけだ。

ところで、僕は意図してそうしているわけではないのだが、オフィスや住まいの近所に必ず、行きつけのお店ができる。

下北沢でも久我山でも中目黒でも代官山でも池尻大橋でも青山でも、どこでもあった。

そして、それらのお店には、今でも時々、行っている。さすがに、久我山のお店には滅多に行かないけど・・・。

さて、遅いランチを済ませると、時計の針は、もう16時。

保育園のお迎えの時間まで、あと1時間半しかない。

実は、来週水曜日のJAGAT主催のカンファレンスでの講演資料(と言っても、僕はモデレーターなので、大した資料は要らないんだけど)の締切が今日で、ギリギリ、駆け込みで送付した。

そんなことで、今日はもうお終い。

子供がいると、一日はアッという間に過ぎて行く。「夜」は「自分の時間にはならない」のだ。

小さなお子さんをお持ちのお母さん方は毎日のことだが、夜は、子供を寝かしつけながら、どうしても、自分も寝てしまう。

で、こうして、23時過ぎに起きてきて、メールをチェックし、返事を書き、ブログを書いている。

・・・と、かなりご機嫌な様子で妻が帰宅した。

気がつくと、もう眠っている。化粧は落としたのだろうか?

明日、二日酔いでないことを祈る。

「GDP」は、一夜にして「倍」になる。

Twitterを日常的に使うようになって、あることを思い出した。

インタースコープの頃だったか、その前のクリードエクセキュートという会社を経営している時だったかは忘れたが、人は「情報摂取」において、「メディア」と「特定領域における専門家(例:金融関係の著名人)」と「該当するテーマに通じている知人(例:AV家電に詳しい友人)」の誰からの情報を最も信頼するか?という調査をしたことがある。

もう随分前のことなので正確には憶えていないが、一番目は「メディア」ではなかったことは確かで、最も信用するのは、「該当するテーマに通じている知人」だったように思う。

また、この順番は、その人の「情報収集能力」とも関係しており、すべての人に共通しているわけではない。

さて、Twitterを頻繁に使うようになり、僕の情報収集行動がどう変わったか?だが、各方面で僕がフォローしている人が照会した記事やコメント等を読んで、その記事を読むか?その書籍や雑誌を買うかどうかを判断するようになった。

もちろん、そのような行動特性は以前からあったが、Twitterにより、会ったこともない人の中から、この分野は彼のを、あの分野は彼女のフィルタリングを信用しよう、というふうに、僕にとって必要且つ信頼できるフィルタリング機能を持つ人をフォローすることができ、情報摂取の「燃費」が格段に良くなってきたと思う。

ところで、今日は僕が大ファンのソフトブレーン創業者の宋文洲さんの講演会に出掛けた。

なんと、そこで、偶然にも、会場の様子を確認していた宋さんにご挨拶をする機会に恵まれ、名刺交換をさせていただいた。

僕から声をかけると、ちょっとびっくりされた様子で、ご自分から名刺を出し、僕と挨拶をしてくれた。

ところで、宋さんの話は、いつも聞く人の心をつかむ。

もちろん、頭脳明晰であることが前提としてあるのは間違いないが、関係者に気を使って真実を言わないという、日本人によく見られる「Diplomatic(社交辞令的)」な態度が皆無なのがいい。

細かなことは後日、改めてこのブログで書こうと思うが、今日、このエントリーで書いておきたいことは以下のとおり。

★キレイ事を止めて、「個人」としてどう生きたいのか?を考える。
★自分のことだけを考えればよい。但し、相手も自己中心。だから、相手の立場を考える。
★自分の好きに振る舞うが、法律は守る。

そして���

★「国(=政府)」は頼らない(頼れない)。
★自分のアイデンティティを確立する。

ということ。

「アイデンティティ」という意味では、世界三大投資家のひとりと言われている「ジム・ロジャース」は「冒険投資家」と称されることが多いが、僕は何と称されたいか?

それがアイデンティティである(僕は、今のところ、自称シリアル・アントレプレナー)。

また、中国の20才に「将来、社長になりたい人は?」と訊くと、「26%」の人が「なりたい」と答えるらしい。

今の日本はどうだろう?

「草食系」なる言葉が流行っていることをみても、とてもとても、中国の数字に遠く及ばない。

また、その「26%」の中国人は、かなり「強烈」な人達のはずである。

宋さんは「その26%に日本人は勝てませんよ」と言っていたが、そのとおりだと思う。

だからこそ、「GDP世界NO.2の経済大国」などという、馬鹿げた(外形基準)アイデンティティは捨ててしまいなさいよ、ということである。

「数」で言えば、「人口」「自転車」「リヤカー」等の数はとうの昔に、今日においては「自動車」でさえも、日本は中国に負けているのである。

そして、中国の人民元が対米ドルで切り上がった瞬間に、中国のGDPは大きく上昇する。

それだけとってみても、GDPという外形基準は役に立たないと、宋さんは喝破していた。

そして「自分が生まれた国(だけ)にいつまでもいちゃダメですよ。(世界と自国を)客観視できません」と檄を飛ばしていた。

それは「北京に住むようになって、東京の『居心地の良さ』を改めて実感しました。これが当たり前と思ってはいけません(現実が見えなくなりますよ)」ということだ。

もうひとつ、キレイな社長室には「情報」は無く、「現場(現地)」にしか「情報」はない(宋さん)。

宋さんの話から、彼が母国のことは当然、そして、日本に対しても深い愛情を持っていることが伝わってきた。

その宋さんは「中国人は『中国』という枕詞を使いませんよ。『国』のためなんて思っていないんです。個々人が必死に頑張ったことが、結果として、今の中国を創ったんです」と続けていた。

考えさせられる話である。

僕もまだまだ頑張ろう。

追伸:今朝起きてから、少し書き足しました。ということで、続編はないかもしれません(笑)。

人間一度しか死ぬことはできない。

1990年。今から20年前。日本経済のバブルが崩壊した時、僕は「チャンスが来た!」と思った。

昨年の夏が過ぎた頃から、時間ができたせいもあり、ドラッガーやマクロ経済関連の書籍を好んで読むようになったが、僕が読んだ経済関連の書籍(著者)は異口同音に、「バブル経済の崩壊はとんでもない出来事であり、みんなが狼狽し、悲嘆に暮れていた」と言っている。

たしかに、マクロ的にはそうだっだのだろう。

でも、僕にとっては「千載一遇のチャンス!」であり、「イス取りゲーム」をひっくり返せる!!と思った。

それは、当時の僕が「持たざる者」だったからである。

僕はその当時、J.W.Thompson という、よく言えば老舗の世界的な広告代理店、悪く言えば「金属疲労」を起こして著しく生産性が衰退していた広告代理店に所属していた。

年齢は27才。年収は、約450万円前後だった(と記憶している)。

当時は(今も同じか?)「年収の5倍」程度が普通のサラリーマンが購入できる住宅の限度だったが、つまり、450万円の5倍は「2,250万円」、600万円になったとしても「3,000万円」で、当時の「物価水準」で言うと、都心まで1時間以内で通える家族で住めるマンションを買うには「最低5,000万円」は必要であり、両親共に他界していた僕は「頭金」を援助してもらえるわけもなく、「こりゃ、どう考えても、一生、家すらも買えない・・・」という状況だった。

以前のエントリーにも書いたが、事実として、僕の友人達は結婚と共に、ある夫婦は「5,000万円」、ある夫婦は「7,000万円」の新築マンションに転居していった。

バブルが崩壊したと聞いて、僕は「持たざる者」でも「住宅が買えるかもしれない!!」と、半ばシラケていた心に「スイッチ」が入ったのを今でもよく憶えている。

ところで、このところ、「正規社員 V.S. 非正規社員」や「終身雇用と年功序列型賃金制度の是非」に関する論争や、だいぶ熱は冷めたとは言うものの「会社は誰の者か?」という議論等があるが、僕は、今後の日本社会は確実に、「unbundling(アンバンドリング)」されていく、つまり、「組織で働くことの意味」が変わってくると思っている。

ドラッガーが提唱した「知識労働者」という存在が社会を動かすようになり、その総和としての社会が「知識社会」になると、自らの「知識とスキル」が「生産材(産業資本)」となり「ポータブル」となることから、自分という「資本効率」を最大化できる組織を求めるようになり、人材の流動性が増すことになるだろう。

もちろん、正規雇用(正社員)の「解雇規制」が異常に強く、企業年金はポータブルではないことや、幸いにして自分が所属している会社に「経済合理性以上の何か」を感じている人もたくさんいるのは事実であり、そう簡単に米国のような雇用の流動性の高い社会になるとは考え難いが、でも、その流れは不可逆的と思われる。

別の観点で見ると、マーケティングの世界では20年以上も前から叫ばれている「価値観の多様化」なるものが、ここへ来て、疑いようのない現実となっており、それだけ多様化した人々を、ひとつの組織に、それも一生涯に渡って留めておくことは、社会の変革スピードを考えると、現実的とは思えない。

僕は「豊かな社会とはどんな社会か?」と問われたなら、「選択肢の多い社会」と答える。

資本主義には様々な問題があることは事実だが、経済発展と社会の成熟は、確実に「選択肢の幅」を広げてくれる。

だからこそ、僕のような人間でも、なんとか生きていける世の中になるのである。

しかし、今日の日本には未だに古いイデオロギーが色濃く残っており、「労働者は資本家に搾取される弱者であり、政府が救済しなければならない」と考えられているのかもしれないが、「知識・スキル」がポータブルであることを考えれば分かる通り、資本家が知識労働者を搾取しようとすれば、より良い条件の組織に逃げられるだけである。

さらに言えば、今日の社会において「資本家」とは誰を指すのか?

未公開尚かつオーナー経営者の企業(オーナーの出資比率が過半数の企業)であれば、経営者=資本家だが、筆頭株主でも10%もないような上場企業においては、資本家は元を質せば「個人の集合」ということになる。

つまり、資本家=経営者だった時代とは前提条件が異なるのである。

1999年(だったと思う)、BCGの内田和成氏が「デ・コンストラクション経営革命」という本の中で、バリューチェーンが「unbundling(アンバンドリング)」され、新しい秩序に基づき「re-bundling(リ・バンドリング)」されるということを書いたが、これからは「働き方のデ・コンストラクション」が起こると思う。

これは「既に起こった未来」であり、これからは「組織を離れて組織と働く人」が増えるだろう。

いや、僕がフォローしている「つぶやきの達人」たちの中には、既にそういう「生き方」をしている人がたくさんいる。

「農本主義」時代は「地域」という地理的な集合が「コミュニティ」を形成していたが、工業化に伴い、日本では「大企業」がその機能を代替するようになった。

しかし、産業の高度化およびI.T.化と規制緩和によるグローバリズムの進展により「職場」というコミュニティが崩壊し、精神的な「絆」の「unbundling(アンバンドリング)」が起こったと同時に、「価値観」や「生き方」により自分が属するコミュニティを決めその発展を願うという「re-bundling(リ・バンドリング)」が起きている。

先日のエントリーで書いた「マズローの6段階欲求説」のとおりである。

それが、TwitterやSNSが支持される要因であり、Web2.0時代の本質である。

そして、既存のルールが制度疲労を起こし、時代に合わなくなった今日という時代は、既得権益に果敢に挑戦し、新たな構造を創れる可能性のある、とても大きなチャンスでもある。

ところで、僕はここ数日の出来事を通じて、「人間は自分のために生き、自分の責任を全うすることで、結果として全体に貢献し、より良い社会を創ることになる」ということを再認識させられた。

僕が「人間は自分のために生きる」というのは、他人に優しくすることも、私利私欲を抑えて社会のために良いと思うことするのも、はたまたおカネがすべてと思い、より多くのおカネを稼ぐことに没頭することも、いずれも「自分の価値基準」に忠実に生きるということであり、他人に優しくすることで、私利私欲を抑えて社会に奉仕することで、他でもない「自分の満足」を追求している、という意味である。

シェークスピアが言うように「人間一度しか死ぬことはできない」のであれば、他人の批判を恐れて無難に生きて無難に死ぬよりも、自分の価値観を信じて、それを貫く「生き方」をし、その「生き方」に相応しい「死」を迎えたい。

まだまだ、そこまで達観はできておりませんが・・・・。

「有楽町西武の閉店」と「失われた20年」。

今日は久しぶりに僕が保育園に子供を迎えに行き、ふたりで夕飯を食べ、お風呂に入った。

今もまだ時々泣いたりはするものの、新しい保育園にも慣れてきたようで、今日は僕が保育園に姿を現しても、すぐには帰ろうとはせず、そのまま少し遊んでいた。

帰宅後も、ひさしぶりの父子ふたり水入らずの時間が嬉しかったのか、とても機嫌良くしていた。

ところで、子供を寝かしつけながら自分も寝てしまい(子育て中のお母さん達は、この感覚がよくお分かりかと思います)、先程、起きて来て、溜まりに溜まったTL(Twitter Timeline)に目を通していたところ、「有楽町西武(百貨店)」が「年内に閉店」するというニュースを知った。

「時代の流れを感じます」というTLが多かったが、僕は「百貨店」という「業態」は既にその役割を終えて久しい(流通業の中心には残れない)と思っており、「そう言えば、そういうお店もあったな・・・」というのが率直な感想である。もう何年も足を運んだ記憶がない。

日本社会は、そろそろ「失われた20年」になろうとしているが、経済学者でもない僕が、付け焼き刃の知識(勉強)で、その構造的な解説を試みると・・・。

日本は「輸出」中心の経済構造という観念が持たれているが、それは大きな誤解であり、GDPに占める輸出比率は「約15~16%」であり、OECD諸国ではアメリカに次いで低い(先進国では、たしかドイツが25%程度と高かったように記憶している)。

但し、労働生産性という観点では、製造業が「今ままで」は日本経済を引っ張ってきた(数字は確認していないが、おそらく黒字(利益)という観点でもそうだろう)。

2000年代の日本の「潜在成長率(僕の理解では理論的な経済成長キャパシティ)は約1.2~1.3%だが、その約半分が「純輸出(経常黒字)」で占められていると推定されており、90年代にはGDPの10%程度だった輸出比率が約5~6%増大したことになる。

要するに「内需」だけでは食べていけないところを「外需」で補填してきたわけだが、その「外需」の大半を占めていた「アメリカ経済」がクラッシュしたことにより、日本という国の「売上」が激減したのである。その最たる被害者?が、トヨタということだ。

これの意味することは、日本という国の「顧客ポートフォリオ」を変える必要があり、また、「老朽化した産業構造」を変えない限り、日本のGDPは長期的に「停滞」するということである。

つまり、アメリカという「お客さん」は今までのようには当てにできないので、「他のお客さん(=新規顧客)」を開拓する必要があり、それが「アジア」なり「BRICs」だと言われているわけだ。

尚、民主党政権(鳩山首相?)は、経済的な結びつきだけでなく、政治的同盟(日米安保)の問題までも一緒に考えているようなのが、恐ろしく怖い。

では、「潜在成長率(日本経済の成長キャパシティ)」はどうやったら伸ばせるか?

そのためには日本のGDP(2009年:名目GDP約480兆円)の「構造」を紐解く必要があるが、実は「約70%」が「サービス業」で構成されている。

話を「潜在成長率(日本経済の成長キャパシティ)」に戻すと、その構成要素は「資本投入」「労働投入」と「生産性」に分解できる。

その中でも重要なのは「生産性(=イノベーション)」であり、それは「資本効率(おカネの使い方の効率)」と「労働生産性」で構成されており、ここが由々しき問題なのだが、日本の「労働生産性」はOECD諸国で20位、G7ではなんと「最下位」だそうだ。

ちなみに日本の「労働生産性の上昇率」を80年代、90年代、00年代で見ると、「日本のお家芸?」でもある「製造業」のそれは4%前後で大きな変化はないが、「サービス業」で見ると約3.5%、2%、1%と低下してきており、「労働生産性の低いサービス業」がGDPの「70%」を占めている。

部門別の詳しい実証研究によると、90年代は産業間の「資金・労働力の移動」も低下しており、公共サービス分野では、2000年代の労働生産性の上昇率は「マイナス」になっているという。

つまり、「衰退産業」から「成長産業」への「資本の移動」が滞り、「カネまみれ」の「自民党政権(実は、民主党も同じか?)」による「土建業へのバラマキ政策」により、非効率な「建設業の就労人口」が増えたことが、日本の潜在成長率を大きく低下させたと言える。

因みに、北海道のGDPの「約70%」は「公共工事(事業)」である。

要するに、「(産業構造的な問題により)沈み行く船」にいつまでも乗っている(政治家は「票田」を守りたいが故に、はいつまでも乗せておこうとする。これが諸悪の根源である。)のではなく、自分にとっての「ブルーオーシャン」を見つけて「新しい船」に乗り換える「勇気」が必要だということだ。

また、そのためにも、貴重な「税金(僕の税金も含む)」と「時間」の無駄遣いをして、国際的に見て「生産性の低い日本の金融業」を公的資金と規制で支え続けている(今の金融制度では、必要な産業に資金が回らない)ことも止めて欲しい。

尚、上記の内容を詳しく理解されたい方は、「希望を捨てる勇気(池田信夫)by ダイヤモンド社」を読まれることをお勧めする。

また、上記のような傾向は「I.T.産業」にも顕著であり、NTTという巨大企業を守ることにより、ピュアな民間企業による技術革新を阻害してきたことが、インターネット関連産業の殆どをアメリカに牛耳られる結果となったと見るのは僕だけだろうか?

日本の「ケータイ技術」は世界一であり、「ケータイ」ビジネスは日本が世界をリードするなどと言われた時もあったが、蓋を開けてみれば結局、これもまたしてもアメリカ(Apple, Google)に持って行かれることになった。

さて、だいぶ前置きが長くなったが、僕が言いたいことはとどのつまり、有楽町西武は「もっと早くに閉鎖すべきだった」ということである。

世間を騒がせている「JAL」に関しても、同じことが言える。

貴重な「時間とおカネ」を浪費してきただけである。

尚かつ、歴代の「天下り経営陣(経営していたと言えるかは疑問)」が「風(風邪?)」ならぬ「巨額の報酬」と共に去って行ったことには、絶句である。

話を「時間」に戻すと、時間が経てば経つほど、例外を除き、「沈み行く船からの脱出(=転職)」は不利になる。

海部美知さんの「パラダイス鎖国(アスキー新書)」でも指摘されていることだが、この「転職」なり産業間の「労働力の移動」がスムーズに進まない背景には、社会主義としか思えないほどの「解雇規制(解雇をしない代りに、新卒採用を抑制し、派遣社員を調整弁として雇用する)」がある。

そして、この過剰な「解雇規制」が、城繁幸氏に「若者はなぜ3年で辞めるのか?」という著書を書かせた原因である。

少々長く且つテクニカルになってしまった「深夜の長いつぶやき」は、この辺で終了。

では、また明日。オヤスミナサイ。

「人間」は犬ではない。主人(あるじ)は自分で決められる。

昨日の「つぶやき」でも書いたが、我が家のベランダからの借景は、中目黒アトラスタワーと抜けるような青空のコントラストが、言葉にできないぐらい素晴らしい。

その景色だけを見ていると、目を覆いたくなるほどの「政治の混迷」や異常としか思えない「財政赤字と経済の停滞」等が、まるで嘘のように思えてくる。

ところで、昨日の「日馬富士」との一番で、「朝青龍」の25回目の優勝が決まった

「生」で見たかったが、昨日は体調不良で横になっており、今朝の新聞でその事実を知った。

西麻布での泥酔と暴行事件があったとかで、またまた世間を騒がせているようだが、「窮地」に立たされた時ほど「集中力」を発揮する「朝青龍」が、僕は好きだ。

ところで、我が家では毎週日曜日の朝07:30から、テレビ朝日系列の「侍戦隊シンケンジャー」という子供向けのヒーローものを親子三人で観ている。僕たちの子供が、一緒に観てくれというからだ。

そのシンケンジャーで、なんとも泣ける場面があった。

きちんと説明すると話が長くなるので割愛するが、「外道衆」なる悪道たちから人間社会を守るべく戦うシンケンジャーは、「志葉家」18代目当主の「影武者」として「志葉 丈瑠(しば たける)」が4人+1人の家臣を率いてきたが、ここへきて、「本物」の18代目当主である「志葉 薫」が現れる。

「侍」の教えに最も忠実な「シンケンブルー」は、自分の「心」では「丈瑠」と行動を共にしたいと思いながら、「頭」では「侍」としての教えに忠実であるべきという狭間で悩んでいると、いわゆる「黒子」のひとりから、

「人間は犬ではない。主人(あるじ)は自分で決められる。大切なのは『志葉家』という『器』なのか?それとも『人物』という『中身』なのか?」

と助言され、迷いを断ち切る場面があった。

子供向けのフィクションとは思いつつ、僕は目頭が熱くなった。

こうして、このブログを書いている今も・・・(笑)。

ところで、政治には「カネ」がかかるのは否定のしようがない。

しかし、今日の日本の政界における実質的な最高権力者と言われる方に師事している人達は、自分の「選挙資金」と「票」が目的なのか?それとも、その人間性なり政策(中身)を支持してなのか?僕には分からない。

今の日本の政治の問題は、公職選挙法(きちんと勉強しているわけではないが)が時代に合わなくなり、制度疲労を起こしていることが、事の本質だろう。

因みに、オバマ氏がマケイン氏を破り大統領になったのはWebの仕組みを有効活用したことが大きいと言われているが、「パラダイス鎖国」の著者でもある「海部美知」さんが、そのことを簡潔に分かりやすく解説されている。

さて、今日はこれから「ドリームゲート」が主催する「大挑戦者祭」なる起業家コンテストの書類審査(一次)の合宿である。

先週木曜日から体調を崩してしまっており、正直、かなり身体が辛いが、閉塞感の漂う日本を少しでも元気にするべく、「お務め」を果たしに出掛けよう。

「THIS IS IT.」と「ビジョナリーカンパニー」。

仲の良い友人達が強く勧めるので、遅まきながら「THIS IS IT.」を観た。

確かに素晴らしい映画ではあったが、期待したほどではなかった。彼らがあまりに絶賛するので、僕の中での期待値が高くなってしまっていたからだろう。

「THIS IS IT.」の中で僕の印象に残ったのは、白人女性のギタリストに対して「ここが君の見せ場だ!!」というマイケルのひと言(彼女はかなりイケている!!)。

自分を支えてくれるスタッフにスポットライトを当てるのを忘れない。

但し、もうひとつ忘れてはいけない大切なことがある。

それは、数十人の「精鋭」を選ぶために、何万人というオーディションを行っているということだ。

「ビジョナリーカンパニー」でいう「誰をバスに乗せるか?」である。

「入口」で間違うと、どうにもならない。「安易な妥協」は、お互いを不幸にするだけである。

ところで、山川さんのTL(つぶやきのTimeline)に、こんなものがあった。

「太陽や星を見て正確な時を告げることのできる人より、時計を作った人のほうが尊敬を集める。ビジョナリーカンパニーの創業者は概して『時を告げる』タイプではなく、『時計を作る』タイプである」。

上記に当てはめて言うと、その「正確性」は別として、僕は「時を告げる」タイプだと思う。

概念やコンセプトの設計や構築には自信があるが、それを具現化する能力には劣っている。

山川さんはその逆である。ご自分でもそう思っているから、上記のようなつぶやきを書いたのだろう。

違う例えとして「食べ物に困っている人に魚を与えるよりも、魚の『釣り方』を教えた方が根本的な解決策になる」という話があるが、そういうことだ。

また、これは上記の例とは意味が異なる話だが、

「知識労働者は、ほとんどが専門家である。彼らは一つのことをよく行うとき、すなわち専門化したとき大きな成果をあげる。しかし専門知識はそれだけでは断片にすぎず不毛である。専門家のアウトプットは、他の専門家のアウトプットと統合されて成果となる」

というドラッガーの教えにも通ずることである。

自分はどちらのタイプなのか?何が得意で何が不得手なのか?

自分の専門性を必要としている人は誰か?誰に自分の知識を提供することが成果を上げることに繋がるか?

それに尽きる。

山川さんの怒濤のTLに触発されて・・・。