凋落の「世界第2位の経済大国」。

先々週は「5連ちゃん」、先週も「3度」ほど会食があった。

そもそもお酒が強くない僕は意識して酒量をコントロールしているので肝臓の負担はともかく、「胃」には相当な負担をかけていたようで、今日の昼頃から、今までに経験したことのない「胃痛」を感じた。

今日は午前中に義父母の墓参りに行った後、神宮外苑の銀杏並木沿い���レストランで昼食を食べた(僕はあまり食が進まなかったが・・・)。

シリアルアントレプレナー  「3度目の起業」と「初めての子育て」
★今日の午後。紅葉した葉は、殆ど散っている。

シリアルアントレプレナー  「3度目の起業」と「初めての子育て」
★こちらは、12/1(火)の午前中。まさに、紅葉の見頃で、黄色く色づいた葉がきれいだった。

不景気と言われつつも、銀杏並木沿いのレストランはどこも賑わっていた。

若いカップルもいれば、僕たちのような家族連れもいる。でも、目に付いたのは、60代と思しき、オバサマ達だった。

旦那さんがどんな仕事をしているのかは分からないが、彼女達の着飾った様子から、経済的に裕福なのは間違いない。

ところで、ソフトブレーン創業者の宋文洲さんのメルマガに、日本人として考えさせられることが書いてあった。

「副社長」と「第二位経済大国」と題された最新号のメルマガには、彼の友人の「日本人は第二位経済大国をアイデンティティにしてきただけにそれが無くなりそうな現在では方向感がない・・・」という発言が紹介されていた。

「GDPの規模をアイデンティティにするのか?」という宋さんの疑問に対してその友人は、「教科書も総理大臣の施政演説も日米首脳会談もよく使う言葉だよ。全員とはいわないが、かなりの人がそう思っている」と言い、主張を堅持したそうだ。

<以下は、宋さんのメルマガからの抜粋>

「第二位経済大国」にこだわることは「副社長」、「業界No.2」にこだわることと殆ど変わらないことです。個々の社員(国民)の幸せと何の関係もないことです。もし、「第二位経済大国」にアイデンティティを求めてきた人がいるならば、彼らはたぶん個性と自立心のない人々です。

個性のない人々は「ボリューム」や「大きさ」にこだわるのです。独裁者でもないのに国家の大きさにこだわり、それを誇りやアイデンティティにするなんて市民としてはかなり幼稚ではないかと、宋は思うのです。

これは日本人に限った話ではありません。中国人にもそのような人がいます。社会から脱落し個人のポジションを見付けられない人々に限って天安門広場のパレートに感動を覚えるのです。

しかし、中国が成長してきたのは間違いなく多くの個人が豊かさに憧れ、政治や国家と関係なく直向きに個人の努力を重ねてきたからだと思います。国家は個人の向上心を邪魔しないように、あるいは奨励するような政策さえ取ればそれでよいのです。

日本においても、もともと「GDP第2位」が日本国民の目的ではないはずです。戦争と貧乏を嫌う先人達が無我夢中で自分の豊かさを求めた結果として日本のGDPが2位になったのです。本来、関係のないその後の人達がこのGDP第2位を自慢する資格もなければ必要もないのです。まさにこれをアイデンティティにすること自体が先人達にとって迷惑千万の話です。

<ここまで>

僕を含めて、この話を鼻で笑える日本人がどれだけいるだろうか?

たしかに、国土の狭い島国で天然資源はなく、第二次世界大戦では見事に敗北し、おまけに最初で最後の原爆を落とされ、その宿敵のアメリカの核の傘下で守られておりと、それらの材料にもめげずに頑張ってきたお陰でG7唯一の東洋の国(マイノリティ)となった日本だが、「定量的尺度」以外に自らを定義する概念がないのだとすれば、それは哀しい事実だが、その「哀しい事実」が日本人である「誇り」を構成する大きな要素であるのは否定できない。

しかし、GDPの規模では、時間の問題で、中国やインドやブラジル等に抜き去られるのは間違いなく、また、一人当たりのGDPでは、既に、シンガポールや北欧の国々に遠く及ばず、なんと「24位」に甘んじている。

その現実を考えた時、これからの日本は、何をアイデンティティとして生きていくべきか?を考えざるを得ない。

さて、話を「銀杏並木のレストラン」に戻すと、この経済情勢下でも、一人当たりGDPが24位でも、僕たち家族も若いカップルも子育て中の家族も、そして裕福なオバサマ達も、それなりの生活レベルを享受していられるのは、僕たちの親の世代が頑張ってきたお陰であり、オバサマ達の旦那さん達が頑張ってきたからに他ならない。

そして、その過程で、道路・鉄道・空港・水道・ガス・電気・健康保険・年金等の社会インフラを整備してきており、その「維持費」に苦しみながらも、今のところは、過去の遺産の上で生活できているからである。

歴史と伝統のあるヨーロッパの国々に目を向ければ、フランスは「料理とワイン、絵画、プロヴァンスの農業」、イタリアなら「ファッションや高品質な繊維」、スペインなら「フラメンコや闘牛やシエスタ」、北欧の国々は「デザインや高福祉な社会制度」等、独自の「文化と歴史」に自国のアイデンティティがあるはずである。

同様に、これからの日本を考える時、「定量的尺度」ではなく、文化や歴史や精神性など「定性的」なものに「日本人のアイデンティティ」の源泉を求める必要があるだろう。

それが「科学技術」なのか?それとも「侘び寂び」の文化なのか?

いずれにしても、何もないところにアイデンティティを求められるわけはなく、その材料は2,000年の歴史のなかにあるはずである。

それなしには、将来展望は描けないだろう。

そして、それは、個人も同じ。