「血縁」の意味するもの。

23(土)のエントリーで伯父が亡くなったことを書いたが、ベトナムから帰国した22(金)の昼過ぎから、告別式および初七日の法要に参列した。その後、18時半頃に会社に行き、雑用を済ませて帰宅。さすがに疲れた。

そんなスケジュールだったので、22(金)は、22時には就寝した。

翌土曜日は、子供を保育園に送った後、午前中は「赤ちゃん本舗」に買い物に行き、午後は、行きつけのセラピア(整体)が昨年の秋に出した帝国ホテルの店舗で整体を受けた。

23(土)のエントリーは、その前後に書いたものだ。

ところで、日曜日は、告別式のために急遽帰国した叔母の家に、子供を連れて遊びに行った。彼は、その叔母を「プッシュのおばさん」と言ってなついている。彼女は日系アメリカ人と結婚したので、現在はロスに住んでいる。

しばらく、叔母の家で過ごした後、亡くなった伯父の奥さんであり、僕の妻の実の伯母の家を訪問した。既に80才を超えており、永年連れ添った夫を亡くし、これからが心配である。

その伯母の家で、昔の写真を見せてもらった。

妻の母は、その伯母(長女)を含めて6人兄弟だが、その内の4人が女性で、4人とも、とてもキレイだ。その中でも、長女である伯母は最も美人だ。若い頃の写真は、女優のようだった。

ところで、その伯母の家で昔の写真を見ながら、ふっと、こんなことを考えた。

僕らの子供は、伯母たちと血が繋がっており、伯母たちの両親とも血が繋がっている。現在を起点として、過去まで繋がっているのである。

当たり前のことと言えばそれまでだが、なぜか、そのことがとても不思議で且つ神聖なことのように思えた。

僕と妻は、そもそもは赤の他人であるにも係らず、僕らの間に生まれた彼は、僕とは血の繋がりのない母親(妻)の「先祖」と血が繋がっているのである。

その「命の絆」が、とても不思議に思え、そして、とても重たい(大切な)ことだと言うことを改めて考えた。

そうやって考えると、この僕も、両親ふたりは他人であるにも係らず、その両親の先祖と「血が繋がっている」のである。

亡くなっていった「命」を前にして、こうして生きていること(命)の大切さと神聖さ(深さ)を、初めて認識したような気がした。

改めて伯父の冥福を祈りたい。