「生き方」が問われる時代。

7月最初の日曜日の今日は、五反田TOCに入っている赤ちゃん本舗に出掛けた。高島屋のバーゲンや催し物があり、10:30にも係らず、駐車場を待つクルマの列が出来ていた。

買い物を済ませた後は一旦、家に帰り、それから代官山で出産祝いを買い、妻方の叔母の家に出掛けた。妻の従兄弟夫妻に2番目の子供ができたので、そのお祝いを持っていった。

叔母は日系2世の男性と結婚し、現在は、普段はロサンジェルスに住んでいる。たまたま、知り合いの結婚式があったとかで日本に帰ってきていた。彼女は叔父と結婚してからは、日本とロスとを行き来する生活を送っている。

叔母は若い頃、「松竹歌劇団」の女優というかダンサーというかをしており、今でもスタイルがいい。部屋には、現役だった頃の写真が飾ってあった。

松竹歌劇団を辞めた後は、ロスで日本の芸能界関連の仕事を始めたり、ここ10年ぐらいは、芸術関連の専門学校の副校長をしたりと、とても変化に富んだ人生を送っている人である。

彼女の夫(僕らの叔父)は、彼女以上に変化に富んだ人生を送っている人だ。

僕が初めて叔父に会ったのは、僕らの結婚式の時だったと思うが、ある時、僕が最初の会社を経営していた頃、僕らのオフィスを訪ねてきてくれたことがある。彼も会社を経営しており、きっと経営者としては極めて未熟な「義理の甥」のことが気になったのだろう。特に、頻繁に会っているわけではないが、それ以来、叔父と仲良くなった。

僕らの新婚旅行の帰りに、ロスにある叔父達の家に行ったことがある。高級住宅街の一角に建つ、ステキな家だった。

彼は、いわゆる「成功者」だと思うが、若い頃は、かなり貧乏な時期もあったらしい。叔母から聞いた話しだが、明日の食事にも困るような時でさえ、タバコは「マルボロ」で、TIMEを読んでいたらしい。相当に風変わりな人であるのは間違いない。と同時に、物事の本質を捉えている人でもある。

僕の回りには、叔父や叔母のような、ちょっと風変わりで、波瀾万丈な人生を送っている人がたくさんいる。

「類は友を呼ぶ」のだろうか?

彼らに共通しているのは、当然のことながら、経済的にもボラティリティ(不安定さ)が高いということだ。でも、みんな魅力的で、楽しそうな人生を送っている点も、共通している。

話しは変わるが、僕の記憶が正しければ、現在の日本社会はサラリーマンが「約8割」を占めている。そして、今後はどうかは別として、現時点では、まだまだ、年功序列賃金と終身雇用が根強く残っているのではないだろうか?

それは、余程のことがない限り、一度、上った階段を下ることはないことを意味している。もっと具体的に言えば、余程の失敗をしない限り、年収が下がることはないということだ。

そうなると、どうなるか? 失敗を恐れるようになると思う。

だってそうだろう。ソツなく仕事をこなしていけば、その額はともかくとして、必ず収入は増えていくわけで、その一方、一度でも大きな失敗したら、2度と「当初のルート(出世階段)」には戻れないと分かっているのだから。

でも、それは、見方を変えれば「アップサイド」も限られているわけであり、「ボラティリティの低い人生」ということだ。

インターネットの出現により、以前と較べると、いわゆる「起業」ということが格段にし易くなったと思う。それはイコール、ボラティリティの高い「生き方」をする人が、微々たる数ではあるが増えていることを意味している。

成功した人も失敗することはあるし、失敗しても、実力がある人は必ず、また、浮上していく。

失敗しても、貧乏な生活に陥っても、自分を信じて頑張って行けば、自分でも想像していなかったような出来事に遭遇する(成功する)こともある。僕の周りには、サラリーマンであっても、そういう人が何人もいる。

一度、沈んでも、また、浮上することが出来るということを理解できれば、自分がしたいことに「チャレンジ」できるはずである。

そういう人が一人でも多くなっていくことが、失敗を許容し、チャレンジを讃え、選択肢の多い、「自分らしい生き方」が出来る社会に繋がっていくように思う。

僕自身も、そのモデルの一人になれるよう、頑張っていきたい。