「教育の現場」を考える。子供たちに、どんな「未来(社会)」を残せるか?

昨日は、神奈川県相模原市にある高校にお邪魔して、1年生を対象とした「職業(仕事)を知る」と題する授業で講演をしてきた。

何日か前に「自分を知る」という趣旨での授業があったらしく、今日の授業はそれを踏まえてのことだそうだ。僕以外にも、新聞記者やホテルの副支配人、看護士、保育士、ケアマネジャー、建築家等の方々が参加されていた。神奈川新聞の記者の方は、授業で話しをすること以外に取材の意味もあって参加されていたらしい。僕もいくつかの質問を受けた。

僕の授業の参加者は「21人」。今回は、上記のように様々な職業の方の中で、生徒自身が「話しを聴きたい人」を選んで参加するものだったそうである。

僕は職業柄、大学や大学院で講義をすることは多々あるが、高校生の前で話しをしたのは今日が初めてだった。昨年の秋に、津久井湖(神奈川県)の近くにある中学校で同じような趣旨の授業にお招きいただいたことがあったが、今日はその時以上に難しかった。

ところで、僕は今日の授業をしてみて「教育」というものの難しさを改めて感じた。

偏差値的には極々普通のレベルの学校らしいが、僕の授業に出席した生徒達の学力や意識には、かなりの差があることが伝わってきた。当然のことながら、興味も関心事も異なるだろう。そういう彼ら全員を満足させる授業をすることは極めて困難なことだ。先生達の日頃の苦労が伺い知れた。

昨秋の中学校(3年生)も、同じように学力の差はあったと思うが、それでも、彼らの方が、まだ、世間の現実というものを良くも悪くも知らない分、自分の将来に対するポジティブな姿勢を持ち続けているように思えた。しかし、昨日の高校生は、自分の将来に希望を持っている人と、そうでない人との差が大きいように感じた。

僕は、2度めに入学した高校(最初に入った高校は3ヶ月で中退した)で、数学や物理について行けず、また、古文漢文の先生が「偏差値教育の申し子」のような人間で、成績の悪い生徒は「追試追試」の連続で嫌気が差し、勉強のみならず、人生そのものを「流して」生きるようになってしまったように、自分の将来そのものに対して諦めてしまっている生徒が少なくないような気がした。

でも、数学が出来なかろうと、古文漢文が出来なかろうと、その生徒の人生が決まる訳ではない。

僕は総務省が行った調査結果を引き合いに出し、仮に「夢が叶わなかった」としても、小学校6年生の時に「将来の夢や希望」を持っていた人の方が、夢や希望を持っていなかった人よりも、今が「幸せ」と感じている人や今までに「達成感や充実感」を覚えたことのある人が多い、というを話した。

また、僕は「高校中退経験(挫折)」があること、その翌年の「受験の2週間前に母親が亡くなった」こと、「ミュージシャンになる夢を諦めた」こと、「500人に5人しか受からない俳優のオーディションに受かった」ものの、その道で勝負する「勇気がなかった」こと、起業してからは「極貧時代」があったこと、その一方、創業に関与した会社が上場をして「キャピタルゲイン」を得たことなど、挫折と波乱の人生を歩んでいることを話した。

「夢を持つことの大切さ」を伝えたかったが、はたして、どれだけの生徒が理解してくれただろうか?

教育改革の方針において、しばしば「個性を活かす」という議論がなされるが、実際に「教育の現場」へ落とし込み、これからの日本社会における「教育」の在り方を考え、変えていくのは、そう簡単なことではない。

子供が1才4ヶ月になり、言葉らしきものを話すようになったこともあり、自分の子供の教育をどうしていくべきか?親としての立場で考えさせられた。