錦鯉(にしきごい)。

僕が子供の頃に住んでいた家には、小さいながらも「池」があった。

父は、その池で「錦鯉」を飼っていた。サラリーマンだった父にとって「錦鯉」を飼うというのは、それなりにお金のかかることだったのではないかと思う。

僕が生まれ育った福島県郡山市というのは、県のちょうど真ん中に位置しているが、その郡山市から南へ20キロぐらい行ったところに「鏡石」という町があり、父はそこまで「錦鯉」を買いに行っていた。子供(小学生)の僕には、その頃の父の想いは伺い知れぬことだったが、父にとってはささやかな趣味だったのではないかと思う。

趣味という意味では、父は「車(自動車)」が好きだったようである。

今となっては極々ありふれた車だが、当時(1970年代)のサラリーマンそれも地方都市の賃金水準で、中古とはいえ「フォルクスワーゲン」を買うのは、それなりのお金が必要だったのではないかと思う。そのフォルクスワーゲンを買う時、カタログを楽しそうに眺めていた父の姿を今もおぼろげながら覚えている。僕が車好きなのは、父譲りなのかもしれない。

また、僕の父は「完璧主義」で「ワンマン」な人でもあった。僕ら兄弟にとっては、とても怖い存在だった。

しかし、その父が、母が亡くなってからは、別人のように「温和」になったのを覚えている。僕が15才の時だった。

父はある時、ある会社からのオファー(ヘッドハント)を受けたことがあったらしい。でも、その勤務地は、県外であり、年老いた両親(僕にとっては祖父母)を今さら見知らぬ土地に連れて行くわけにはいかない(一緒に住んでいた)と思ったのか、その誘いは断念したという。ある時は、地元の「選挙」に出ないかという話しもあったらしいが、それも、家庭のことを考えて止めたと、親戚のおじさんから聞いた。

手前味噌ではあるが、父はとても優秀な人だったが、父をよく知る人から聞いた話しでは、様々な事情により、自分でやりたいことは封印してきた人だったらしい。

その父は、55才にして病に倒れたが、ある時、僕たち3人兄弟を病室のベッドの足元に立たせて、「いいか。俺がお前達に説教をできるのはこれが最後かもしれないので、耳の穴をかっぽじってよおく聞け」と言いながら、最後の力を振り絞って3人それぞれに言葉をくれたことがあった。

他のふたり(弟達)に何と言ったかは覚えていないが、僕が言われたことは今でもよく覚えている。

「郁生、俺が生きていれば、お前が将来、結婚する時には、マンションの頭金ぐらいは出してやれるし、何か事業をやりたいという時には、資本金ぐらいは出してやることができる。でも、これからはそういう援助は一切無いと思って生きて行け。それはどういう意味か分かるか? お前の友達が『1万円』使うところを、お前は『5千円』しか使えないぞ。もし、お前が友達と同じ『1万円』使いたいなら、友達の『2倍』稼ぐ必要があるぞ」。

父が言ってくれたことの「額面」どおりの意味は理解できたが、その言葉の「本質」を理解できたのは、僕の友人達が「結婚」するようになってからだった。父の言葉どおり、僕の友人達の多くは結婚と同時に「親がかり」でマンションを買い、住んでいた。

そんな父にも関らず、特に大学生の頃の僕は、ろくに勉強もせず、遊び呆けていた。

理由は自分でもよく分からないが、今日は父のこと、それも「錦鯉」のことを思い出した。

今度は僕が「父親」の端くれとして、子供との時間を大切にしたいと思う。