「人生の成功」の定義

先日、久しぶりにインフォプラントの大谷さんと食事をした。

2002年2月13日の設立準備会議以来、4年半に渡り運営してきた「インターネットリサーチ研究会(略称IRJ→後にIMRJへ改組)」の解散(今年9月末日)に伴い、発起人2人だけの「慰労会」という趣旨だった。

久しぶりに会った大谷さんは、とても元気で、表情が活き活きとしていた。

旧メディアプランニングセンターからインフォプラントへと商号変更し、本格的にインターネットリサーチ事業に参入してから約8年。昨年、ヤフー傘下に入り、経営基盤を固めてきたと同時に、アジア事業の一部をMBO(マネジメント・バイ・アウト)し、大きな変化を経てきた大谷さんは、ひとつの仕事を成し遂げたという顔をしていた。

最近は、故郷の青森県八戸市へインフォプラントの機能の一部を移転する計画を推進中であり、八戸市の雇用創出にも貢献し、市のアドバイザー等も務めているらしい。

その大谷さんからは、単なる経済合理性だけではなく、いかにして「地方都市」の産業を発展させるか? 自分の意志ではなくたまたま青森県八戸市に生まれた若者に、最先端の産業に係るチャンスを提供するにはどうすればよいか?といった「社会起業家」的な思想が伝わって来て、共感するものがあった。素晴らしいと思う。

「たまたま、八戸に生まれたというだけで、チャンスに恵まれない若者がたくさんいる。東京に出ればいいだろう?と言うと、親の面倒を看なければいけなかったりする。自分が『成功』したからいいという問題ではなく、若い人達にチャンスを提供していかないと・・・」と、大谷さんは言っていた。

ハッキリと「自分は成功した」と言う大谷さんに、僕はある種の畏敬の念を感じた。

「人生の成功」の定義は人それぞれだと思うが、大谷さんは常に「明確なビジョン」を持ち、その具現化のために生きてきた人であり、その結果として、経済的にも成功を収め、自分が具現化したかったことを具現化してきたということなのだろう。きっとこれからも、自分のやりたいことを次々と実現させていくだろう。

また、同じインターネットリサーチ業界の盟友であるマクロミルの杉本さんは「会社は利益がすべてだ」と明言し、実際にマクロミルを高利益体質の会社に育て上げた。

では、僕はいったい何を具現化しただろうか?

彼ら(成功者)には、まだまだ、遠く及ばない。

でも、まだ、人生の時間はある。

このままでは終われない。

自分自身であることの孤独。

インタースコープを経営している頃、自社のウェブサイトにある自己紹介ページに、「僕にとってのチャレンジとは、一生、自分らしく生きていくことです」と書いていた。

では、僕にとっての「自分らしさ」とは何か?

それは、いくつかの要素があるが、

・常に何かに挑戦をしている。
・イノベイティブなことに挑戦する。
・社会的に有意義なことを行う。
・人間関係を大切にする。
・一生懸命に頑張っている人を応援する。
・経済合理性を求めつつも、人の感情の機微を大切にする。
・長いものに巻かれない。

こんなことである。

文字にしてみると、特別難しそうなことではないと思われるかもしれないが、自分を貫くことが辛くなる時がある。

自分自身のことを書きたいところであるが、なかなか分かりすい事例がないので、先日もブログに書いた田坂広志さんの著作(自分であり続けるために)で描かれていたことを紹介したいと思う。

それは、「一つ目国の悲劇」というものだが、ある旅人が、旅の途中で道を見失い、住人のすべてが「一つ目」の国に迷い込んだという話し(寓話?)である。

その旅人は、最初の頃は、一つ目の人々を不思議に思い眺めていたが、徐々に自分だけが「二つの目」を持っていることが異常なことのように思えてきて、最後は「その孤独」に耐え切れず、自ら片方の目を潰し、一つ目になってしまったという。

古くから僕のブログを読んで下さっている方はご存知の話かもしれないが、ここまで書いて自分自身の事例を思い出した。

僕が小学生の頃、友達5~6人でラーメン屋に入った時、その中のひとりでガキ大将風の奴が最初に「味噌ラーメン」を頼んだところ、他の友人は僕も私も「味噌ラーメン」と続き、僕だけが最後に「塩ラーメン」と頼んだ。すると、「なぜ、お前はみんなと同じものを食べないんだ」と言われたので、「なぜ、自分の小遣いで自分が好きなものを頼んじゃいけないんだ?」と言ったところ、次の日から僕は「仲間外れ」にされた。

でも、僕は、その彼に迎合することはしなかった。

僕が「自分らしい生き方」ということに拘り、そういう生き方を貫こうとしている人を応援したいと思うようになった、原点なのかもしれない。

悠生の祖父

当たり前のことだが、僕の父と妻の父が悠生の祖父にあたる。

しかし、残念なことに、ふたりとも他界してしまっている。彼が物心ついた時に、残念に思うのではないかと思う。

幸か不幸か、妻の父は芸術家だったのだが、生前に描いた「絵」や「文字」や「人形」がある。

因みに、不二家の「ペコちゃん人形」は彼の作であり、そのことを、僕は密かに誇らしく思っている。僕は、義父のことがとても好きだった。

その義父が描いた絵のひとつを、今の家のリビングに飾っている。

中国は桂林あたりの絵である。とても生き生きとしており、静かなエネルギーを感じる。

その絵が誰の作かを知るはずもないが、悠生はその絵が気になるようである。

悠生がこうして元気に育っていることを、義父にも、僕の父にも見てもらえないのはとても残念だが、いつか、悠生が言葉を話せるようになった時、彼にとってのふたりの祖父の話をしてあげたいと思う。

自分の「ルーツ」や「家族の歴史」を知ることは、自分の人生を考える上で、とても大切なことだと思うから。

窓の外のケヤキ

インタースコープの創業と共に住み始めた中目黒の家を出て、今の家に越して来てから1年半になる。

中目黒の家と今の家は徒歩10分もない距離なので、住んでいる地域の環境はそれほど変わらない。

でも、窓の外の景色は大きく変わった。

中目黒の家の時は、窓のすぐ目の前に中学校があり、ベランダに出ると、教室の窓から顔を出している生徒と目が合うこともしばしばで、プライバシーの点では決して褒められたものではなかった。でも、僕らは、しがないその賃貸マンション暮らしを楽しんでいた。

今の家の窓の外には、大きなケヤキの木が立っている。樹齢はどのぐらい経つのだろうか?けっこう立派な木である。ここ数日の気温の変化により、紅葉が進み、季節感が漂っている。

そのケヤキの木以外にも、たくさんの木々が植えられており、都会のマンション暮らしにも係らず、四季の変化を楽しむことができる。4月にはサクラの木が見事な花を咲かせている。

今まで、このブログでは必ず何らかの形でビジネスや起業のことに絡めて僕なりのメッセージを織り込んできたが、これからは、何気ないプライベートなことも書いていこうと思う。

自分らしい生き方

僕がインタースコープを経営していた頃、インターンとして働いてくれていた金子くんという人がいる。

彼のお父さんは、ある有名なミュージシャンのプロデューサーをしていたらしい(今もそうかもしれない)が、経済的に不安定で、子供の頃は苦労をしたという。

そのせいもあり、彼は職業に関しては、とにかく「生計を立てる」ことを目的とし、自分の好きなことを仕事にすることは「絶対にするまい」と思っていたそうだ。

その彼とインターン歓迎会か何かの席で、たまたまお互いに正面に座り、「職業」に関する話しで真剣に議論をしたことがある。酒席はそれが初めてだったにも係らず、彼から「説教?」をされた。その時のことは今も印象に残っている。

「平石さんは自分の好きなことで身を立てようとしているんですね。そういう人の中で成功する人っていうのは、どのぐらいの確率でいると思いますか?」

「100人中1人ぐらいじゃない」

「じゃあ、平石さんは、その一人を目指しているんですね?」

「そういうことになるかな・・・」

「本当になれると思っているんですか!!!」

「・・・・・・」

「でも、だんだんとそれに近づいて行っているんでしょうね」

「そうありたいね・・・」

こんな感じだった。

その彼から、久しぶりにメールが届いた。

就職も決まり、今は修士論文で忙しいらしい。

その彼からのメールに、こんなことが書いてあった。

「そして私事ではありますが、『自分が父親の遺伝子を持っていること』を感じずにはいられない日々を送っています」。

彼は、非常に頭脳明晰であるが、父親譲りの「クール」なクリエイティビティを持っており、僕は「早晩、彼は自分自身の中に宿る、父親譲りのクリエイティビティに気づく時が来るだろうな」と思っていたが、どうやら、その時が来たらしい。彼のメールを読んで、そう思った。

すると、その瞬間、僕の瞼の裏に「悠生」の顔が浮かんできた。

そして、一瞬、目頭が熱くなり、涙がこぼれそうになってしまった。

この感情は自分でも何と表現していいか分からないし、言葉に表すことができない。今までの僕の人生の中では感じたことのないものだ。

「3度目の起業」とかとカッコいいことを言っているが、自分が思ったとおりには事業が立ち上がらず、苦労をしているわけだが、悠生にはそんなことは当然のことながら分かるはずもなく、僕の顔を見れば、屈託のない笑顔を返してくる。

そんな悠生を、僕は本当にちゃんと育てていけるのだろうか?生計を立てていけるのだろうか?

そんなことを思うと、何と言っていいか分からない感情にかられてしまう。

そんな僕にとって、金子くんのメールにあった「自分が父親の遺伝子を持っていることを感じずにはいられない日々を送っています」という一言には、とても勇気づけられ、励まされた。

ところで、僕が2001年から通っているセラピアという整体がある。

そこの鈴木さんという方にお世話になっている(かれこれ5年になる)のだが、今週の日曜日に整体をしてもらった時、彼がこんなことを言っていた。

「最近の平石さんの身体は、以前のような何かに対する怒りや漠然とした不安や焦りといったものが無くなっていますが、その反面、力がなくなってきています。失礼かもしれませんが、少し枯れてきているとも言えます。これから冬に向かうので、自然と言えば自然なのですが・・・」。

昨日のブログにも書いたが、ここ最近は「オポチュニティ」よりも「リスク」の方が気になる(見えるようになった)ようになっており、以前のように我武者羅に前に進む勇気をもてなくなっている自分がいるが、きっと、そういう精神的な面が身体に表れているのだろう。

以前、何かの機会にインタースコープ創業メンバーの整(久恒 整)と話しをした時に、彼が「あの頃(創業期)のような生活(毎日午前様 or 会社に泊まり込み)は、二度としたくないじゃないですか?」と言っていたことがあり、僕は「そうかな?(また、やってもいいじゃん)」と思っていたが、今にして考えると、僕よりも彼の方が「現実」が見えていたのだと思う。要するに、僕はあまり頭が良くないということだろう。

もうひとつ、精神面の変化という意味で、印象的なことがある。

日本人で唯一、ワールドカップに8年間出場し続けた世界的なプロウインドサーファーだった「飯島夏樹さん」が生前に語っていたことである。

彼は同じプロのウインドサーファーの女性と結婚したと記憶しているが、その方との間に子供ができた時、

「今までの自分は、(プロのウインドサーファーとして)常に何かと戦っている人生を歩んできたが、そろそろそういう生き方(戦う生き方)をやめて、別の生き方をする時期にきているのではないか・・・?」

と思ったそうである。

そして、プロウインドサーファーを引退し、グアムで日本人観光客を相手にした旅行事業を始めた。結果的にその事業は大成功し、家族みんなで裕福な暮らしを送っていたという。

しかし、とても残念なことに、彼は「細胞ガン」という極めて難しい病気にかかってしまい、グアムの事業を売却し、日本に帰ってきて治療に専念したそうである。

そして、本当に残念なことに、2005年2月28日に38才の生涯を終えてしまった。

彼が言っていた「常に何かと戦っていた」という気持ちが、今の僕には分かるような気がしている。

20代30代、具体的に言えば、最初の会社を創めてからインタースコープを創業してしばらくするまでの僕の原動力は「コンプレックス」であり、社会=エスタブリッシュメントに対する「反骨心」だったが、3流大学しか出ていない僕でも、一生懸命に頑張れば、それなりのことが出来るんだということを証明できたと思うようになってからは、そういう思いは薄れてきた。

そして、悠生が生まれたことと関係があるのか、今までのように自分の「プライド」や社会からリスペクトされるために「戦う生き方」ではなく、彼との時間を大切にしながら、自然体で「自分らしく」生きていきたいと思うようになった。

それが、43才の身体を「枯れたもの」にしているのかもしれない。

正直、「枯れてきている」と言われれば、人間として、男としてショックでないと言えば嘘になるが、肉体の老化は避けられないことであり、それを受け入れた上で、この先の人生を送って行けと神様が言っているのかもしれない。

でも、2年間のレッスンのお陰で、最近になってゴルフの飛距離は「3番手」も伸びた(笑)!!!
素直に、とっても嬉しい出来事である。

「リスク」や「恐怖」というのは、自分の才能や能力を遙かに超えるものに挑もうとするから感じるものであり、社会的評価や立場や名声等を忘れることができれば、ありのままの自分で出来ることをやっていくことができれば、そういうものは感じなくなるのかもしれない。

そうは言いつつも、今の自分は、心のどこかに成し遂げられなかった「株式公開」ということや、それを成し遂げた起業家仲間に対して、引け目を感じているのは事実である。

そこから完全に自由になれた時に初めて、「自分らしい生き方」ができるのかもしれない。

「未来」に書かれたもの

僕が好きな(尊敬している)田坂広志さん(ステキな名前である)の著書で、「自分であり続けるために」~流されずに今を生き切る50のメッセージ~ という本がある。

先日、久しぶりに家の中を掃除をしていて、その本を手にした。

僕は、本を読むと、自分で気になったページは爪を折っておくようにしており、この本にも「2ページ(2つのメッセージ)」で爪が折られていた。

そのひとつが「『未来』に書かれたもの」というものである。

僕は、その映画のことは知らないが、アラビアのロレンスという映画の中で、ピーター・トゥオール演じる英雄ロレンスが、疲労困憊のために落馬して灼熱の砂漠に取り残されてしまった兵士を助けようと、自分自身も疲労困憊した身体に鞭打って引き返そうとした時に、ひとりのアラビア人の兵士が、それを止めようとして、「It is written.(彼が砂漠で死ぬことは、宿命だ。そのことは、コーランに既に書かれている)」と言ったそうである。

その言葉に耳を貸さず、ロレンスは砂漠に引き返し、九死に一生を得る形で、その兵士を助け出す。

そして、部隊に戻ってきたロレンスは精根尽きて倒れる前に、静かに、しかし、力強く語るそうである。

「Nothing is written.(何も書かれていない)」

田坂さんは、この映画のワンシーンを引き合いに出して、「我々の歩む未来には、何も書かれていない」と書いている。

そして、こうも続けている。

「そのことがこの世界の真実であるにもかかわらず、我々の心の奥底に宿る「生の不安」は、そのことを受け入れられないのです。そして、そのことが、実は、我々の「生の輝き」であることに、気がつかないのです」。

改めて、深い言葉だと思った。

ドリームビジョンを創めて約8ヶ月になるが、ここ3~4ヶ月間は、「勝ちに行く」のではなく、「負けないように」という思考になっており、本来の自分を忘れていたような気がする。

僕はよく、28才で起業した時のことを「地雷」を引き合いに出して説明するが、さすがに2度の起業経験があるので、この先の「苦難」や「成功確率」がある程度分かってしまい、それが「原因」となり、勝負を恐れる心が生まれてきていたと思う。

そして、それは身体にも如実に表れるような気がしている。

ここ数日のことだが、どの道、片道切符で引き返すことはできないわけだし、どの道を選んでも「困難が待っている(避けられない)」のだったら、成功した時に、最も「自分らしく」、最も「デカイ」選択肢を選んだ方がやる気が出るよな・・・と思うようになった。

すると、長い間、忘れていたクリード(最初の会社)の時の自分やインターネットリサーチという事業を立ち上げようとしていた頃の自分を思い出した。と同時に、あの頃の躍動感というかエネルギーに似たものを、身体の中に感じるようになった。

昨日、52才の「中嶋常幸氏」が、三井住友VISA太平洋マスターズで優勝した。

20代や30代の頃とは違うのは間違いない事実だが、今までの経験から学んだことと、40代ならではの「集中力」をもって、大きな勝負をしたいと思う。

でも、僕という人間は、精神的に弱いことも事実である。

その日によって、気持ちが前向きな日もあれば、弱気になってしまう日もある。

自分という人間のすべてを受け入れて、前に進んでいくしかないんだろう。

そして、その勇気を持ちたいと思う。

追伸:自作の座右の銘である「人生はすべて必然」の意味は、物事は最初から決まっているということではなく、すべて原因がある、という意味である。

★ブログの検索ワード

僕のブログに訪れてくれる方々が、どんなワードで検索をしているかというと、当たり前であるが「平石郁生」が最も多い。

次に、多いのが「シリアルアントレプレナー」だ。

これは、自分でも驚きだった。

確かに、僕自身が自分のことを「シリアルアントレプレナー」とポジショニングして訴求しているわけだが、世の中に「シリアルアントレプレナー」という言葉で「検索」をする人がそこそこいるという事実には驚いた。

因みに、グーグルで「シリアルアントレプレナー」と検索すると、僕のブログがトップに表示される。

マーケティング戦略でいう「ポジショニング」なり「記号性&意味性」ということが大切だということを、自分自身を題材として検証できたと思っている。

何事も「試してみる」ことが重要ということだろう。