人の役割と人生のステージ

このタイトルは、インタースコープの顧問にもなって頂いている芳賀先生(女子栄養大)がGREEで書いていた日記?のものである。

余談だが、僕は、Blog のことを「日記風ホームページ」と訳したり、SNSの中で自分の想い等を書くコーナーを日記と言っているのが好きではない。そもそも日記とは、他人に見せるものではないと思うので。表現(言葉の定義)は大切である。

確かに、人間には、その人の「役割」というものがあると思うし、人生には「ステージ」というものがあると思う。

そして、僕の「役割」は何か?ということを考えた。

「自由に生きる=自分らしく生きる」ことの大切さを社会に伝えること。
「自分の夢=成し遂げたいこと」に向かって「挑戦すること・挑戦し続けること」の素晴らしさを伝えること。
そのような生き方をするために必要な「覚悟」や「リスク」を伝えること。
そして、自分自身が「そういう生き方」をしていくこと。

ということだろう。

次に、人生の「ステージ」について考えた。

以前にも書いたことがあるが、僕は30代半ばの頃、特に理由があったわけではないが、その先の自分の人生を考えた時、

37~39才(30代最後の3年間)は、「最初のピーク」になるだろう。
40~42才は、階段で言うところの「踊り場」になるだろう。
43~45才は、次のピークに向かうための「変化の時期」になるだろう。
46~52才は、運気が上がっていくだろう。
53~57才は、人生のピークになるだろう。

何の根拠もなく、そんなふうに考えた。

現在は、43才。

42才(昨年の9月)で子供ができ、43才になると同時にインタースコープを退任し、今の僕の人生は、確かに「変化の時期(ステージ)」にあると思う。

2000年前後に創業したネットベンチャー仲間の主要な人達は、その殆どが上場を果たし、僕とは違う「ステージ」で生きている。

知らない人達であれば何の感情も覚えないかもしれないが、よく知っている人達であり、ステージの違いを考えさせられる。

しかし、そのことに何の意味もない。

自分のステージをしっかりと生きたいと思う。「強い心」を持って。

MIXI いよいよ本日上場!!!

はたして初値はいくらか?

先日のゴルフの車中で、アライドアーキテクツの中村さんと「MIXI」の話しをした。

MXIの上場承認が降りた数日後、日経新聞の一面に、楽天のトラフィックをMIXIが抜いたという記事がグラフでの解説付きで掲載されていた。かなりのI.R.効果があったと思う。

しかし、楽天のトラフィックとMIXIのトラフィックは「等価」なのか?

中村さんがそこを指摘していた。鋭い視点だと思う。

楽天を訪問する人々は「買い物」を目的としていることに対して、MIXIユーザーの目的は、友人との会話や日記を書くこと、ニュースを読むことであり、ページビューには貢献するが、直接的に「お金を落とす」行為はしていない。

MIXIの笠原さんは今後、MIXIというプラットフォーム上で「EC」をやっていくと思われるが、MIXIユーザーの年齢層や可処分所得、カルチャー等を考えた時、はたして、どのような結果が出るか? そこは未知数である。

公募価格で計算した時価総額は「1,000億円」を超えており、PERは「100倍」を超えている。

これは、かなりの成長を織り込んだ数字である。つまり、「期待値」としての「株価」がついているということだ。

その期待に応えられるか? これからのMIXIに注目したい。そして、GREEにも。

9.11

「同時多発テロ」から丸5年が過ぎた昨日、各メディアでの報道が印象に残った。

僕は20代の頃、New York が大好きで、延べ20回近く訪れたことがある。もちろん、ワールドトレードセンターも何度か上ったことがある。因みに、僕が最後にNew Yorkに行ったのは、2001年の4月だった。

実は、僕の友人のある女性は、同時多発テロが起きたまさしくその瞬間、別の飛行機でマンハッタンの上空を飛んでいた。

彼女を乗せた成田行きの飛行機は、シカゴに緊急着陸をし、彼女はそこで約1週間に渡り、足止めを食らったそうである。入出国を厳重に管理されたからだ。

生死の分かれ目とは、こういうことを言うのだろう。

何事もなく日常を生きていることに感謝しなければと、改めて思った。

犠牲者の方々のご冥福を祈ります。

致命的なミスとリカバリー可能なミス。

昨日は久しぶりにゴルフに行った。

メンバーは、アライドアーキテクツの中村さん、オプトの福岡さん、インタースペースの河端さんと僕。コースは、太平洋クラブ成田。トリッキーで、僕の好きなコースだ。

結果は「47+51=98」と極々平凡なスコアだったが、今回のゴルフからは学ぶものが多かった。

実はゴルフ前日の土曜日に久しぶりにレッスンに行ったのだが、インストラクターの方と話しをしていて、あることに気がついた。

当たり前のことだが、ゴルフにも「致命的なミス」と「リカバリー可能なミス」があるということだ。

ショットには、上下(球が上がり過ぎ/低すぎ)のミスと左右のミスがあるが、上下のミスは球が前に飛んでいる限り、あまり大きなケガはしないで済む。しかし、左右のミスは「OBやペナルティ」など、致命的なミスになりやすい。

距離を求めず、方向性を求めていけば、左右のミスは少なくなる。

その結果、体力的にへばってしまった最後の2ホールを除き、昨日は致命的なミスショットは殆ど無かった。ひとつだけだが、バディーも取れた。

にも関らず、平凡なスコアだったのは何故か? そう、パターのせいである。

パターに関しては、どこが悪いかは分かっていたが、プレー中に矯正することは困難であり、昨日は諦めていた。

もうひとつ、インストラクターとの会話で学んだことがある。

プロでも「改心のショット」は、ラウンド中に1回あるかないかだという。

プロが拘るのは「スコア(数字)」であり、ナイスショットの「感触」ではない。アマチュアの場合、とかくナイスショットの「感触」が忘れられず、すべてのショットにそれを求めたがる傾向があるが、それではスコアはまとまらない。

ゴルフは、人生や経営に酷似していると思う。

実は今週の土曜日は、NILS(New Industry Leaders Summit)メンバーでのコンペがある。

幸いにもコースは僕がよく知っているカレドニアンなので、昨日の教訓を活かして、より良いゴルフをしたい。

上杉謙信と武田信玄

僕は歴史は全く詳しくないが、上杉謙信と武田信玄の話しで、とても共感を覚えた話しがある。

武田信玄の領土は甲州や信州だったため、「塩」は他の領主(領土)から「輸入」する必要があった。

信玄が塩を「輸入」していたところは、今川氏と北条氏が統治している領土だったらしいが、ある時、彼らは信玄の領土に塩を「輸出」することをストップしてしまったらしい。

そのことを伝え聞いた上杉謙信は、「武将というもの、戦場で雌雄を決するのがあるべき姿であり、塩を送ることを止めた今川氏と北条氏は卑怯である」と言って、宿敵の武田信玄が統治する領土に塩を共有したという。

話しはちょっと異なるが、インターネットリサーチの黎明期に、インフォプラントの大谷さんと僕とで発起人となり、業界全体の発展に寄与するべく、インターネットリサーチ研究会という組織を設立した。

そこで、ビジネス上の競合関係を超えて業界全体の利益を考え、様々な活動をしてきたが、そのことが結局は、インフォプラントにもインタースコープにも利益をもたらしたと思う。

その逆のパターンが「談合」であろう。

常に「大局観」を持ち、フェアな勝負をしたいと思う。

花・枝・幹・根

今日(厳密には昨夜)、仕事関係者と食事をしてきた店に、僕の好きな「相田みつを」の日めくりカレンダーがあった。

今日の「書(ひとこと)」は、「花を支えるのは枝、枝を支えるのは幹、幹を支えるのは根。根は見えないんだな」というものだった。

「大事なものは、見えないところにある」ということは、よく聞くことだが、そのとおりだと思う。

企業経営で言えば、形式知化できない領域にこそ、価値があったりする。

物事の本質を見極める「目と心」を持ちたいと思う。

言葉は「誤解」を生む。

「沈黙は金なり」という言葉で検索してみた。すると、とても意味深いコラムが出て来た。

「言葉は短くなることで記憶に残るが、短くし過ぎると本来の意味が薄れてしまうことがある」という。

そして、「言葉を短くすると意味が発散して分からなくなります。そこには思いこみだけが生まれ、正しい理解は遠ざかります。コミュニケーションも同じです。必要な言葉で済ますのではなくて、十分な言葉を添えなければなりません」と書いてある。

たしかにそう思う。そのことを、身をもって経験したことがある。

僕が昨年、あるところで講演した際のことだ。

「お金があると、実は『お金では買えないもの』を守ることができる」という僕の発言に対して、ある方のブログで痛烈に批判をされていた。

このブログでも何度か書いたとおり、僕は物凄い貧乏な生活もしてきたが、その方は、僕がそんな人生を歩んできたことは知る由もなく、ステージで講演している僕のことしか知らないわけで、拝金主義の鼻持ちならぬ輩だと思われたのだろう。

「人に何かを伝えるというのは、とても難しい」いうことを、改めて考えさせられた。

さらに難しいのは、誤解を恐れて当たり障りのない、あるいは、万人に受け入れられるような話しや表現をしていては「相手の印象には残りにくい」ということである。

そもそも僕は、リスクを取って生きることを選択しているわけで、周囲の批判を恐れていては思い切ったことはできないと思う。

しかし、それも、僕の「表現力の無さ」かもしれないし、あるいは、その時の僕の中に「奢り」や「慢心」があり、それが言葉に出ていたのかもしれない。

ところで、このエントリーを書いていて、亡くなった母が僕に言っていた言葉を思い出した。

「あなたは味方も1,000人つくるけど、敵も1,000人つくる人だから、そのことは覚えておきなさい」と母は言っていた。

実際、同じ講演に対して、「とても素晴らしかった」とコメントをくれた方もいる。

すべては「自業自得」。批判も含めて、すべてを受け入れていこうと思う。