あなたの価値観に最も影響を与えたものは何か?

その質問を最初に受けたのは、J.W.Thompson(現在はJWT)という外資系広告代理店の社長面接だったと思う。僕が27才の時だ。

当時の社長は、アラン・ミドルトンといったと思うが、牛乳瓶の底のような厚い眼鏡をかけた大柄な人物で、広告業界の人間というよりは、中学か高校の校長先生という感じの物腰の柔らかい人だった。

僕は「Parents.(両親だと思う)」と答えた。

何日か前のポストでマネックスの松本さんのことを書いたが、6/1(木)にドリームビジョン主催で行う、松本さんと僕との対談形式のセミナーでどんな質問をするか?を考えるために、今日は、彼のあるインンタビュー記事を読んでいた。

話は逸れるが、今日は悠生(子供)の具合が悪く保育園に預けることができず、また、妻はどうしても休めない授業があって大学院に行ったため(僕の妻は大学院に通っている。因みに、年齢は20代ではない。念のため/笑)、14時過ぎまで、僕が家に残り、悠生の面倒を看ていた。

こういう生活は、普通のサラリーマンだったら出来ないだろうし、インタースコープの常勤取締役を続けていたら出来なかっただろう。そういう意味でも「人生はすべて必然」なのだろうと思う。

松本さんにはお兄さんがいたらしいが、彼が小学生の頃、不幸にも亡くなってしまったという。そのことで松本さんは大きなショックを受けたそうである。

お兄さんも松本さんも開成高校を目指していたらしいが、そのお兄さんの死により、松本さんは「僕はふたり分、頑張らなければならない」と思い、猛勉強をして、開成高校に合格したと語っている。

彼と比較しては大変申し訳ないが、僕にも似たような経験がある。

僕の出身地である福島県には、地元では有名な進学校が3つあり、そのひとつが「結果的」に僕が卒業した「安積高校」である。僕は安積高校の受験に失敗し、仕方なく、二次募集で他の県立高校に入学した。こう言っては大変失礼だと思うが学力レベルの違いにより、その高校に通うのが嫌になってしまい、3ヶ月で中退した。

僕が「退学して、翌年もう一度、安積高校を受験したい」と言ったところ、父親からも当時の担任の先生からも中学時代の担任の先生からも、みんなから反対された。でも、僕はどうしてもモチベーションが続かず、退学したいと言っていた時に、母親が僕にこう言ってくれた。

「ひとつだけ、お母さんに約束してくれる。結果は問わないから、最後まで投げ出さずに予備校に通うこと。そのことを約束してくれるなら、私があなたのお父さんを説得してあげる」。

父親はメチャクチャ頑固な人で、僕には母が父を説得できるとは思えなかったが、僕は母親と約束をした。すると、何と言ったのかは分からないが、母は本当に父を説得してくれたのである。

それから僕の予備校生活が始まった。当時の言葉で言う「中学浪人」である。

でも、その8ヶ月は、僕の人生の中でも最も楽しく充実していた時間だったと言っても過言ではないかもしれない。本当に楽しかった。

この話は以前に受けた取材でも話したことがあるように思うが、予備校で知り合った連中は皆、「挫折」した少年達であり、何もカッコつけるものもなく、また、その必要もなかったことが、その背景にはあったように思う。その頃に知り合った連中とは、今も「心の中」で繋がっている。なかなか会えないけど。中には、プロ野球の選手になった奴もいた。

さて、頑固な父親を説得してくれた母だが、実は、僕が翌年、安積高校を再受験する2週間前に亡くなってしまった。肺ガンだった。

その時の僕は、母が生きていたら、たまたま不得意な問題ばかりが出たとか、体調が悪かったとか、言い訳も出来るだろうが、「亡くなってしまった人には言い訳はできない・・・」と思い、その母のためにも、絶対に合格する必要があると思った。結果的には無事、合格した。一度も僕を褒めたことのなかった父が、その時ばかりは僕を褒めてくれたことが印象に残っている。その父は、僕が24才になってすぐに亡くなってしまった。

悪い癖でまたしても話が長くなってしまったが、僕は両親から大きな影響を受けたと思う。そのことに、後になってから気づいた。

松本さんもお父さんから大きな影響を受けたと言っているが、そのお陰で「反体制」的になったそうである。詳細は省略するが、あることで納得がいかずに先生に直談判したことが原因で、小学校(私立)を2ヶ月だったか、3ヶ月だったかで退学なったそうである。偉業を成し遂げる人は、やはり、やることが違う(笑)。

彼は、成功したベンチャー企業の創業経営者としては非常に珍しく、人に対する威圧感を感じさせない人だ。物凄い才能と努力の持ち主でありながら、とてもソフトでカジュアルであり、尚かつ「崇高な理念」を持った人である。

6月1日が楽しみだ。