起業したはいいものの・・・。

借金で用意した資本金100万円を元手に、僕の起業家人生はスタートした。

クリードエクセキュート(以下、クリードと略す)という会社は、
次の起業にあたるインタースコープを創るまで、9年間経営していた。

経営と言っても、株主は殆ど僕だし、
最も大勢の人がいた時でさえ、僕を入れて5~6人だった。
なので、個人事務所に毛が生えた程度だった。

クリードをやっていた9年間は、前期・中期・後期という具合に、
それぞれ3年ずつに分けることができる。

最初の3年間は、コンサルティング会社や広告代理店でやっていた
市場の調査分析とその結果を踏まえた戦略立案的な仕事をしていた。

そういうと聞こえがいいが、実際には、
以前に勤めていたコンサルティング会社や
知り合いに紹介してもらった広告代理店の下請けをしていた。

それでは、起業した意味がないと思い、
2年目からは自分で営業もしたが、
なかなか思い通りに仕事は取れなかった。

そうこうしているうちに3年目に入ったのだが、
ここで最初の危機が訪れた。

厳密に言えば、2年目の終わりの頃、
あと1ヶ月後に400万円の支払いがあるにも係らず、
手元の現金は殆どないという状態になったことがある。

何とか仕事を取ろうと必死になっていると、
知り合いから紹介されたワインの輸入販売を手がける会社から
パンフレットの制作を頼まれることになり、
「シメタ!!!」と思い、半金を契約時に、残金を納品後2週間以内に
という契約を結び、何とか窮地を乗り切ったことがあった。

さらに言うと、当時、そのような仕事のノウハウは無かったので、
オフィスを間借りさせてもらっていた会社にすべて丸投げした。

なので、売上380万円のうち、360万円は外注費だった。
そして、その外注費の支払いを少々待ってもらった。

でも、手元にお金が残るわけではないから、
また、次の仕事を取る必要があったのだが、
そういうところに、ある知り合いから「町興し」の一環として
企画したイベントの受け皿として、
僕の会社を貸して欲しいという相談があった。

イベントの内容は、トリニダード&トバゴという南米の国から、
スティールドラム・オーケストラのバンドを招聘する仕事だったのだが、
僕の知り合いは「個人」で仕事をしており、行政としては、
法人でないと仕事を発注できないという話になり、
その受け皿の会社を探していたのだった。

予算は400万円で外に出て行くお金も400万円だったが、
消費税分の20万円が一時的に手元に残ったので、
これで何とか凌いだ。

今にしてみれば、とんでもない綱渡りだった。
尚、この仕事はメチャクチャ大変だったが、非常におもしろかった。

またしても脱線してしまったが、3年目の危機というのは、
クリードの設立時に役員に名前を連ねていた僕の友人が、
その年の7月、勤めていた会社を辞めてジョインしてきたのだが、
一緒に連れてきたスタッフがいて、
僕一人と外注だけでさえ綱渡りの連続だった会社が、
いきなりフルタイム4人になって固定費が増えてしまい、
その割に売上が増えず、どうにもならなくなってしまったということだ。

で、僕はどうしたか・・・。

亡くなった父親の遺産のゴルフ場の会員権を売却し、
増資してみんなの給料を支払った。

でも、そのお金も4ヶ月で底をつきそうになり、
「これでもうお終いか?」と思った。

そんなふうに開き直った直後、
某銀行系クレジットカード会社の知り合いから仕事の話がきた。
(実は、その時の担当者と、その後、結婚した。)

そしたら今度は、留学・ホームステイ等の斡旋会社に転職していた
コンサルティング会社時代の知り合いから、
仕事の話がきた。

それで息を吹き返した。

ある先輩に、
「丸3年やっていれば、一人前として認められるようになるよ」
と言われていたが、そういうことかと思ったりもした。

その年の売上は3,850万円で大赤字だったが、
その翌年から3年間は、倍々ゲームで売上が伸びていった。

その頃、つまり、中期(4~6年目)の売上は、
マッキントッシュを使ったDTPと通信販売の商品提供が主たるものだった。

また、マッキントッシュとの出会いは、
極めてアナログだった僕を一気にPCフリークに変えた。

そして、その当時は「マルチメディア」なる言葉が全盛期で、
僕の周囲にはその手の輩がたくさんいた。

中には「2次プロバイダー(ISP)」を始めた人もいたりして、
急速にデジタル&インターネットの世界に魅せられていった。

ある友人は、その後、シリコンバレーに渡り、
現地のVCから20億円ほどを調達し、
シスコに対抗するシェアウエアのルーター開発ベンチャーを創業した。

今にして思うと、DTPの仕事が、
僕をインターネットの仕事に向かわせたと思う。

そうこうしているうちに、本格的にインターネットが浸透し出し、
僕もインターネット関連の事業企画に携わるようになった。

あれは1996年の12月だったから、そろそろ10年になるわけだが、
僕は、当時の売上の70%を占めていたDTPの仕事をバッサリと止めた。

何故かというと、DTPの仕事をやりたくて起業したわけではなかったから。

しかし、その翌年と翌々年は、散々な目にあった。
要するに、めちゃくちゃ貧乏になった。

初心に返って、市場の調査分析と事業開発の仕事で
会社をやっていこうと決心したのだが、
そう甘くはなく、仕事が取れなかった。

97年の夏前から98年の秋までの1年半、
妻は、週に3日は派遣で働いて家計の足しにしていた。

妻もお客さんを持っていたから、派遣で働いている日は、
昼休みに「公衆電話」から会社の留守電を聞き、
お客さんに電話でフォローをし、
夕方からクリードに来て仕事するという生活をしていた。

そんな生活をしているうちに、転機が訪れた。

設立時に役員として名前を連ねていた友人が、
ある総合商社の関連会社で働いていたことがあったお陰で、
その商社からI.T.関連の新規事業開発のコンサルティングを依頼された。

その仕事はある意味で、
僕の人生を大きく変えたと言っても過言ではないと思う。

僕は、たまたま好きが講じて英語が話せることもあり、
その商社の担当者は帰国子女でTOEIC985点という恐ろしいほど
英語が上手にも係らず、僕らが取り組んでいた新規事業に関しては、
当然のことながら僕の方が精通しているので、
ある米国企業の本社に乗り込んで
その会社のCOOにプレゼンする大役を僕に任せてくれた。

その仕事で僕は、I.T.やデータベースのことを学ぶことができた。
後のインタースコープに繋がるアイディアも、そこから得た。

そして、その仕事の担当者は、
その2年後に僕がインタースコープを立ち上げる時に、
ふたつ返事で出資してくれた。

また、同じ頃、知り合いの紹介で、
「疑似キャッシュを開発してインターネットのモール」を運営していた
渡辺さんという人と知り合った。

後に、彼からの依頼により、保険スクエアbang ! という
自動車保険の見積もり比較サイトのインキュベーションに
参加することになった。

その会社は、2004年9月21日、東証マザーズに上場した。

僕は多少の株を持たせてもらっていたお陰で、
それなりのキャピタルゲインを得た。

それでまた、僕の人生は変わった。
ネットバブル様々である。

この続きは明日にしよう。

子育てで睡眠不足の上、風邪を引いてしまっており、
夜更かしは止めろと医者に言われているので。

追伸:そういえばサイバーエージェントの藤田さんとも、オン・ザ・エッヂ(当時)の堀江さんとも、この頃に知り合った。