第8回 小池 聡氏 – 法政大学MBAとの共同講座 2007/1/25 (1)

ネットエイジキャピタルパートナーズ株式会社 代表取締役社長 兼
株式会社ネットエイジグループ 代表取締役
小池 聡 氏

iSi電通アメリカ副社長としてGEおよび電通の各種IT、マルチメディア、インターネット・プロジェクトに従事。 1997年にiSi電通ホールディングスCFO兼ネットイヤーグループCEOに就任。シリコンアレー、シリコンバレーを中心にネットビジネスのインキュベーション及びコンサルティング事業を展開。1998年にネットイヤーグループをMBOし独立。1999年に日本法人ネットイヤーグループ株式会社およびネットイヤー・ナレッジキャピタル・パートナーズ株式会社を設立。経済産業省、総務省、内閣府のIT関連委員を歴任。現在、株式会社ネットエイジグループ 代表取締役、ネットエイジキャピタルパートナーズ株式会社 代表取締役社長、東京商工会議所 国際経済委員会委員 兼渋谷支部情報サービス分科会会長。日米IT・投資業界での20年以上の経験を生かしベンチャーの育成に注力。

自己紹介とネットエイジの紹介

写真:小池 聡 氏

こんにちは。小池です。まずは、自己紹介を致します。 主要職歴を挙げますと、アメリカが長いんですね。90年代ずっとアメリカにいました。そこは駐在員としていました。 のちほどいろいろご紹介をさせていただきますけど、そこではいろいろと波乱万丈の起業人生がありました。

そこから日本に来ました。 日本でも特にビットバレーじゃないですけど、ITブームがありまして、結構いろいろなところで引っ張りだこになった時期がございまして、 三和銀行の顧問や、ダイムラー・クライスラーグループの顧問などです。他にも通産省や総務省の様々な委員や、 内閣府の経済財政諮問会議の経済動向分析検討チーム委員にも、 一回指名されました。

ベンチャー支援系の委員が多いですね、やはり。

また、ジェトロの顧問もニューヨークでやっていました。 今は東京商工会議所でも国際経済委員などをやっています。

会社の概要をご説明します。

事業はやっていないネットエイジグループという純粋持ち株会社があり、 その下に株式会社ネットエイジという会社と、ネットエイジキャピタルパートナーズという会社があります。 ネットエイジは今、西川潔という者が社長をやっております。ネットエイジキャピタルパートナーズというベンチャーキャピタルの会社は、 私が社長をやっております。この集合体がネットエイジグループです。中国やオーストラリアでも現地法人や合弁会社を作っていますし、 スイスに明日出張しますが、そこでも合弁会社を作ります。

25年位前になりますが、学生時代の頃から振り返ってみます。 ちょうど時代が豊かな世代だったので、 学生も比較的お金を持っていました。他で言うとちょうどウォークマンが出てきましたね。 学生時代には学生向けのマーケティング会社をやっていました。3000人規模で調査し、企業へレポートを出していました。 それが非常に儲かりまして、 アルバイトのたかがしれている額より数段上の金額でしたね。その会社がうまくいっていたので、 卒業後にその会社をやっていてもよかったのですが、 「自分は修行しなければだめだ」と考え、就職を選びました。マーケティングとコンピューターに興味を持っていましたが、 お付き合いのあった電通の知人に相談したところ、「電通が、広告とはまったく関係のないことだが、 コンピューターとネットワークを利用して、まったく新しい事業をやっているんだ」と紹介していただきました。 今までにない事業だったので、説明している人事の方もよくわかっていない事業でしたね。 電通は広告以外にもいろいろやっていたので、 非常に興味を持ちまして、電通に入社しました。

学生マーケティングから電通へ

電通では社会人としての基礎を叩きこまれました。 非常に体育会系の会社で、教育もOJT中心ですが、 研修に結構お金をかけてくれました。ここではいろいろな経験をしました。営業も企画も。 その中でも営業の業務は大きかったですね。電通はクライアントが多様で、お客様と飲みに行くときなどは、 会社によって使うお酒の銘柄まで変えていました。

新人時代は、用がなくてもお客さんのところに行って、 ニーズをつかむということもしていました。 私は言われたことをやるよりは自分で提案することが好きで、 いろいろなことを考えては提案していました。 しまいには「提案書の小池」と呼ばれていました。

ニューヨークで起業

写真:小池 聡 氏

その後、GEとの合弁会社を電通が作ったんですけど、 1982,3年くらいからGEとのやりとりでメールを使っていました。ですから、メールの使用歴は25年位前からですね。 その頃からはパソコンすらなく、 タイプライターに毛が生えたようなものを使っていました。スピードは今とは比べ物にならないくらいの遅さでしたね。 また、英語もやらざるを得ませんので、 そこから海外への興味を持ちました。

「ニューヨークで働きたい」 と思うようになってきたのもこの頃からですね。 そこから人事異動の希望を出す際でも海外駐在、 特にニューヨークを希望していました。

すると、幸運にも私は非常に成績もよかったのもあり、 希望が叶いました。その時に「意志を持っていれば、 なんとかなるものだな」と思いました。90年の初めの頃で日本ではバブルの末期でしたが、 アメリカでは非常に景気が悪かったんですね。 ここもラッキーだったんですが、アメリカからいろいろな会社が撤退していた時期でした。 当社も例に漏れず、人がいなくなってしまったので、「取締役兼副社長 COO」をやることになりました。 まだ30歳前後でしたね。

また、そのときがインターネットの黎明期でした。 もともと、インターネットはアメリカの国防ネットワークでしたが、冷戦後では必要がなくなってしまったので民間に開放されました。 この民間開放のニュースは実際に開放される1年くらい前にGEの幹部から聞きました。何故かと申しますと、 GEが軍需産業に関わっていたからですね。

「これは大きなビジネスチャンスだ」と思いまして、 本社の許可も取らずに、 インターネットのビジネス部門を93年に作りました。 これはネットビジネスの創業の中でもかなり早い段階にあたります。

実は、現地法人の中でインターネットのビジネスを立ち上げましたが、 日本ではまだまだインターネットに関しての興味が薄く、たまたま本社の社長が出張に来たときに、 今までやってきたことを説明したり、また、 いろいろな企業へ案内して「今のこの世の中は、インターネットの誕生でこうなっているんです。 インターネットビジネス専門の会社を作らせてください」 直談判したところ、作らせてもらえて、その時に作ったのが今のネットエイジグループの原型です。

自分の会社ができる

そうこうしているうちに、 日本の電通グループ各社が上場することになり、 各社に上場準備室みたいのができていたんです。それはすでに知っていたんですが、そこで、 上場するために会社の戦略を見直すことになりました。 上場するまでの間は東証の審査がありますので、あまりリスクのあるものにはあまり手を出さずに「選択と集中」 と言いますか、本業に注力しよう、という方針になりました。そこで事業のリストアップをしていくわけですが、 インターネットというよくわからない事業で駐在員もいない、ということで私の事業がブラックリストに真っ先に挙がりまして、 事業凍結、ということになりました。

僕はもともと駐在員ですから戻ればいいだけの話なんですけど、 僕が必死に口説いて雇った優秀な人たち、同じビジョンを持って、「夢をかけよう」という人たちを路頭に迷わすことになるかもしれない。 もちろん転職のサポートはしてくれる、とのことでしたが、どこかしらに転籍したとしてもやりたいことが出来るとは限らない。 そういうことは私としても許せませんでしたし、このビジネスに非常に力を入れていましたから「嫌だ」 と言いました。そういった攻防がありまして、最後には「この会社、僕がやるから売ってくれ」と言ってしまいました。そうすると、 本社の役員会で「そんなに小池が言うなら」ということで「売ってやる」 ということになったんですね。もちろん自分で買えたらいいと思いますけど、相当お金を入れてもらっていた会社で、 そう簡単に買えるわけでもない。

そこからベンチャーキャピタルを片っ端から周りました。 大体、会ってもくれないんですけど、電話やメールをかなりしました。 こういうインターネット関連事業をやっていましたから、 人脈はもちろんありました。

ですけど、 いざ自分が資金調達をするとなると、こんなに大変なことなのか、と。 投資とかは簡単にしてしまったりするんですけど、異国の地で意地悪なキャピタリストを相手にして、 やりあわなければいけない。 そんなにやすやすと資金調達できるわけではない。結局自分のなけなしの預金と退職金をあて、 借りられるだけの借金をしました。 今でもその借金は残っているんでけどね。そういう経緯で独立をしました。

こういう例はなかなかない、ということで日経にも載りました。
また、会社を買ったらお金がなくなってしまいました。 来週の支払いをどうしよう、というくらいの状態でした。
ここで改めて会社を回す、というのはこういうことなのか、 ということを実感しました。

そこを乗り切ってからは比較的順調で、今に至ります。