第09回 塚田 寛一氏 vol.2 (1)

第09回 塚田 寛一氏 vol.2 (1)

笠原さんとの出会い。

塚田さんにとって、イー・マーキュリー(現ミクシィ)やペイメントワン(現GMOペイメントゲートウェイ)というベンチャー企業で働いたという経験はもちろんだが、笠原さんとの出会い、一緒に働いたことが、とても大きな意味があったようである。

「笠原さんと一緒に働いていて、彼は本当に事業センスがすごいなと、僕はこの人のようにはなれないなと思ったわけです。ファインドジョブという事業を97 年から作り始めて育て上げ、そうこうしているうちにmixiを作って、瞬く間に大きなメディアに育てていくとか、そういうことは、本当にスペシャルな才能のある人だけがやれる仕事だということが分かりました。僕はそうじゃなくて、組織を作るということであったり、人をモチベートすることであったり、そういうところで貢献していくべきなんだろうなと思うようになりました」。

さて、尊敬する笠原さんの下で働き、自身の成長も実感し、充実した日々を送っていた塚田さんだったが、ひとつだけ、自分の中にやり残したことがあった。

それは、自分自身で「起業」することだった。

写真:塚田 寛一 氏

僕は「どう頑張っても、笠原さんのようにはなれない」
ということに気づいたのは、幸せなことだったと思います。
自分の生き方を決めることができましたから・・・。

「大学を卒業してイー・マーキュリーに入る時に、20代で独立して自分でやりたいという気持ちが、結構強くありました。周りには20代で成果を残している人がいっぱいいて、でも、僕はやっぱり運が良かったという部分があると思っています。イー・マーキュリーの最初の頃にジョインして、笠原さんや創業の頃から一緒に働いていて今は役員をやっているような人など、とても優秀な人たちと仕事ができて、自分が上げ潮に乗って成長できた。ただ単に運が良かったというか、そういう部分があったと思うのです。でも、そうではなくて、自分でやったらどれだけできるのかな?と、ちょっと試したくなりました。それをやるなら、やっぱり20代のうちにやりたかったという気持ちが1つにはありました」。

彼がそんなことを考えていた2007年6月というのは、役員として最初の任期が満了する時だった。次の任期を全うすると「30才」になる、そんなタイミングだった。

そして、もうひとつ、彼にとって大きな要素だったのは、純粋に「立ち上げ期(創業期)」が好きだということ。

その2つの理由により、彼は2007年6月をもって、ミクシィの役員を退任した。